ンさんが電話をかけてくれ、騒動を承知でお祝いのあんこのお菓子を一寸持ってきてくれましたが、これが災難の始りで、ペンさんはその夜はとうとう帰れず、夜中の二時に泰子を負って寝かしてくれるというさわぎでした。きっちり二十四時間もかかってけいれんがやっと下火になりました。十七日の晩は、ですから皆半徹夜で、私が菊そばへ電話かけたら、気分が悪くなってはきそうになりました。天丼は無事平げましたが。
 ざっとこういう一日でした。これはほんのあらましの話で、酸素吸入をするとか、それがないとか、注射をするとか、その針がないとか、バタバタで咲枝さんはよくぞ持ちこたえました。若しその時、パンクすれば生れた子はガラスの保温器に入れて育てなければならなかったのです。
 幾度か色々の十七日を経験しましたが、今度のは秀逸で一寸類がありません。
 今度のお産にしろ、こんな泰子を預っておまけに何時空襲があるかわからず、眼もみえないアッコおばちゃんとしては中々の大役ですが、それでも今のような私の体の調子で、若しこんなゴタゴタさえもなくて、手をつかね、どなりつけることもなく、眼のみえない自分だけを感じているのだったらば、どんなにつらく淋しく、従って回復も遅れたことでしょう。その点ではお産も結構です。泰子のひきつけは御免ですが。若し始まったら、今度はまさかピクニックもないでしょうし、空襲とかち合ったら、私がビタカンフル位|注《さ》して置いて先生を呼びましょう。
 ながくかかる回復の途上には、日常生活の動きが本当に大切です。「母の肖像」の例をひいていらっしゃるように。うちにびっくりする程人手がなくて、少し何かあると私の居るところの掃除は出来ない程ですが、その為に無理もあるけれど、体の調子によって細々と何かして気も紛れるし、体の力もつきます。私はそうして段々治って行く質ですが、寿江子は何だか調子が違ってそういうことはやれないのね。子供の時からの生活の調子が全然違っているからでしょう。それにああいう慢性の神経の弱る病気は、意志の力が実に弱くてだるさもはたにはわからないらしい程のようです。今居ないので留守居には困るようだが、家中の気分が単純化していて結局は休まります。
 私にヒステリー気味がないことをほめて下すって有難う。でもこれはどうもうちのなかでは証人をたてなければ額面通りには受取ってくれそうもありません。まだ私はかんしゃく持ちです。気が短かくなっています。胴忘れも相当します。そういうことは皆新しい現象です。しかし自分でもこだわらずだんだん物覚えがよくなれば治るだろうし、体が丈夫になれば根気も続くだろうと皆さんには御免こうむっています。(ペンさんはいい子だから、私の短気になったことを気付いていても抵抗しないでいるでしょうが、寿江子さんたら御飯の食べっぷりまでせっかちだと言うから閉口します)
 二十日のお手紙の反歌にはどういうお礼をしたらいいかと思います。どうも代筆の字では現わしにくい。実は私はこのお礼だけは自分で書いて差上げたいと思いましたが、でもそれでは折角の日頃のおっしゃりつけも無駄になるし。珍重という言葉はこういう時にこそ使われると思いました。堂々としていて率直で、すくなくとも枕言葉歌の類ではないし、私にとっては名歌だけれど、あんまりほめるのを書いてもらうのも何となし、体がポッポとするわね。
 ○冬シャツは調べてもう一組お送りしましょう。
 ○年鑑は承知しました。
 これからは成るたけ色んな細い毎日のことをお知らせしようと思います。去年の十二月から十ヵ月引きこもり生活をしてわずかな時間だと思ったのに、昨今ではその間に世間がまるで変って、私は色々なことで自分の間抜けを知ります。例えば四月の第一回の空襲を特別な条件で経験したということは、何か私のなかにセンスのかけたところをこしらえていて、土蔵などについてもとかく平面的に(火事という風に)考えて、天井からぶち抜く力があることを知っていて、つい知らないようなものの考え方をします。戸台さんが三十七歳で花婿になって赤ちゃんがやがて生れます。お祝いをあげるのに茶ダンスを考えて、私達にふさわしいけちなのが三十円もしたらあるだろうと思ったところ、ああちゃんやペンさんに一笑にふされてしまいました。そういう名のつくものは五十円以上で、タンスの極く悪いのが百五十円。二十三円でタンスが買えた時以来、私はタンスというものを買ったことがないから本当に驚きました。今は銘仙夜具が一揃えで二百円もする様です。何しろあんな格子縞のが表だけ三十円で、やっとそれもそこへ落付けたという次第です。常識の補給にこんな話も致します。栄さんが鷺の宮へ家を建てて十年年賦で一万数千円だそうですが、制限内の三十坪何合で家をみるとしゃくにさわるから、外をみていると景色はいいという話です。
 この間の手紙に入れたコスモスの花はどうしましたろう。御覧になりましたか? 秋の花らしかったから入れたのだけれど。今日はたっぷり書いて少しまくまくですから、ではこれでさようなら、ね。

 十月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 福沢一郎筆「海(三)[#「(三)」は縦中横]」の絵はがき)〕

 手紙に書きもらしましたから一寸。多賀ちゃんから先程手紙で、病気は何でもなく保健所でレントゲン透視をしてもらったら、どこにも異状なしでしたそうです。柳井の組合病院でもレントゲン写真を撮ったところ、これまで病気したあともなくて大変きれいだと言われたそうで大喜びして居ります。肺尖という診たてはあやまりだそうです。本当にされないように喜んでいるし、私達も如何にも気が軽くなって嬉しゅう御座いますね。

 十月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十月三十一日
 もう十一月とは何という早さでしょう。去年の十二月から今日まで、殆んど眼と鼻の間なのにもう今年が終るとは。誰でも今年はひどく早い一年だったと思うでしょうね。私にはブランクの時がはさまっているから、早さも特別に感じられます。
 二十九日附のお手紙、三十一日午後頂きました。
 今頃はもう後の手紙も御覧でしょう。
 夏蒲団は昨日どてらを届けた時持ち帰りました。毛布、下ばきも届きました。毛布はもう洗濯に出しましたが、恐らく一ヵ月以上かかりますからどうぞそのおつもりで。下ばきは惜しいことをしましたね。あんないい薄い毛のものは、全くどこにもないものです。それが虫喰いだらけで丸でイルミネーションみたいに日光をすかすのを眺めると、さすがの私も「まあ、きれいね!」というより先に「あらアー」と情けない声を出しました。しかしとても捨てることは出来ないから、何れ一つ一つをつくろいましょうが、人に頼めるものでもなし、まあ来年のお楽しみね。あれを一つ一つつくろったのが届いたら、それは完全に豚妻の眼がよくなった証拠といえましょう。
 用事帳云々のくだりは特に二人で眺めて合称[#「合称」に傍点]しました。その帳面のこちらの名は「ジゴクノテチョウ」と赤鉛筆で書いてあって、特に赤いリボンがつけてあります。アラームの意味です。忘れるとベルでも鳴ればもっと調法でしょう。(そしたらペンさん曰く、私の三角の袋の中でビーィンなんて言ったら厭だなあ)目録のこと取計います。訳註の本のこともして置きます。この御注文は嬉しいと思います。
 栗林さんの支払いは受取りがあって、こちらで少し余分に払ったものだから、お釣りを切手で寄越してくれました。
 富雄さんへの本は新書を三四冊みつけます。新しいのは中々手に入りませんから、手許にあるのを。大抵『アラビアのロレンス』『今日の戦争』『北極飛行』『阿部一族』『高瀬舟』等。
 お友達への本代のことは心にかけていますが、そちらからのも手をつけずにとってあって、反って厭だということなので、子供さんのものや何かを送ろうと思います。暮までに金額にしてどの位のものが送られているか知らして頂けたら、子供へ上げるものもそれで見当がついて便利ではないでしょうか。
 スタンダールは、すっかり読み返してみようとしていたのに病気になってしまいました。たしかに相当の作家です。「ナポレオン伝」などをみても、それを書いた動機がやはり一つの気力で、ナポレオンの没落後、パリの社交界人が、ナポレオンとさえ言わず、ムッシュウボナパルトと言って、極く卑俗な自分達のぬくもった利害の見地からばかり批評しているのをみて、ナポレオンの歴史的な価値を再認識しようとしたものでした。けれども「パルムの僧院」で、スタンダールは一人の人間は事件の局所しか目撃出来ないという現象にとらわれて、そこに文学の写実の意味をおく一種の間違いをおかした通り、ナポレオンについても彼が帝位につくに至った勢いについての評価は決して紙背に徹してはいません。
 掛蒲団は「暖かそう」とあるのでホッとしました。随分四角いでしょう! でも赤いボタンは可愛いでしょう! どうぞあんまり蹴破らないで下さい。どてらが送れたので思いがけない人が胸をなで下しています。国男さんがこの間内、暖かいどてらを着ていて、それをみると私がそばへ寄って、なでてみて「あったかそうね」というものだから、気味を悪がったり気の毒がったりで閉口していました。これから寒い晩があってももう大丈夫です。国男さんは安心してどてらをきられます、なでられないから。
 今日ペンさんが、三井洋画コレクションにあるラファエリー作の「大通り」というクレパスのようなこの人の発明したもので描いた絵の写真をくれました。色がない写真だけれど、いかにも田舎の町の大通り、パリへ続く郊外の大通りの落葉した時節の明るさ、冬のやわらかい陽の明るさ、が雰囲気によく出ていて、傍に插した山茶花《さざんか》の花とよく似合います。この次もう一枚出来たらお送りします。山茶花といえば大抵ほんのり花びらが赤いものですが、真白い山茶花が咲いていた小さい庭を覚えていらっしゃるでしょうか。
 パリといえば緑郎から昨日八ヵ月かかって手紙が来ました。フランス語でない切手がはられて、二つのセンサーを通って。結婚の話が要件で、あちらで知った日本の娘さんで声楽を勉強している人、カネボウの重役とかの娘で、小さい写真が入っていますが、ちっ共悪くパッとしたとこのない、やっぱりどてらの苦労もしそうな人で、皆いい点をつけました。娘さんの方では、何かの便利でもっと早く親へ手紙を書いていて、お母さんが咲枝に会いに見えました。声楽と言ってもJ学園から始め留学させられていたので、本当の芸術家ではなくてそれは体の形にも現われています。あすこは金持の少し才能のある娘を親ぐるみでおだてて、あっちこっちへ留学させ、とどのつまりは学校のスターを作る流儀だから、始めはそれで行って苦労している内に、幾分かそのわくからはみ出たのでしょう。緑郎も三十で相当に色々見聞して、ああいう地味らしい娘さんをみつけたのならまあ安心というところでしょう。十月二十八日が咲枝さんの出産予定日でしたが、本人の予感では、十一月三日の夜らしいそうです、アナオソロシ。赤ん坊は男の子らしいそうです。母親が赤いものばかり欲しがる時には男の子だそうで、咲枝さんの蒲団と枕の赤さといったら少くとも私は微熱を発する程度ですから、多分すごい男の子なのでしょう。名はまだわかりません。女の子は桃子が可愛い名だけれども、字面が悪いので二の足をふんでいます。そうしてみると私の名はいい名ね。
 冨山房の本は、随分さがしているけれどもまだみつかりません。外交史の下巻はどうしたかしら? 聞いてみましょう。訳は一刻を争うから雑なものが多いのですね。うけ負仕事のようにやるから。いずれ送って頂いて私も読んでもらいましょう。十月一杯は一冊も本読まず、縫直しさわぎで暮れましたから。今月からは少し落着いて本が読んでもらえるだろうと嬉しゅう御座います。

 十一月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十一月三日
 三十一日附のお手紙今日(三日)頂きました。
 薬のことごめんなさ
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