もしれないわ。だって、ギリシア以来のあれこれをアカデミックであることも知らず余りうんとつめこんでしまうと、生活的感動そのものまで静的なものに化してしまったかもしれないから。ちっとやそっとの下剤ぐらいでは、おなかがきれいになり切れないかもしれないから。
 それにしてもドガの、ほんとのことという感銘の絵はいいことねえ。ヴァレリーの『ドガに就いて』という本がありますがどういうものかしら。この間レンブラントを一寸よんで、レンブラントが最後に一緒に暮した女をやっぱりサスキアを描いたように富貴の姿にして、そう幻想して描いたというところ、何だかわかるような下らないような。ねえ。どうして水色木綿の働き着を着て白いキャップかぶって、そして彼にとってなくてはならない女であったその姿のままかかなかったのでしょうねえ。何故「王女のように」飾るのでしょうねえ。レンブラントさんよ。
 林町からヴィクターの古いのもって来ようと云っていてなかなか実現しないものだから。
 それからね、私の左のひとさし指に、もしかしたら魚のめが出来るのよ。いつかとげをさして、そのあとが黒く小さくかたくなってまわりがすこし半透明になりました。
 中公の本の初校出はじめました。技術的な校正は、メチニコフのおくさんにして貰います。あのひとはそのことはよくなれているのよ。そして、傍ら索引をこしらえて貰うの。ざっとしたものでも。よむひとの便宜のために。メチさんは今お留守番で、いくらか収入があった方がいいのですから。市価は払うことにします。年表の娘さんのためにもいくらかためになってやれたし、一つの本の功徳はいろいろあるものですね。
 さアもうこの位にして、もう一息。ああそれからね、もう一つ。きのうの夜散歩して、私がちっとも散歩しないわけわかりました。やっぱりひとりだからね。ちらりと何か見ておやと興味ひかれるでしょう、そういうとき少くとも云うことのわかる対手と歩いているとちょいちょいそんなこと喋って、何だか自分でも印象はっきりして面白いのね、歩いてみるのが。目白の通りに一軒釣道具屋があって、その店には気がついていたのですが、ゆうべその店先に女のひとが坐って客と話していてその女のひとはやっぱりどこか下町風で、着物の縞の色や髪や横顔、ある印象があり、釣の伝統がその女のひとに映っているのよ。やや雪岱流でね。おやあの女のひと、と私が何心なく云い寿江子わかり、それで私、なるほど散歩になんか出ないわけだと合点したのよ。「御飯のあとなんか旦那さんと散歩してみたいところもちょいとある」但これは寿江子の申し条ですが。うてば響く対手がある二十四時間。ない二十四時間。私がまめに書くけれど、それはカイタモノであることを否定はし切れず、ね。いろいろねえ。五月蠅《うるさ》くもあるが寿江子もいていいわ、寿江子のためにもうちにいていいわ。では本当にもうこれでおしまい。
 中公の題はやはりなかなかいいのがなくて。「近代日本の婦人作家」となりそうです。これはいい題なのだけれど。ちゃんと年表がついて、サク引がついて。そういう本らしいことはわかっているのよ。四六版。校正 112 頁まで。では。床に入っていらっしゃるの? そしてかいまきの袖から手を出して何かよんでいらっしゃるかしら。暖いこと? 顔がつめたい、つめたいでしょう? つめたい鼻、でしょう?

 二月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(代筆 封書)〕

 今日は、おかしい手紙を差上げます。言葉は、お姉さまがベッドの内から云って居て、字は私が傍のテーブルで書いていると云うわけです。お姉さまはやっぱり風邪です。
 そちらの風邪はいかがですか、やっぱり、こんなに目と鼻が痛くてくしゃくしゃになって不便でしょうか、お姉さまが少し変な声を出して「熱が出たア」と云うから、おデコにさわってみると、そのオデコは私の手よりも決して熱くありません、「冷イー」と云うと、嬉しそうに笑います。つまり、熱もないし、御機嫌もよいし、味噌汁のおじやもよく食べますが、起きて仕事が出来なくて、弱っているわけです。
 予定では今日全快の筈だったけれど。寿江子がいるので、便利です。(邪魔ニサレルコトダッテ度々デスヨ! スエコ)一寸待ちなさいと、云って何かゴチョゴチョ書き込んだようです。
 今日は三通目の代筆で、この間うちから寿江子が手紙を上げる上げると云いながら書かないから、一つ掴えて、代筆させて、姉さん孝行ぶりと、お見舞とをかねさせます。
 あんまり孝行した事がないので、どっちの字が上になるのか、まごついたようです。(姉サント云ウモノハ怪《け》シカラント思イマス。スエコ)
 寿江子は、夜ねしなに入浴すると、眠りにくいので、もうソロソロお風呂に入ります。出たらばどうせクタクタで、代筆どころの騒ぎでないから、今のうちに一筆。
 家の床の間はしゃれていて、小さい穴が一つ有って、そこから夜中には風、朝になれば朝日が差込みます。今夜はそこを塞がなければなりません。目じるしに今は細くさいた原稿紙のはじがメンソラでちょいと付けてあります。

 三月四日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月三日  第十二信
 ああ、やっと! やっと! という心持でこの手紙をはじめます。だって、この前私の書いたのは十一日ごろです、そして、風邪で臥てしまって寿江子の代筆で、それから血眼つづきで一日にやっと『新女苑』の小説27[#「27」は縦中横]枚わたして、二日には(きのう、よ)あの氷雨の中を横浜まで出かけ、かえり寿江子のことで国が用があるというからまわって、けさおきぬけに大森の奥さん来で。本当にああ、と云いながらぺたんとあなたの前に坐ったような恰好よ。(寿のことは何でもないの、あとでかきますが。いつぞやのことなどではなく、ピアノ買う買わぬのことよ)
 きょうは、おだやかなお雛さん日和です。うちにも桃の赤白の花と、小さい貝の中に坐っているおひなさんを飾ってあります。私の風邪は大体ましで二十七日ごろから仕事しはじめましたが、疲れが後にのこっていて、そこへきのう四時間も独演だったのできょうは些かおとなしい状態です。もう鼻の奥の痛いのはなおりましたから大丈夫。眼も大丈夫。
 あなたはいかが? 二十七日に書いて下すったお手紙、速達頂きました。すぐ森長さんへ電話いたしましたが、どうだったかしら、日曜日に行かれましたかしら。今の風邪はあとが大変長びきます。呉々もお大切に。
『フランス敗れたり』あれで大観堂は一財産をこしらえたそうです。歴史の何の真のモメントにもふれていない。ふれ得る男でない。それでも、世界がどう動いているかを知りたいという思いのピンからキリまでが、ともかくよむのね。良書として紹介したりしてあったりします。この間『帝大新聞』で今日の読者と作家とのことをかいてくれというので、私はたとえば『フランス敗れたり』を作家がどうよむかその読みかたにおいてそれぞれの作家が所謂読者として考えている人々と、どういう相異をもち得ているか、今日では読者の問題は、作家にとって、自分がどういう読者であるか、という点に省察されなければならないということを考えました。もとのように作家対読者という関係でだけ見て、読者の質が下った下ったと云っていたのでは、作家自身自分も半面では何かの読者であってその面でどんな読者であるかということを考えるきっかけを見出さないわけですから。そして、文学が創られてゆく過程では、下った質の読者に追随するのがわるいとして、では何処から自立的な作品を生んでゆくかと云えば、つまりは作家がどういう質の読者であるかということにかかって来るわけでしょう。ここいらのところがなかなか微妙で文学にとって極めて本質的で、面白いわねえ。いろいろの面とのひっかかりで、文学の文学としての自然な自主性が云われているけれども、作家として問題にすれば、窮極のところ、そこが要のようなところがあるのにね。
 二月はそれでもなかなか能率的であったと思います。『婦人朝日』の小説二十二枚。それに『新女苑』のが二十七枚。『帝大新』が十枚。そのほか婦人のためのもの二十枚ほど。小説を二つはがんばったでしょう?『新女苑』のは杉子という女主人公で、その題です。これは女大ぐらいの女学生の生活からの物語です。
 中公の本の初校、もう殆ど終り。さち子さんが技術家ですからやって貰って、今夜あたりから私がそれを又見てすこし手を加えてわたします。索引がもうじき出来ますし年表も略《ほぼ》完成して居ります。十日ぐらいまでにすっかりまとめて表の原稿もわたしたいと思います。題のこと、つまりそうなりそうです、どうもいいのがないのですもの。変に弱い題でもこまるし、余り抽象的でもこまるし。私の心持で一番はじめの題は面白いと思うのです。いきなり幅は感じられないけれど、奥ゆきは在る題です。間口が大きくないけれど、扇形にひろがった感じの題ね。
 太平洋の波もピンチながら、三角波を立てているというところでしょうね。ルーズヴェルトの一日というのがあって(雑文よ)朝九時から生活がはじまって、事務室までゆく道は車付の椅子にのって運ばれて、(このひとは小児痲痺をやっているのですって)五時すぎまでみっしり働いて、それから九時すぎまで大いにくつろいで、寝室には石でこしらえた豚が三十ほど、いろんなものでこしらえた驢馬《ろば》が又うんと並べてあって、馬の尻尾の剥製が一本飾ってあるのですって。その馬は彼の父の愛していたレース・ホースでどこかに売られてゆく途中汽車の事故で死んで、尻尾だけがのこったのですって。それを飾ってあるのだって。
 チェホフのヤルタ(クリミア)の家を見に行ったら、そこは今博物館なわけですが、書斎にいろんな人の写真が飾られていて、机の上に象牙の象の群を飾ってあって、何だか面白く思いました。私の机の上が、今あるまま公開されたら、オヤ、このひとの机の上には小さい琉球の唐獅子夫妻と、妙に思案したような形の茶色の小熊とがのっている、と笑うんでしょうね。仔熊は花の下に今日は居りますが、何かのはずみでずーっとはなれたところに餌でも拾っているようにおかれています、主としてお恭ちゃんの御気分に、或はハタキの都合によるわけです。そう云えば動物が多いこと、文鎮は山羊ですから。仕事机に小さい動物や花は休[#「休」に「ママ」の注記]るのね。写真なんかは迚も駄目と思います。
 そして、ルー爺さんは一週三回の水泳と毎日四十分のマッサージとをきっちりやっているのですって。この間うちの選挙のときの写真を見て、あの遊説をよくやるとびっくりしましたが、日常生活を実によくやっているのね。それだけ体を大切にしている――仕事を大切にしているということは、只贅沢な手入れをすきなほどやっているということとはちっとちがいますね。ユリの早ね励行のことも、あだやおろそかではないわけね。とにかく徹夜はしないでやりくって居ります。おかげさま、で。そしてそれが絶対に必要であることは益※[#二の字点、1−2−22]明かです。
 きょうからお恭ちゃんは、月・水・金と近所で洋裁の稽古に通います。六時からはじまります。御飯がすっかりくり上ります。でもマアいいやと思うの。夜がそれだけのびますから。六時―九時。歩いて十分以内のところで大通りです。目白通りの先の左側の交番ね、あのずっと手前ですから。はりきりです。ああいう気質の娘は大変むつかしいのね。この頃いろんな調査表がまわって来て、お米にしろ、家の中の成員をかきます。そのとき女中さんでは絶対にいけないのよ。それが、いけない感情のよりどころが下らないところなのだが、それはうんとつよい。その洋裁の願書でも私とのつづきがらというところへ、私の友人の妹と書くのよ。ほっとした顔しています、そう書いてやったら。こんな気持。一事が万事です。今の若い女の子の心持という部分と、このひとのものと半々ね。なまけもののところがあるから、自分のやりたいこと一方にしていればそのことのためにくされないでしょう。ひとを置くこともあれこれと、
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