ね。
 さて、ピアノの物語ですが、それは開成山の小学校にピアノを昔寄附したのです母たちが。古いのを。それがガタガタになって、この頃は郡山に放送局も出来たしなおしてくれと云われ、それは千円もかかりしかも命は五年というのでそれに一寸足してホールゲールというのを買ってやって、国君はピアノと云えばこちらへ来る話を区切りたいのね。寿江子は自分の持っていないから、そして、自分の商売道具だから、そんなところへ買ってやるんなら自分に、という神経にさわるところもあるらしい。父がいれば自分の方を買ってくれるんだのに、そう思うところもあるのね。国ちゃんのいい心持になってお辞儀されるのがすきさからと思うのでしょう。まだ田舎での立場の辛さわからないところがあって。それで、私に相談というわけなのよ。ですから私から間接に話すなんて、水臭いことせずに、寿江子に自分から話して、寿江子の今使っているのでコードの切れたところをなおしてやる、今はそういうことにしておくと、あっさり云えばいいということにしてうち切り。
 寿江子は不仕合わせに育って、ひどく浪費的です。自分で知らないで。だから、ピアノなんて、買いなおしたり出来|ない《にくい》ものでも、使うのを大切にしないで、それは又国が正反対にラジオでも何でも大切にやかましくつかう気質とぶつかるのね。仕事のものをどうしてこう荒く粗末にするかと、私もその点では腹が立つ位。ですから国とすると、直してやるのも張合いがないっていうの。でもね。私に相談する位気を使ってやるなら、自分の気持として直してやるんだから、直してやれということに決着いたしました。こんなところ面白いでしょう? 兄妹で、気質の肌合いがちがうと、その微妙な触れ合いで何となしうまく行かないところがあるのね。本当に寿江子はいいところ多分にあり、芸術のことよくわかり鋭いのに、そういう生活に対して懇《ねんごろ》でないところ物に対しても主我的なところがあって、妙ねえ。境遇から来たものとしても。いくらかずつ、直ってはいるけれど。小市民風のこせつきの代りに、ちっとかさの大きいそういう荒っぽさがあるのねえ。そして、今日、彼女の現実の能力はそのかさ高な荒っぽさに充足しきれないのだから。国なんかの眼に、かさばる面ばかりしか見えないのねえ。性格のスケールの相異というものはむずかしいのね。寿江子の方がスケールは大きいのよ。ところが、そのスケールが生産的に創造的に発揮されるところまでなっていないのですね。だから普通の娘から見るとずっと生きにくいのよ。そして、普通の人々は、だから成たけ早くそのスケールが正常に発表されるような方法手段を養い育ててやろうとは観察しないで、かさばりの面だけ特に女の子についてはいうから、寿はシニカルになって、この同じ自分がいくらか金をとったり世間からチヤホヤされたら忽ちピアノだって買おうといったりする気になるんだろうと見るわけです。それが又当ってもいてね。自分で人間の評価の出来ない人は、ぐるりの評判で、自分の判断とするのですから。仕事が金にならなければ、そのねうちを評価しないというところ迄常識は金に買われてしまっているのねえ。ですから私は、全く沢山の若い女のひとたちに同情いたします、金がその仕事でとれるようになったとき誰の助力がいるでしょう、ねえ。金にならないうちこそ助けがいるのですもの。だから私は金のとれないとき(時代)、助けを必要としている若い女のひとにどうしても冷淡になれません。女には投資として仕事をさせるひともないわ、投資すれば常にそれは女[#「女」に傍点]に投資するのです、仕事へではないわ。これは大略、世界の女の苦しみでしょうね。
 そう云えば栄さんが『暦』で新潮賞一千円也を貰います。そして、いろいろ計算すると、借金をかえし貸金をさせてやると、五十円ほどのこるそうです、それで私たちに御馳走をしてくれるそうです。中野さんが『三田新聞』に『文学の進路』の書評をかいてくれました。この本は面白い本である。本の形は小さい。けれども読むと中味において大きいという本である。大きいというより誇張にとられても困るけれども、一種壮大なところのある構造物といった感じの本である。そんな風な書き出しです。『都』に『第四日曜』の書評が出ていて、ぎごちなさや固苦しさやがあるけれど心にふれて来る作品集とあり。ぎごちなさ、かたくるしさというものについていろいろ興味ふかく感じました。ここにいろいろ面白い問題がふくまれているわけですから、芸術家の課題として。そして、客観的には、その動機が何であれ、かたくるしさとしか読まない読者が読者なのでありますから。小説は面白いことねえ。くるりくるりととめどなく流暢になることではなくて、云ってみれば、ぎごちなさそのものが美の魅力となるまで作家の努力はつづけられなければならないわけですから。それには、たとえば文章のテムポというようなもの、テムポが平均人の頭脳的情緒的リズムに合うように存在するということ、そんなことも又決して無視出来ず面白いと思います。説得する力というものは文章の中にあって、単に筋の明かさ、否定しがたさばかりではないのね。「杉子」その他では、この面で関心が払われているのですが、どういう結果でしょうか。小説でもわかるように云う、云いあらわすということで、或場合、決して作者の自然発生な表現のままでは不十分ですね。低くなるということとは別なわからせてゆく力、いろいろな要素からそれは出来て居ります。特にその作家が、常識の波調のままの情緒でものを云っていない場合、ね。
 この間、私が余りいそがしくて詩集くりひろげるどころでないかい、と笑っていらしたわね。或意味では反対ね。一日に仕事終ったときなんか、詩集をくりひろげその頁の間に顔を埋めたい気持でした。あなたはこの頃どの詩を御愛誦でしょう。私はよく「季節の思い出」「アンコール」「よろこばしき病のように」などをくりかえし読みます。「季節の思い出」の中の「口紅水仙」覚えていらっしゃるでしょう? 口紅水仙の花弁のなかにはもう一つまるく敏感な紅のふちどりの花びらが抱かれていて、春の初め、漸々水仙が開きはじめの頃、待ちどおしいやさしい指にふれられて、新鮮なその感触に花びらは戦慄しながら次第次第に咲きほころび、匂いたかくなってゆく描写。それから「よろこばしき」の中の空気の中に鳴るような一節、「ああこれは何かの病気だろうか」といういのち溢るる詠歎。この「よろこばしき」の格調は一度よむと、もう耳につき魂について決して忘れられない美しさね。どうしてあんなに美しいのでしょう。ほんとにどうしてその美しさはいつもまざまざと描き出されて、うすれるどころか印象の中で一きわ光彩陸離となってゆくのでしょう。そこが芸術である所以でしょうか。「泉」の描きかたにしろ。ねえ。それから「木魂《こだま》」という、あの可愛らしくて真実みちたソネット。森の中で――忘れておしまいになったんでしょう?――一人の少年が爽やかな早春、一匹の栗鼠《りす》を見つけ、おやと眼をみはります。その栗鼠は不思議と、余り遠くへ行かずやっぱり眼をパチクリさせて少年を見ています。ふっと少年はその栗鼠をつかまえようとします、栗鼠は逃げます、でもふりかえりふりかえり逃げて到頭、それは少年の二つの手につかまります。何と可笑しい栗鼠でしょう、その手の中から逃げようとしないのよ。少年は笑って、いいかい、もう決して離さないよと心持よさそうに叫びます、するともう決してはなさない、とどこからかもう一つの声が答えるの。どこからかしら、少年は栗鼠がいうのかしらと思うの、もう一度ためしに、いいかい、もうはなさないよ、そういうと、どこかで又もうはなさない、というの。それは木魂でした。少年はリスにつかまったのでしょうか、それともリスが少年につかまったのでしょうか、森の木魂は何と答えるでしょう。そういう物語。「季節の思い出」は風景がゆたかで全く飽きません。「仮睡」というの、これもあなたはあやしいわね、そっくり覚えていらっしゃるかどうか、夏の部よ。牧童が泉のほとりへ来かかります、せせらぎながら溢れこぼれる泉にひきつけられて、喉のかわいている牧童はそのゆるやかな丘の斜面に体を伏せ、芳しい草をかぎながら、口をつけて泉をのみます、甘美な泉に満足した牧童は丘のなだらかな線に体をまかせたままいつの間にか眠ってしまいます。いつしか日が沈み、白い月が夕暮の中にさしのぼり、しかし、丘も泉も牧童も夏の生命の横溢の中で一つの影にとけ合って、やはりまだ眠っている。この叙景は非常に典雅で而も健やかで、音楽的です。やさしいメロディーの旋律が插画のように入っていたでしょう? 私のところにこの集があるのにそちらに別なのが在るの、ほんとにおしいことね。あなたは風邪でいくらか御退屈でしょう? ですから、詩の一篇一篇を、そこにひろげてお目にかけたいと思います。では明後日。面白いわ、大きい字は遠いよう、小さい字は近いよう、ね。

 三月四日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(速達 封書)〕

 大変おそくなりました。例の謄写代の内わけ。
 逸見上申書       四通  三・一八
 同 上申        二通 二七・二八
 宮本公判期日変更願其他 二通 一一・九九
 木俣鈴子 上申書    二通
                一四・八五
      公・調    四通
 袴田上申書       二通 三二・一六
             計  八九・四六
 右のうち、木俣上申書二通の中一通。公調四通中二通、計三通分をこちらで支払い。(7.50)

 これでわかりましょうか。それとも例のひどく重複の分。
  合計 一九二・〇六也の内訳
 木島一・二回公判調書 四通 四七・五二
 同 三・四      四通 五九・一八
 袴田上申書      三通 四四・二二
 同・公判一二三回   四通 四一・一四
 それに対して、十円三十銭だけ支払えばよいということでした。前に一一〇・四〇支払ったのこり分として。どういう勘定で、今回はその金額が出たのか存じませんですが。
 この前に私の手紙で、その他と略したのはこの分ではなかったでしょうか。
 あとは速記で第一回が重複していて取消。西村マリ・加藤の件で重複して取消あり。
 これで分れば大いに結構ですが、いかがでしょうか。どうもあやしいものね。とにかく大変おそくなってすみませんでしたが、とりあえず。

 三月十日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月五日―十日  第十三信
 きょうは久しぶりで蓬々拝見してうれしゅうございました。余り蓬々だから顔の色がいくらか蒼く見えましたけれども、それは熱っぽくなくなった故なのね。そうして見ると、この間うちはほんとに火照《ほて》った顔していらしたこと。気持わるかったのでしょうね。うまくお癒しになっておめでとう。あとがなかなか疲れますから猶々お大事に。
 今かえって来て、佐藤さんの行坊とちょいと遊んで二階へ来たところ。お恭ちゃんが、そろそろ稽古に出かけるので、盛にカチャンカチャンバタバタをやって居ります。月水金は夕飯ひとりよ。まだ馴れないからいやです。私はこの頃ひとりのきらいなことと云ったら猛烈です。
 島田の赤ちゃんの名、志郎とはなかなかいい名ね。宮本志郎。わるくないと思います。美津代でしょう? お母さん、およろこびになるでしょうね。美津代でも志郎でもいいから元気で丸々として明るい子が生れるといいことね。私は実に繁昌よ。行坊、あのメチニコフのところの伸一郎、あの看護婦さんだったバラさんが二日にデコ坊を生みましたし、ほかの友達のところで最近一人生れるし、既に二人の女の子がいるし、林町、中野卯女、康子、ターンその他、無慮十二人は私にお人形だの犬だの猫だのを思い出せるのですもの。子供たちのこと思うと、大きい庭と長い廊下がほしいわね。その廊下をドタドタかけたりかくれんぼしたりさせて見たいと思います。十五年も経つと健造はもう二十七歳ぐらいよ。大
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