ました。国だってあすこから行けるところがどこかになくては困るのだし、私にしろ、やはりいざというとき家を放ぽってどこかへ行ってもしまえないから。隣近所に対しても。ここから奥の方でいくらか森でもあるところにすこし心がけておいて、やはりここは動かないのが落ちでしょう。留守いと云ったって、自分の家をすててひとの家の留守をする人は居りませんものね。ひどく困りそうだったら、或は戸台さんでも来て貰うかもしれず、それはあのひとがひとり暮しだからというわけなのですが、いずれ御相談いたしましてから。目下のところは現状のままとしか考えて居りません。
きょうお送りした分。すみませんが、あれが九月から十二月迄よ。あとには全部全部であれと同じしかないのですが、まあどうにかなるでしょう。とにかくかつかつながら、そちらが本年じゅうもてばいくらか気が楽と申すものです。不意なことが起ったりして、小さい水たまりは瞬くうちに蒸発してしまいますね。フッ! そんな速さね。世に迅きもの、稲妻と匹敵いたします。
『私たちの生活』あれとして気に入って頂けて嬉しゅうございます。ああいう風にして集めると、又別様の趣が出ますね。この次予定されているのは、あれとも亦ちがって、ノート抄とでもいうようなものにするのですって。(本やの名今一寸思い出せず、名刺みなくては)それも面白いでしょうね。たとえば日記から、手紙から、メモから生活、文学いろいろの面にふれたものを収めてゆくのね。勉強不勉強もわかるというところがあって。全然新しいちょいちょいしたもの、たとえばこの間野原で見て来た夜の光景だのもそれには入りますから、きっとやはり面白いでしょう。
それはともかくとして八・九は筑摩の仕事です。さもないと、ユリの河童の小皿が乾上りますからね。そっちがこの仕儀に到ったので、ぺちゃんこにもなっているわけです。書きにくいことねえ。実に何だか書きにくい。こんな仕事早くしまって小説をかきたいと思います。第一次の欧州大戦のとき、あの五年間、ヨーロッパのいろんな作家たちは大抵その間まとまった仕事出来なかったのね。すんで、落付いてから。そういう気分が誰でもを支配していたようです。しかし今日はどうなのかしら。少くとも私たちは、済んで落付いてからという風に考えては居ないのが実際です。仕事をつづけてゆく、非常に強壮な神経の必要というものを感じて居りますね。作家の成長のモメントがそこにひそめられている、そう感じます。成長ということは徒らな順応のみではない、そこも面白いところですし。小林秀雄が、歴史小説について、歴史がひとりでに語り出すのを待つ謙虚さが大切ということを云って居ます。人も問うに落ちず語るに落ちるではないか、と。こういうひとの考えかたは、どうしても、白髪になってもやはり髄ぬけのままなのね。尾崎士郎は庶民にかえれ、と云っている。精神を庶民の精神にしろ、というのですが、そこでは受動性の肯定で云われて居ります。文芸面もそういう工合です。
病気の手当法についてのお話。どうもありがとう。私も日頃そのつもりで居ります。それがいい方法ということが確められて一層ゆとりが出来ます。でも急病になんかかかりたくないことねえ。まして疫病で死になんかしたくないことね。この頃の豆腐は恐ろしいのよ。極めて悪質の中毒をおこします。うちでは、この豆腐ずきなのにたべません。出来る用心は細心にして居るわけですが。
重治さん茂吉論も駄目でしたって(中公)。
筑摩の仕事をすまして見てその頃の状態によって、暮しかた考える必要があるだろうとも思って居ります。
きょうも昼間は大分暑うございましたが、風は秋ね。秋が待たれます。十分夏らしくないくせに体にこたえた夏でしたから。
お愛さんという娘はこういう娘としてはましの部よ。いろいろまめにいたします。ひねくれていません。月曜日にはお愛さんをつれて林町へ行って、泊って、寿江の荷造り手つだいます。
八月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月十三日 第三十五信
お手紙けさ、ありがとう。本当に今年の天気はどうでしょう。私も汗の出ないのには今のようなのが楽ですが、でも心配ね。こんなひどい湿気は決してあなたのお体にもよくはないでしょう。つゆ時と同じですもの。
きのうは、夕方八重洲ビルへ行って、国男と寿江子と紀とで夕飯をたべました。国さんの誕生日でした。天気があやしいので雨傘をもって、無帽でバス待っているところを眺めたら憫然を感じました。髪の白いのはかまわないが、ふけたこと。あなたなんかどんなに見違えになるでしょうね。私の弟だと思うひとはないのも無理ないと思います。余りひどく呑んだりすると、あんなに早く年とるのかしら。衰えているというのではないのよ。精悍なのですが、輝き出しているものがないというわけです。一昨年の誕生日には咲枝の兄夫婦をよんで庭で風をうけながら夕飯をたべて、夜なかに咲枝が産気づいた年でした。その前の年はやっぱり咲枝たち開成山に行っていて、私が国男さんを神田の支那へよんで、緑郎とおもやいでゾーリンゲンのナイフをおくりものにした年でした。きのうもね、国男すこしほろよいなの。寿江子一緒にかえりたがらないで一人で市電にのってかえしてしまって、私たちは省線迄歩いて。そんなとき私は国男が可哀そうでいやあな気になるのです。ともかく自分の誕生日によんで、一人でかえるなんて。私はいつ迄も気にして、いやがるのよ、寿江子は。兄と弟とはこんなにちがうものと見えるのね、寿江子の方は、何だか妙にねっとりして来る兄貴なんかと一緒にかえりたくないのね、それもわかりますけれど。でも何だか薄情らしくていやに思える。さりとて私がぐるりとまわってかえるのも余り時間がかかるし。始終一緒に暮していると、あっさり先へかえしたり出来るのかもしれないわね。私たちはあなたも私も一番上で、弟たち妹たちしかしらなくて、その心持は年をとってもかわらず、却って年をとると又別のあわれさが出来たりするところ面白いものですね。親が、子をいつ迄も子供と思うの尤もね。あわれに思う心というものの面白さ。
ゴッホがこの頃妙な流行で読まれます、「焔と色」という小説を式場が訳して。弟のテオというのがいてね、これは画商の店員をしているのが終生実に兄のためによくしてやっています。こんな弟は本当に珍しい。テオという単純な名が、その気質のよさをあらわしているようです。ゴッホのような個性の極めて強烈であったひと、病故に強烈であったところさえある人の生涯の物語が、今日の日本の人々によまれるというところもなかなか心理的に意味ふかいわけですね。個性というものを人間は失えないものだ、ということの証左です。
「女性の現実」の中の数字のこと。私あれをいろいろなもので見たのでしたのに間違えたのねえ。しかし、女の働くひとの総数はその位のようですよ。月給もそれは新聞の日銀統計で出たのでした。平均というのは、工業の熟練工で一番とるのが平均三百何円で、女の最高の平均が百何十円というのなのですが、そのことが分らないように書けていたでしょうか。最高でさえ男の半分しかとれない、ということをかきたかったのでした。
『ダイヤモンド』ありがとう。とっておきましょう、私が見たのは谷野せつの調査や新聞の切りぬきや年報やらでした。
私がこれから書くものをおっくうがって気がすすまないのも、この号令式がひっかかりがちだからだろうと思います。
「ケーテ」面白く思って下すって満足です。私は芸術家の女のひとの伝記がもうすこしあったら面白かったと思います、音楽とか絵とかね。本朝女流画人伝というものだって私が書いてわるいということはないわけでしょう? そういう仕事だって、やはり前人未踏なのよ。いろんな女がどうして女の業績全般に対してひどく無頓着なのでしょうね。発揮は私いつも輝とかいていたようです、これからは手へんにいたしましょう。光の方がいかにも自然にかけてしまっていたのです、でも世間から云えば当て字ということでしょう。
本当にあの本はともかく今というところですね。
持薬のこと。きのうはでも思いもかけなくいくらか手にいれることが出来て幸運でした。薬屋さんも親切なのだとしみじみ感じます、全く苦面してくれるのですもの。粒々ありがたくのみこまなくてはならない次第です。
派出婦のこと、困るのは経済上の点です。ほかのひとを置かなくてはならないなら、この人がいいという人柄で、珍しく縫いものもすきでやっています。縫物が好き、というような人は珍しいのよ。常識的家政学からいうと、派出のひとを今置いておくなんて狂気の沙汰ですが、私は仰言るように背水の陣をしいて筑摩の仕事をしようと思うので、そのためにはやはりいて貰わなくてはなりません。家をあけて、どこかへ行ってしまうことも出来ず。いつものことながら暮しの形はむずかしいので閉口です。菅野さん母子も満州にいる父さんからもし為替が不通になった場合、義兄さんが扶助するのでしょうし、こっちと一緒にグラグラでは困るし。この頃は食料の買い出しだけで一人分の仕事よ。朝のうちパンの切符をとり魚やを見て予約しておいて、午後パンを買いにゆき、八百屋の切符とっておいて次の日買うという有様で、お菓子でもすこしたべようと思えば一日じゅう一人は歩きまわっていなくてはならないことになります。だからうちなんかいつもうまい買物はのがしつづけです。何しろこの間はそちらのかえりに、あの界隈で古ショウガを三銭買って来て大威張りという有様です。思いもかけず、米沢の方から一箱胡瓜、ナスを貰って大ホクホクという有様だったり。
郡山へは必要上、年内に一遍行かなければならないでしょう、整理しなくてはならないから。寿江子咲枝はそういう点では実に散漫ですから。あのおばあさんはそうよ、政恒夫人よ。運という名をつけるのね昔のひとは。開成山の家の上段の間の欄間に詩を彫りこんだ板がはめこまれていて、それにはじいさんが開拓した仕事のことが書いてあるようでした。いろいろ近頃になって考えるに、じいさんは晩年志をとげざる気分の鬱積で過したらしいが、自分が初めから青年時代から抱いていた開発事業への情熱も、まさしく来るべき明治の波が、底からその胸底に響いていたからこそだとは思わず、個人的に自己の卓見という風にだけ考えていたのね。だからあの仕事全体を、当時の全体につなげて考えられず、閥のひどい官僚間の生活が与えた苦しみを、すべて感情にうけて苦しんだのですね。じいさんの頃、生れが米沢で長州でなかったということには絶対の差があったのでしょうから。私たちにさえ、もしあのじいさんが長州出であったら必ず大臣になっていた人だと云う人があります。じいさんは生涯そんな妙な「であったらば」ということに煩わされたのね、可哀そうに。その煩いのために、自分の輪廓を却って歴史の中ではちぢめてしまっているように思えます。なかなかそうしてみると人は、自分の仕事を思い切って歴史のなかに放り出しておく度胸はもてないものと見えますね。歴史と個人との見かた、個人の生きかたを、そういうリアルな姿でつかめる人は少いわけでしょう。つまりは歴史の見かたの問題だから。
私は断片的に二人のじいさん二人のばあさんにふれて居りますが、いつかの機会にもっと系統だててしらべて祖父、父というものを歴史的に書いてみたいと思います。
室積の海の風にふかれていて、私はやはりそんなこと思いました。室積生れのおばあさん、野原の国広屋、それからそれへと。そして、その生活の物語を書いておくのはやはり私の仕事だと。宮本のうちの子供たちは、それをどんなに面白くよむでしょう。過去の生活の歴史を知るということは、人の一生が空虚でないということを感じて、少年にはいいわ。輝にそういう誰もしないおくりものをしてやりたいと思います。経済上の没落を、おちぶれと見ないだけ、おちぶれないだけの気魄をそういう物語の中からも知らしておいてやることは大切だわね。何しろアキラは、後代の子孫ですよ。オリーブ油を体にぬられて育て
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