接Yに会って毎日仕事していらっしゃるのではないから、やはり電話もしきりとかけるわけのところもあるでしょう、Tが間で、又それぞれ才覚を働かせもするし。
面白いでしょう、今石粉を一袋 1.10 売りました。めくらじまの野良着に合羽姿の爺さんで、石粉かどうかと散々念をおして、それからおつりに新しい五銭で三十銭やったら、ひっくるかえしてみ、とっくりかえしてみて、五銭かのうと云って、到頭どうしてもうけとらず、元のととりかえました。この頃はさいさい銭がかわるけに、わかりまへんで。というわけです。新しいおかね、もとのお金へのこんな感覚。お百姓の心持の生きた断面ですね。
私は、やっとこの二三日すこし落付いて、体の調子もよくなって来ました。今年の夏は、しかし不順ねえ。腸が変で薬のんでいたとき、あっちこっち同じような苦情でした。おなかは大丈夫でいらっしゃるかしら。ベリンスキー読んで居ります。「一八四六年の文学観」はなかなか面白いし、有益であるし、近頃愛読のものです。(だが、やはり著者の生きた時代の到達点というものを考えさせる限度をもちつつ。)
あら、又石粉が欲しいひとが来ました。今度は売れないわ、だって四十キロは一円十銭ですが、何合というようなのは分らないもの。今は何をつくのだろう、表をついたりするのに入れるのだそうですが。この間うちはらんきょうと梅をつけるのに塩が繁昌したし。らっきょうをらんきょうというのね。
私のかえるのは、勿論いろいろの事情とてらし合わせていたしますから御安心下さい。
ところで、きょう、ユリの左腕は惨たる有様なのよ、あわれ玉の(腕《うで》に非ず)かいなも虫にくわれて、赤ブツブツで、丁度この間の輝坊のようです。ノミは少いので、よろこんで御報告いたしましたが、ここにも今年は家ダニがいます。全国的なのかしら。東京は南京虫のいるところは凡《およ》そどこときまっていたのが、相当どこにでもいるようになったし家ダニが又あっちこっちに発生しました。去年ぐらいから。去年はここにこんな悪虫はいなかったのにね。ここに出来ると、家は古いし、退治が困難ね。ネズミにつくシラミですが、ネズミの体をはなれても殖えて、人間の皮膚をさすしもぐり込むのよ。いらいらと迚もいやにかゆくてなかなかなおらず、ひどい痕をのこします。おみやげは何にもないからせめてこの虫くい腕をお目にかけましょうね。これだってなつかしき故郷よりのたより、よ。赤紫斑入りの腕なんて、女房の腕として、あなたもお珍しいでしょう、きょうは見事なんだのに。惜しいこと。背中で蠅が盛に集団運動をやっています。蠅と云えばチェホフに蠅をとっている退屈な人の物語がありますね。あれはきっとタガンローグという彼の生れた町での見聞ですね。タガンローグの町には小さいチェホフの博物館がありますが、そこの中央ホテルという大[#「大」に傍点]ホテルには食堂がなくて、となりの食堂へ行くのよ。そこで美味しい魚の清汁をたべましたが、美味いも美味かったが蠅がひどくて、ほんとにスープたべているサジについて口へ入って来そうな勢なの、太ったおかみさんがいて日本の女が珍しいもんでわきにくっついて喋っていて、何て蠅が多いんだろうと云ったら、何だか陽気にうれしそうに笑いながら、ここの土地にはどっさりいますよ、と云ったわ。自慢していいものみたいに。その町の裏に出口のない湾みたいなアゾフ海があって、崖があって、人通りがありませんでした。あの博物館や蠅や、この頃いかがの工合でしょうね。大した犠牲です、全く大した。人間は進歩のために自身を最大に浪費するかと思えます。輝は、あなたが余り御ひいきなんで、家じゅうで大笑いしました。又くりかえしますが、男の児の男の児らしく、くっきりしたのっていいわねえ。見ていても愉快で、可愛いことね。男の児の男の児らしさ、而もその無心さ。やっぱり健康さには、この男の児らしさ、女の児らしさが、くっきりしているという点が伴うのねきっと。充実した自然のほほえましさが可愛いという感じに通じているのだわ。この子はほんとに一寸抱いてはいと見せてあげたいと思います。ひるすぎおばあちゃんと母さんのひる休みの間、よく輝は二階へつれて上られて、私の机のわきにねているのよ、そして眠っていることもあり、チュッチュッと音をたてて手を吸っていることもあり。
便通のこと、早速会議にかけましたら、この頃は大変よくなって、毎日一度は必ずあるとのことですから御安心下さい。うちの母さんは私が心配するぐらい、余り食べないんだけれど、ちょくちょく間にたべた方がいいたちだって、まあよろしくやってゆくでしょう。でも二三人子供もって疲れを出したりしないように、よく気をつけなさいと云っているの。骨細ですから。
汽車はこの頃実に通ります。先は冬の夜なんか貨車の音がガチャガチャンとしたりして淋しい村駅の感じでしたが、この頃は夜中にもひどい地響を立ててひどい速力で通ります。頭に響いて、いやあな気持で目がさめます。河村さんよく暮しているようなものね。村道も夜更けて、夜なかでも人が通ります。用事もふえた証拠です。手塚さんの旧い家をかりている医者が召集をうけました。あとはお母さんたちがかえられてから、達ちゃんの様子をお知らせいたしましょう。あしたは多賀子、冨美子とまりに来ます、私がかえる前にもう一度会いたい由で。もうあっちへゆくのも面倒だし。
きょうはむし暑くなりそうね。魚も何もなくて、茄子《なす》もないの、皆がかえって来たら何を御馳走いたしましょうね。おや肉を売りに来たわ。(いろいろの物音がきこえて面白いでしょう?)でもこっちにはこうやって肉があるから大したものなり。きゅうりにつめて煮てでもたべて頂きましょう、お母さんお好きかしら。
どうもきょうの天気は困りね、可哀そうに。広島で三人はどうしているでしょう。今一降り大きく降って、うちは二色の音楽よ、ピーン、トン、ピーン、とん。これは御仏壇の前の深いバケツに雨が洩る音。もう一ヵ所どこかでトン、トンと落ちているけれど、そっちの方はいやに陰性で、茶の間の私のところからはどこか見当もつきません。小さかった頃うちに硝子戸がなくて、雨が降ると雨戸をしめて、いくらか間をすかして、そのすかした間から吹きこむ雨で縁側がぬれると、私たち子供は面白がってすべって歩いたものです。うちの母は雷が猛烈にきらいで、どういうわけだったのでしょう、考えてみれば滑稽だけれどひどく雷が鳴ると子供を三人自分の膝の前へかためて坐らせて、頭の上から黒いゴム布をかぶせて、息もつかないようにしていました。随分暑苦しくて、何だかその方が雷よりこわい夕立めいた物々しさでした。地震部屋というのもありました。これはいつか書いたかしら。廊下のはじにいきなり一枚戸をあければ出られるような一間半に三四尺のトタン屋根のつき出し小舎があって、そこに毛布、ビスケット、ローソク、衣類なんかがいつもおいてあったこと。いざというとき一先ずそこへとび出して、それから逃げようというわけだったのね。それを使うほどの大地震はなくて、やがて子供たちはそこを雨の日の遊び場にしました。そして震災のときはもう夙《とう》にそんなものなくなっていて、倉が立っていました。西村の祖母は安政の大地震を知っているのよ。祖父は厠にいて内で身じたくをなおし乍ら、母上はどうしたどうしたとよんでいたということです。堀田の殿様が家の下じきになって、何とかして地震の下からほった(掘った、堀田)殿様という落首が出来たりしたそうです。昔の災難は今からきくと何となし単純で、直接法で、それっきりというところがあるわね。もうこれで紙がなくなりました。思っていたよりずっと手紙書いてしまったもんだから(この紙は貴重品故そちらにしかつかわないのよ。こんな細かい字で、こんなにあとからあとからひとりでに書く手紙なんて、ユリの通信範囲には他にありようないわけですから)もうかえらなけりゃね、だから。ここはポストが駅で不便です、何しろ島田の町を縦断する大旅行(!)ですから。
今小ぶりの間にお風呂たきつけに出たら珍しいものを縁の下で見つけました、うちのだったのかしら、茶色のところへ白で宮本酒店と焼いた徳利が一つころがっています、何年ああやってころがっていたのかしら。うちで、油や米のほかに酒があったこともあるのでしょうか。
ベリンスキーの文芸評論、一八四六年にこれだけ「現代」に近づいているということは、いろいろのことを考えさせます。この著者の精神に近づいて来ていてまだその語彙とはなっていなかった幾つかのこと、それによって彼がもう一層現実的に実現を見られるものがあることも興味あります。では、と、一寸くらべて見たい本も出来ますが、ここには何もないし、私の頭の中に本棚、特に年表部は整備されていないから、いろいろ考えながらふろを燃《た》き、一寸座敷へ上ってこれを書き。一人というのは面白いところもありますね、こんな工合で。一層愉しい光景を考えれば、今ここに出ている籐椅子に腰かけている人があってね、こんな話をみんな私が片手に火掻きをもったまま、ぬれた雨上りの庭に立ったまま出来るという場合でしょう。
○お母さんたちやっと達ちゃんに会えておかえりです。よかったこと。手術はごく順調に行って、一週間めですが、もう糸をぬくばかり。二三日うちにはすこし歩いてもいいようになるとのことで、一室に二人、看護婦もよく世話していて、すこしやせたか位の大元気だそうです。初め編成されたとき石津という、この前中隊長だった人が又中隊長で、ああ宮本か、とすぐ万端計らってくれて、すべて大変手まわしよく出来たのだそうです。そのほか、知っている人が何人かあって、便利している由。二度目もわるいことばかりはないものでありますのう、と云っていらっしゃいました。私は日曜日に行って見ます、そしてその上でもし出立の見とおしもないならば(編成が変えられましたから)火曜日ごろ出発しとうございます。
二十四日づけのお手紙(きょう二十六日着)輝のこと、音読してかあさんとおばあちゃんにおきかせしました。本当におじちゃんの輝びいきどうでしょう。
本棚は、小さい本箱が(二本立て)一つあるのよ、古風なの。覚えていらっしゃらないかしら。しかし新しいのは勿論私たちがこしらえましょう、島田市のさしもの屋にでも云いつけてゆきましょう。この間出来合ではなかったのよ、適当のが。高いばかりで。達ちゃん食事等なかなか厳格にやられているらしいから大丈夫でしょう。ところがきをお知らせいたしましょうね。
七月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 己斐より(縮景園浅野泉邸の写真絵はがき)〕
なかなかよく降ります。きょうは珍しい顔ぶれで多賀子と冨美子をつれて達ちゃんに会いに来ました。達ちゃんは却ってこの間うちより神経の休まった顔つきをしていて、盲腸もごく早くとれて、もうすこしは歩けかけて居りました。背中をすっかり拭いてやりました。呉々も御安心下さいとのことです、自分でおっつけ書くでしょうが。今己斐の駅のベンチよ。
七月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(広島・紙屋町電車通附近(一)[#「(一)」は縦中横]、大本営(二)[#「(二)」は縦中横]、饒津神社(三)[#「(三)」は縦中横]の写真絵はがき)〕
(一)[#「(一)」は縦中横]七月二十八日、きょうから友ちゃんが三十一日迄広島へ泊って来ます、病院のうちならば会えるというので。きのう三人で広島へ行ったとき、河本という小さな宿屋へ、おむつや着がえのボストンバッグをあずけて来てやりました。お母さん、やはりおつかれが出ましてね、昨日は工合よくない御気分でしたそうです。きょうは私がすっかりしてお母さんは休んで居られ、すっかりようなったと云っていらっしゃいます。二三日は余りお動きにならないようにします。
(二)[#「(二)」は縦中横]七月二十八日。お母さんのお疲れは脚と胃にこたえた風です、きょうは本当に見たところも大丈夫ですから御心配なく。お動きになるのが好きだから。つい
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