いうので又わるくなればいつでも病院に入れて、病気になりながらよく修理で働いたというので感状とかをもらってかえった由。持病もってゆきよってのう、すごい奴ちゃ。上のお寺の坊さんは四年になるのにまだかえりません。大方それは坊さまじゃからだろうというこってありますよ、あとからあとからとぶらいせんならんからのう。成程ねえ。そうならかえられっこないわねえ。秋本精米所のおじさんは心持のいい人だが、おかみさんを失ってまるで病人かと思う程げっそりして居ります。うちでなおそうとして手おくれしたのですって、腎臓を。お米の俵をあつかって無理したからだって。ではこれで〆切りにいたします、出すのはあしたにしましょうね、私はおひろいにならないのだから。

 七月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 七月十九日  島田からの第三信
 いま午後三時すこし前。私はこの手紙を大変珍しいところで書いているのよ。店のあのびっこになったテーブルで。うち中、今日は私一人。お留守番。
 午前十一時ごろ電話がかかって来て、友ちゃん出たら、どちらにいらっしゃいます? 川へ行ってです(お母さんのことよ)、一寸およびして来ますからと云っているの。何だろうと思って私が立って行ったら、びっくり間誤ついた顔で、広島からですの、というの。まあ、といそいで出てきいたら、外の民家へ泊っていて、会えるというので、すっかりところをきいてかきつけたところへ、おかあさんがあたふたおかえりで、そこで達ちゃんはいろんな注文をしたらしいの。いつがええの? 今日? そいじゃすぐ仕度せて、ということになって、御注文のビールを何とかしてとどける方法はないかと大さわぎをしたけれども駄目で、結局四本包に入れてゆくということになり、私は七輪をパタパタ煽いで、ゆで玉子をこしらえるやら、鰻をやくやら(丁度河村さんがくれたので)珍しくとっておきのマイヨネーズもトマト、胡瓜もつけて、一包みこしらえて、それおしめ、それ着代えと大騒動の上、一時五分の上りでお立ちでした。今夜は広島泊りです。
 今夜は珍しく私はひとりでここでお留守番ということになりました。タバコと塩だけ売っていればいいから大体わかるでしょう。店の留守番というのは馴れないで妙ね。奥へひっこんでいたのではものにならないから、ここへ出張って、これを書いたり、「ベリンスキー選集」を読んでノートをとったりという次第です。
 友ちゃんももう会えないものとあきらめていたところを思いがけなかったので、本当にうれしそうです。私たちと感情表現がちがうのねえ。きょうなんか全くおどろいてしまった。だって、まあ! ともあら! とも電話口でどんな表現もしないのですものねえ。それで、しんからうれしさで動顛しているのですものねえ。こういう人たちの感情って十分思いやってやらなければいけないのだと思います。お母さんなんかは真率にお現しになるのだけれど。よう電話かけられてじゃのう、よかったとすぐおっしゃったのよ。友ちゃん、はっとして言葉も出ないというところ、いじらしいみたいです。ねえ? それミーのじゃろなどと姉さんと云っている、しかし何たる大和撫子でしょう。そんなことも可憐よ、いろいろと、ね。〔略〕
 もうそろそろ四時ね。広島へおつきになるわ。相生橋のそばに宿がありますから、この前のように郊外へ行くのでなくていいでしょう、その近所にお母さんのもとお泊りになったという宿屋もあるから。
 さて、ここで事態は一変いたしました。夜九時半頃、お湯に入りに来た河村さんたちもかえって、私は店をしめ、戸じまりをして二階へあがったら、チリチリチリ。いそいで降りたら「広島からです」、様子をお母さんがおききになるのかと思いました、私一人で困って居るだろうからと。そしたら、お母さんたちが着いたときは、達ちゃんボートこぎに遊びに出ていて、かえったらつろうてすこし歩いたら、おなかが痛いいうて、段々ひどいのでかえって、本部がお医者の家になっているのでそこへ見て貰いに行ったら盲腸だといって今知らせて来てであります、というの。
 やっぱり体がつかれていたのよ、可哀そうに。よくかえって一年経つと病気すると申しますが、それでも船の中なんかでなくて何とよかったでしょう。友ちゃん愈※[#二の字点、1−2−22]もってびっくりでしょう。さぞお母さんお困りと思い、すぐ行きましょうかと伺ったら、来て下さいということで、遠い電話口で私は些か金切声をあげて、手おくれにしないように、無理しないように、早く手術するものはするように、という次第です。それではとにかく浴衣でも持って三時何分かの上りで出ようということにして河村さんにも留守たのんだら又チリチリ。すぐ入院して、本部の命令で、家族は私物をもって一応かえるようにということだとあります。それでもお母さんたちは昨晩は広島に一泊。いろいろの様子をきょうきいて、そしておかえりになるということになりました。
 いい塩梅に、慢性でないし、ほかにくっついたものがないし、ただお酒が入っていて、注射がきいたかどうだか分らず、そうだったら迚も痛い目を見るでしょうが、ともかく命に別状はないでしょう。けれども私は恐慌よ、というのはね、一つの家族の中に盲腸の出る条件は共通なので大抵つづけるのよ。父の亡くなった年国男(夏)私(十二月)。お母さんも十六日にはすこし張ると云っていらして私はやいやい云って横におならせしましたが、もうどんどんバスにおのりになるし。
 こうやって今朝は平静ですが、ゆうべ電話口での声は一寸おきかせしたかったわ。ロバにこういう声もあるというようなところでした。だって前夜一時ごろまで飲み歩いて、と一緒にいた人がかえって話していたしね。お酒の入っている盲腸の悪化の迅さは天下一品です。戸台さんがそうでした。そのとき徹夜して手術の番をしていて、宮川さんというお医者様からそのことききました。倍のスピードで悪化するって。だからキーキー声も出たわけよ。広島で盲腸の手おくれで命をなくしてなんかいられませんからね。しかし、達ちゃんへの手紙で余りお酒のことはおっしゃらないで。素面《しらふ》で船にのれるだけ勇気のあるものは少いそうですから。気がもてんのじゃそうです。隆ちゃんなんかのこと考えるわ。あのひとは今どうでしょうね。もとは飲まず立って行ったけれど。お母さんがおかえりになったら(きょうの午後になりましょうが)そしたらこの先の様子つづけます。なかなか千変万化でしょう? 私のかえるのもこの調子では見とおし立たず。もうすこし様子みて決定いたします。塩十銭、五銭、五十銭というお客。バット一つ、あれ二つこれ一つというお客。なかなか立ったりいたりです。便利瓦ありましょうかいな、と云って入って来る。さあどうでしょう、そう云って店の鴨居に貼ってある公価目録を片はじからよみあげる。ありませんですね。そうじゃのう、お世話さん、どうもおあいにくさま。(ここの調子は名調子よ。)店には今肥料は一つもありません。豆タンの袋、セメンの袋、石粉。煙突左官などの材料。
 鴨居の品書き
          五吋  四・五吋  四吋  三・五吋  三吋
 石綿煙突  一本 三円  二・六三 二・二五 一・五〇 一・三五
 バンド   一本 六〇銭   五〇   三九   三五   二九
 パッキング 一ヶ 二一    一七   一五   一二   〇九銭
 笠頭    一ヶ 四九    四〇   三三   二九   二八
 笠足       五八    五〇   四五   三九   三三
 曲手又ハ丁字曲  二円   一四四  一二〇   七九   七三
 ※[#「○付き公」、427−6]セメント     一袋    一・六〇
 ※[#「○付き協」、427−7]赤煉瓦  上焼  一等 一個 五銭五厘
 〃石粉 四十キロ入 一袋 一・一〇
  灰煉瓦(黒レンガ)一個 四銭五厘
  煉炭四寸     一包 六十七銭
   豆炭      一袋 一・五〇
   寒水石(何でしょうね御存じ?)十貫 二・〇二
 あなたの御存じの頃の店の物と随分ちがいましょう?

 ○お母さん友ちゃん七時近くおかえり。いいあんばいに達ちゃんは本院にすぐ入院して、面会が出来るようになったら知らせるということだそうです。ごく初期に発見したから大丈夫と、初め見た医者もうけ合ってくれたそうで、本当に何よりでした。安心して、すこしゆとりのある工合でしたからようございました。随分宿もひどくて、その点ではお困りでしたようですが、友ちゃんは髪結いに行ってウェーブした髪になっていたりして、面白いものねえ、生活って。こっちではなれて心配しているのと、その場にあたっている人とのちがい。二十四、五日ごろにでもなればいくらか消息もわかるでしょう。すぐどこかへ行ってしまうのでないとなったら、友ちゃんもいくらかほっとしているようです。一週間ぐらい入院でしょう。
 きょう(二十日)は野原に来て居ります。人通りがひどくなっているのと、農家が店やになっているのとではびっくりです。多賀ちゃんも冨美子も元気よ。きのうおばさんが来られて、けさ一緒につろうて来たの。午後室積へ行ってみます。友ちゃんの机とりかたがた。あすこ初めてよ。ここの空気はやはりまだ昔の野原の空気です。海のある村の空気です。

 七月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡光町野原より(山口県・室積海水浴場の写真絵はがき)〕

 七月二十一日
 今日はこういうところへ買物かたがた見物に出張いたしました。この町を御存じ? 角の写真やさんでこのエハガキを買って角のはす向いの郵便局で書いて居ります。昔のおもかげと今日のいろいろな人の生活とが狭い通りの上に見えます。店にはやはり品不足。

 七月二十二日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県野原より(山口県・室積港(※[#ローマ数字1、1−13−21])、室積湾鼓ヶ浦(※[#ローマ数字2、1−13−22])、室積公園より見たる周防灘(※[#ローマ数字3、1−13−23])の写真絵はがき)〕

 ※[#ローマ数字1、1−13−21]七月二十一日、さっき郵便局でハガキ出してから、ここのはとばへ来て海を眺めました。このエハガキだと、左から二つ目の船のかげの橋ね、そこの根元の石のところに腰かけて海を眺めたらいい心持で、海をわたって松山へ行って見たくなりました。柳井から何時間かしら。海の上を風にふかれながら渡って行って、道後に一泊してみたいと思いました。但実現のところは不明ですが。

 ※[#ローマ数字2、1−13−22]同。こんなところを御存じ? きょうはバスの中からはじめて光井の小学校を見ました。相当たかいところにあって、松の大木のがけです。あの下に避病院があったでしょう? そこを改造して、奇妙な用途にあてられて居ります。新しく共済病院というのや、ガス会社やも出来ていてよその土地から来たものということを誇らかに身辺に漂わしている細君連が室積の町やバスの中に居ります。

 ※[#ローマ数字3、1−13−23]室積の清木《セイキ》という家具屋を覚えていらっしゃるかしら。そこで友ちゃんの机を買いました。中学校の生徒でもつかえるようなので、輝が今に母さんのお古を頂けるでしょう。十一円五十銭也よ、島田までは届けないというので野原まで届けて欲しいとところを云ったら国広屋と云っていました、年よりの番頭が。おばあさんの家は、あの薬屋のある通りに見える松の古木の先ですってね、岩本のお嫁さんのおさとという前も通りました。うちも店は物がありません。達ちゃんから消息まだなしです。

 七月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 七月二十三日  島田からの第四信
 十九日づけのお手紙今朝。ありがとう。
 本当に涼しいつづきでした。でも、それではお米が大変でしょう。土用前の十日がよく照りこめばよいというのだってね。その期間が雨つづきでこの頃はこうというのでは困りでしょうね。きのう一日は土用らしくて
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