いました。
蓑《みの》を着た人夫がどっさり出ていて、そこいらに腰をおろしたさんだわらがいくつも散っている景色は物々しい眺めでした。汽車はそういうところは徐行いたしますしね。人々は窓からのり出して線路をのぞくのよ。主に静岡までです。
ここも汽車に近いこと、山にこだまする汽笛の音を久しぶりでききます。きのうはトラックが七十台うちの前を通ってゆきました。うちのは年式が古すぎて徴用にならないのです。うちの方はいろいろ余り無理しないで、やれるところ迄やってゆくから心配しないように、よう云うつかわせということです。
心から達ちゃんが早く無事にかえることを願います。健気な女のひとたちの勇気が使いはたされてしまわないうちにね。
輝が風邪をひくといけないから、友ちゃん余りおそくないうちにかえって来る筈です。達ちゃんが友ちゃんと輝のかえる汽車まで送って、そして来れば友ちゃんは送られた心持ものこされて何かしのぎよいでしょうと思って。自分たちが遠ざかり、そこに立っていた人を思い出す方が、段々小さく小さくなって行った人を思い出すより楽よ、ね。
七月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
七月十七日 島田からの第二信
十五日づけのお手紙、けさ拝見。割合早いことだと思いました。私は日曜日には立てなかったのよ、東海道が不通でしたし。月曜でした。そちらもやっぱり涼しかったのね。
輝はきのう(十六日)一日広島でくらしたのですこし疲れ亢奮して夜珍しく泣きましたって。
友ちゃんと河村夫妻、昨夜八時すぎに戻りました。河村のは到頭息子に面会出来なかったのですって。練兵場からあっちへは入れないのですって。そこで達ちゃんがいろいろ骨を折ってやって、お金だけことづけてやった由。達ちゃんが出たあとに憲兵が来て、やはりいろいろの準備はすっかりして行った方がよいだろうと教えてくれました。
前夜迄達ちゃんは先のように体一つで行くつもりだったのよ。けれどもいろんな様子からどうも其では不便になりそうなので、すすめて、すっかり一応もってゆくことにしてものつめを初めたの。ロバの判断でも適中することがあります。
そして、私が一緒に広島へ行ってやろうかと思ったけれど、まあ、と考えて友ちゃんと水いらずにして、宮島から電車で己斐《こい》の一つか二つ手前の何とかいう海水浴場で午後ずっとゆっくりして、そして夕方友ちゃんをのせてから市へ行けばいいと云っていて、そのつもりにしていたの。そしたら急に河村さんと同心せて、ということになって、そのために達ちゃんあっせんしてやって、つまりは福屋にいたのですって。何だか気の毒でした。でもそれでいいのかもしれないわ。達ちゃんは輝の着物を買ってやって友ちゃんもって来ました。これが好きと云ったというその布には、まるで輝のような顔の人形がついているの。
よかった、すっかりそろえて行ってよかった、と友ちゃん安心していました。河村さんは会えないから顔つきが夫婦ともかわっていました。
輝は、二日うんちをしなかったので、ゆうべは、おかあさんがルスリンかんちょうをして、うんちを出して、ねかせました。
お母さんにけさのあなたのお手紙をよんでおきかせしました。ほんにのうと云っていらしたけれど、血圧を計ることは笑っていらしたわ。本当にお気丈で、けさも六時から自動車の運転手が来たのに応待してやっていらっしゃいます。
友ちゃんもすこしやつれているが元気にしています。お姉さんの文ちゃんというのもまだいます。手伝に来ていたフジヤマのばあさんはきょうどろ落しでかえります(この表現覚えていらっしゃる? 苗をうえ終って、お百姓の骨休め)。そして、お母さんは多賀さんへおまいりです、きょうは多賀さんのおまつりよ。うちではおすしをこしらえるのよ。
きょう八時達ちゃん入隊したわけです。隆ちゃんからハガキ来。体重は六十九キロの由。十八貫を越しているわけよ。「大きい男になってじゃろ」本当にそうでしょう。そして、達ちゃんの話では、この頃は本部づきらしいとのことです、そうすればいくらか危険も少いわけです。
封緘のこと、出る前の日に送りました。
物のことは、前便にかきましたとおり。
島田川もこのお手紙の思い出はあどけない子供の永い夏の日が蝉の声と一緒に思いやられます。
麻里布ってそういうところなの? この頃はどんなでしょうね。何だか行ってみたいこと。一二度汽車の乗りかえでおりただけです。
光井の方へは、これから。あの道普請は終って、すっかりきれいになった由。海へなんか、もう光井のところからは近よれないのよ。虹ヶ浜という駅の名は、光《ひかり》となっていました。浜の様子は虹ヶ浜のあたりは大してちがいもないらしい様に見えました。住宅払底なのをかんわするために、各戸で空いているところは貸すようにと、婦人会の講演会できのう話した由。その話をしたひとはハワイがえりの女のひとで十五から二十年いて、かえって十年。あっちに娘たちがいて、孫もあっちにいるそうです。いろんなものをことづけて貰います、ハムも、というとき、このひとは日本風に云わず Ham と発音記号のようにヘムときこえるように云いました。微笑禁じ得ず。だってここの家の職業はおいなりさんの神主なんですもの。可笑しいことねえ。ハワイでおいなりさんを信心していたのねえ。職業はこのヘム夫人が理髪をやって御亭主は自動車か何かをやったんですって。第三高女(東京)を出ていることまで僅か五分間の店先のお喋りで話してゆきました。私は誌上[#「誌上」に傍点]でよく知っていたって。
そのおいなりさんの御託宣で、Tの写真屋に病人が絶えないのは、死霊のたたりだということで、そんな筈はないと云っていたところ、そこのおばあさんが亡くなるとき、自分が若いとき後家で赤坊をもって、それをこっそりうずめてしまったことがあったことや、息子も結婚前そんなような芸当をしたので、大方それでじゃろということを云ったので、おいなりさんにざんげしなくてはならないことになって、それをやって、おまつりをしたのですって。そのおいなりさんの御託宣を、おばあさんがうけて死霊ということをきいて来たというのは十分合点が行くことですね。
あら、むこうの道を、二人の男が太鼓かついでふれてゆくわ。お母さんが多賀さんのお祭りと思って達ちゃんの写真もっていらしたらそうじゃなくて、ここの夏祭りというのですって。その太鼓ね。おや、赤い旗が行くわ、それから人が行くわ、それから白鳥が小さい神輿《みこし》をかついであとから神主が行くわ、一列になって、あのお医者の石崖の下の道をとおって、提灯がアーチになって下っている下をくぐってこっちの道へ出て来るらしいことよ。こういうの御覧になったわけでしょう? 子供の頃は。
近衛さん総辞職の号外をもって来たおっさんが帽子とって、こちらも御出征でとあいさつしてゆきました。そして軍手を三つばかりほしいって。
きょうは今迄のうち一番夏らしい日なのですが、こっちはこんなにしのぎよいのかしら。そうでもないんでしょうねえ。こんなに汗も出ないでどこか涼しい風が通っていて夏がすぎるのなら、私は本当にかえりたくないわ。でも、私が着いて、小一時間もして二階でねているうちに、もう室積からここのとつれ立って、東京からお客さんが見えたそうでって来た由。こういう風なんでね。こちらは。
お母さんは急に思い立って、三田尻のどこかへ前のおかみさんとお詣りです。たまよけの御守りがあるそうで。それをもらいかたがた。自己慰安ちゅうのじゃろうのあんた、と笑いながら。
一つ吉報を申しあげます。ここのあの恐るべきノミはどういうものか今年は姿をあらわさず、私の助りかたは一とおりでありません。きっと家じゅう清潔になったからなのね。タバコやと店との間に水色レースのカーテンがひらひらしていたり、店と台所との区別にのれんが下っていたり、あちこち改良よ。向う座の四畳半も南だけ開いて風が台所の方からだけとおるから、いくらか真夏はあついかもしれないが落付いた小じんまりとした部屋になって居ます。きれいに納めたらなかなかいいわ。いまに、こっちの子供たちがふえると、あすこがおばあちゃんのおへやになるのですね。別に建てるよりずっとまとまってようございます。出入りにもいいし。お母さんが本箱のこと云っていらしたの、本当に一つあった方がいいわね。いろいろのものがこの頃はすっかりそろっている、でも本棚は一つもない、そういうのはよくないから。林町と同じことで。目白から送ってくれというお話だったのを、今度そちらへ行ったとき買いましょうと云っていた、今度買おうかしら。友ちゃんの部屋に小机がないのよ。これから丁度こうやって私がちょこちょことあがって来ては書くように、輝が眠るとそのよこでちょこちょこと書きたいでしょうのにね。あのかくれ部屋に机がないのは友ちゃんにゆっくり話しをする世界の中心がないようで可哀そうね。こんな堂々たる一間に一間の大ダンスだの、半畳の畳を立てたようなやぐ箪笥だのあっても、小机がお道具にはついていないのよ。それを私たち買ってあげましょうか、大したものでなくていいのだから、ねえ。いい案でしょう? それとその上に飾る小さな写真たて(これはかえってから送ってあげる)折角優秀花嫁が二三年あとにはBさん同様のものではこまりますからね、ただ目はしの利く利口ものになられてはおそろしいからね。店の机で書くのは出来ないわ、私にさえ。お母さんはお出来になるけれど。息子たちへの手紙だし。今私が使っている二階のこれはおろせないし。本当にそうしよう。室積でも売っているでしょう? 光井へ行ったときでも買ってあげようかしら。お兄さんは御亭主にああ云っておやりになったのだから、姉さんはおかみさんに書き易い条件をつくってやる責任がありそうね。お互っこですもの。ねえ。
「ミーとかユーとかいうのはあっちの言葉じゃろのうんた。ミーがやるたらこれユーのかとか姉妹でやっちょります、いくらか気《け》がのこっちょってじゃのう。」面白いでしょう? 私面白くて。ミーがやるっていうようなことひょっと出るのね。そういう言葉づかいの生活だったのねえ。このあたりにはやはり海に面したらしいところがあって、ハワイだの、アメリカだの、なかなか広闊なわけです。友ちゃんの弟はお父さんのところへ行っていて、これは I と me とを正しく使うために、今学校ですって。七年級にいるって、小学のね。写真みましたがいい子だわ、そしてその子に輝がよく似ていて、なるほどと感服いたします。
これを書き出したときは、明後日野原へもって行って、そこで書き足しておしまいにして封じようと思っていたのに縷々《るる》としてつきず、遂におきまりの頁の終りに来てしまいました。
達ちゃんには会えるか会えないか見当がつきません。或はもっと時が経ってから逢えるのかもしれない。けれどもそれは期待出来ません。むこうへ行っても相当手紙は書けないかもしれないね、と云っていたのよ、十六日の晩も。今度はクレオソート玉がどこにもないし、梅肉エキスだの水を消毒するものだの持たせました。こっちも今年は余程用心しなくてはいけませんね。水なんかひどい水よ。おとなりから飲料水は貰って居ます。
今はもとと方式をかえて、渡辺という運転手はおかみさんと近所に一軒もっているし関根というのは妹と又つい近くに一軒もっていて、うちで御飯をたべる人はなくなりました。こういう変化も時代らしいわね。ですから台所のバタバタは随分減っているわけです、ひところよりも。その点は友子さんもいいわ。お母さんはいつかのKのことをおこりになったばかりでなく、使われる方の気持としてもそういう方を望むわけですね。達ちゃんの代りを(車を動すこと)やるのはTという人ですって。このひとは先に達ちゃんに会いに広島へ行ったとき会ったひとです。なかなかはしこい男の由。でもお母さんはよくそこいらを御承知ですからうまくおやりになりましょう。リューマチスになって早くかえって、一等傷と
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