男のこういうのは、本当によくあります。ちっとも生活の輪が内からの力でひろげられて行かないところ。こういう性格も描くべきです。二人を比較して実に対照的よ。おくさんの方は、自然に反応して自然にひろげられてゆく、そういう傾向ですから。
 Kの殿様的我ままの消極性も似ていて。
 今の勉強が沈潜しなくてはならないというのは実にそうね。個人の範囲のことでなく、そうなのだと思います。そのことについてもいろいろ考え、私は会なんか実に出ない方よ。会歩きが馬鹿に人間をすることを痛感しますから。いろいろの場面に書かない、しかし会はもれなく出る、そういうことに意味はありません。出たら随分いろんな会があるけれど。たまに、きいて見たいことがある場合だけ出ます。物事がどううけとられどう判断されているか、謂わばその間違いのなかに或ものが語られているときがあってね、何故それがそう誤られて考えられるかということのかげに大きい真実が見られるような工合のときもあって、大いにうなずくこともあります。
 会の話やなんか、十分語らないので、そちらで御覧になると何だか変てこりんなのでしょうね。私がそういうところへ出てみる気になるポイントがはっきりしないでしょうね。たまに、こっちではっきりした一定の判断をもっていて、或る現象がどう見られ語られるかをきくということも、何かである場合もあります。だって、そういうもので現実を動かそうと出来ぬ相談をやっているわけですから。
 本質的に、会へがつがつ出るというような心理ではないから御安心下さい。
 こういうこと、そして又家のこと。ほんとに一通りのことではないわね、どうでもいいということではないわ、やはりそこに態度があるべきですから。
 北原武夫が『都』に、作品の世界の客観的確立ということをあのひとらしくかんちがいして、作品の世界だけが一箇の作家の存在にとってリアルなものであって、実生活は空な抽象だということを会得してはじめて芸術家だ、なんかと云っています。誰かが、この頃の作品の中に作家の生活的実質がうちこまれていないのに不服で、作家の俤《おもかげ》のない小説はつまらない、という風に、これも二次的な理解で云ったのに、北原がくってかかって云っているのです。現代の或種の作家のくいちがいや、ピントのはずれたしかも本来は健全な欲求だの、高びしゃでしかも空虚な自己の生活的タイダを肯定している北原の論理や。
 実生活がそのまま小説にならない、それでは自然主義時代だ、というところ迄は分っていて、それでは、とその先一歩出るともう混迷に陥っている。その混迷で、現代をしのいで行かなければならないとしたら、およそそれは察しられるというものです。
 作家たちの或人々は、人間の進歩の大道は、一つの次から次へさけがたく動くもので、トルストイのモラルの後の世代はどうなるものかという、その自然さ当然さがどうしてものみこめないのね。一段一段と階段がつづくということ、私たちはどうしたってその段々に足をおかなければのぼりも下りも出来ないと思いきめなくて、何だか俺の足に合う間《ま》の段々を出せ、だの、大体こう一段一段とあるのがつまらないとか云っているのね。それで苦しい思いもして、主観的なその苦しさのつよさによって、我から気やすめもしている傾がなくはないのね。自然主義の文芸思潮からの成長ということはこれ迄考えられていたよりも更に更に重大な、そしてまだ未解決未達成な文学上の課題ですね。世界文学として云えるのだわ、このことが。
 自然主義の時代から、溢れ出し、或はころがり出した、が、本当の次代のものにはなかなかゆきついていないと思います。そのことがもっと実感されていいのね。よくこの点がはっきりすれば、ころがり出した勢で、うしろの方へころげこんで、本質は自然主義以前というようなホラ穴へころがりこむわけもないのだけれど。
 いろいろ考えます、一九一四年の経験で、フランスの作家なんか伝統の中にあるカソリックの精神へ随分すがりついて身をもたしたでしょう? ジイドなんか筆頭です。イギリスの作家は、過去のものの崩壊を誇張することで身をもたした、ローレンス、ジョイスその他。現在、それらの国々の作家は、どんな勉強しているでしょう、どんな身のもたせかたをしているでしょうね。いろんな小さい形の精神のマントは、はがれたのだし。ヨーロッパの真面目な作家の仕事は、今日、或は毎日細かい日記をつけておくことかもしれませんね。小づかい帖は歴史ですから。そういう風に、自分たちの世代の経験をいとおしんで居る誰かがあるでしょうか。たとえば、そんな婦人作家があるでしょうか、ねえ。コレット婆さんなんかやっぱりパリで、おしゃれの店出して、それがフランスの外貨カクトク法だからとモードこしらえているのかしら。
 この頃深く感じるのですが、人々は普通、あのことをあのこととして、このことをこのこととして理解することは出来ても、あのことと、このこととの間のつながりを見出す力は非常によわいのね。一寸頭のまわる人間は要するに、そのつなぎめのところでいろいろうまく立ちまわるのね。よいことも醜悪なことも何かそのつなぎめのところに発生いたしますね。実に妙なほど、神経にぬけたところ、頭のぬけたところがあるのね。例えば歌よみの吉植庄亮という男は千葉で大地主で多角経営をやっています、代議士よ。蘇峰そっくりな顔をしている。そして自分で百姓百姓という。この男が、米のことでいろいろ話します。四五年前、ゴムローラーで白米にすると、同じ一石に米粒が多く入って百姓はそれだけ損をする、米もくさりやすいということで、いろいろ運動した。竹内茂代という女の博士が白米廃止運動をそのときはじめ「これだけですね、ものになったのは」と云っている。吉植の考えのポイントが、竹内さんにどううつっているのでしょう。竹内さんはお医者として云っている、賛成しているつもりなのよ。こういう組み合わせ。ひとの説に賛成するしないの機微。バルザックやスタンダールはこういうモメントをどう描破しているでしょうね。
 それから、絵で描いたら頭部が半分しかないような人たちが集って、ゴの手でも評定するように、妙な形のマス目で、国際のいきさつ、動きをああこう喋り合っている光景、これはブリューゲルの世界に近いし。
 では金曜日に又。そちらの番地半分だけ活字ね、面白いこと。眼を呉々お大切に。

 七月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月七日  第三十二信
 これは、四・半に机を出して書いて居ります。きのうあのお二人は愈※[#二の字点、1−2−22]引越し完了よ。日曜日でしたが、その前々夜やっときめて来て、六畳一つの集合住宅で二十五円也。日曜日引越すと云っていたのですが、午前中ぐずついていて、どうなるかと思ったら越せました。この頃に珍しく俥夫がすぐひきうけてくれたのですって。
 おかつぶしをあげたり梅干あげたり大いにおばさんをやって、それがすっかり出かけたのが四時すぎ。さてそれから四半の廊下の隅につっこんである小さい方のテーブル出しかけて布をさがしてかけて(手が汗だらけだもんで、こすれて痛いから)あっちこっちあけて、スダレかけて、さて、と昨夜はそこに腰かけてかなりエンジョイしました。
 十日にあのひとたち来たから殆ど一ヵ月ね。浩子さん本当に名残惜しそうでした。でも今度引越す代々木上原というところのごく近くに女の従姉だかが家をもっていて、いろいろ世話して貰えるし、いいでしょう。浩子さんはどこへ行っても周囲と自然にやってゆける性質ですから。幸きのうはいく分しのぎよかったから引越しにはもって来いでした。
[#図1、家の間取り図。凸形の間取り。左が「台所」、上が「茶の間」と「ヌレエン(濡れ縁)」、右が部屋と「縁側」(濡れ縁と縁側がL状になっている)、中央に廊下と階段。]
 私もここへ越して来て大変楽よ。茶の間とはカギの手にこんな工合に出ていて、左手の二階の段々のつき当りだの台所の方だのから北風が通って下では六畳の次に涼しいのよ。只西が射して弱りますが、でもそれはね。すぐ格子窓の外がおとなりと竹垣で、おくさんが台所でことことやっているのや「ほんとうにひとばかにしていますわ」と、旦那さんと喋ったりしているのもきこえます。マアこれからもうすこし趣向をこらして、これから三ヵ月(九月)暮すに工合よくして、大にがんばらなければなりません。
 がんばらなければなりません、というところに御推察でしょうが苦衷があってね、目下まだ十分がんばりがきいているとは云えないのよ。暑さにまだ馴れなくて閉口頓首して居ります。お米をほして虫をとったり、うどんほしたりしていたわ、この二三日。引越しさわぎの落付かなさもありましたが。こういうときって実に可笑しいわね、さあユリそろそろがんばって! と自分に云って頭だかおしりだかとんとんと、お茶を紙袋に入れるときみたいにトントンとやると、大抵何とかまとまるのに、目下のところ、かためそこねたところてんよ。さあ、さアなんて云ったって、上っ皮がいくらかかたまって、しんがとろりでどうも頭の中が湯気の立つようで。ほんとに可笑しいこと。自分に仕事をさせるのにも骨が折れるときがあるというのは夏景色ですね。
 でもこうやって、廊下歩いても台所コトコトやっていても、縞の布のかかった机が見えていると相当食慾的だから、きっとこれからうまく行くでしょう、どうぞ御心配なく。そんなで八月中に何とかなるのかなとお思いでしょう? 何とかなるから面白いわね。
 自分に仕事させる、でこんな話があるのよ、私はこれ迄冷蔵庫というものなしでやって来て居ります、夏冷いもののまない方だから。ところが、この頃玉子にしろ牛肉にしろ配給の都合で、肉なんかあるとき勝負で、きのうなんか二ヵ月ぶりですこし買えました。バタにしろそうだから、すこし力のつく食物を心がけるためには冷たくしておくところがいるのよ。で今年は一つ買おうかと云って見たら、迚もうちには買えないようなのばっかり七十何円、八十何円。四五十円のなら氷一貫目で、一昼夜どうやらモツのですが。もしみて、その位のがあったら買おうと思います。そんな風になって来るのね。もう久しくバタもたべず油もきれていて、それでいくらか、かたまりそこねのところてんかもしれないわ。みんな暑気がこたえるらしいわ今年は。どうぞあなたも呉々もお大事に。本当に、よ。暑気に対して体力が負けている感じはいやね。私は割合夏はがんばれる方だから、今のところ珍しくて、調子が分らないようです。どっこも悪いのではないんでしょう、熱もないし。一年の間の食物の変化なんかがこういう工合にして影響をあらわして来るのでしょう、きっと。今年の夏はきっと仕事のある人たち、何だか精力的でないと思っているかもしれないわ。お米にはこの次の配給のとき一キロ青豆のほしたのがついて来ます、お米の代りに。
 こんなこと書いている、これも一種のウォーミングアップかもしれないからどうぞあしからず。
 仕事の下ごしらえで、アランのちょいちょいした論集をよみました、幸福についてや何か。アランはこの二三年来日本に流行して紹介されるフランスの哲学者よ。アンリ六世高等学校の教授。直観的良識をアラン独特の感性にとんだ表現で語ってゆくひとですが、日本にアランのはやる傾向の意味もわかります。アランには体系というものは一つもありません。一定の立場というものもなくて、あればそれは全面的というようなもので、強制のない[#「強制のない」に傍点]美しさをあらゆることに求めているところがある。おわかりになるでしょう? ちょいと面白いところもある。だが、文学について又人生態度について不十分なところ或は間違っているところもあります。いつかアランが詩と散文について書いている点で、不備だったこと書きましたろう? 詩は真直に立っている(精神が)、散文は現象とともに走りまわっているものだ、ということで。アンドレ・モロアはこのアランの弟子ですって。アランのところでは辛うじて良識の域にとどまっているもの
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