かえり、二人で青い豆の入った御飯をこしらえて、どっさりたべて、きょうは早ねよと十時に二階へ上り、すこし小説をよんですぐ眠りました。
浩子さん、きょうは又世田ヶ谷へゆきました。その前に千駄ヶ谷の方のアパートを見てから。私もそろそろ本気に仕事したいから家が見つかってくれるといいと思います。仕事する神経は分らないのが当然ですから、二階から下りて来ると、やっぱり話したい風で、対手にならないのも気の毒ですから。
きょうもむしますね。眼は本当に大事に大事に、よ。でも、わるいのはゴロゴロするんでしょう、やっぱり。
髪おきりになるといいわ。きっと本当にうるさいようでしょうから。水でサアと洗えたらいいお気持でしょう。女でもそう思ってよ。すこし大入道だって平気よ。もう私の目にはそういうあなたの御様子もちゃんとしまってあるから、アラなんて目玉は大きくしませんから。グリグリ坊主におなり下さい。
五月十一日号、どうしたでしょうね、きのうのうちに着いたでしょうか。ああいう方法を発見して、これからはすぐ計らえますね、電話かけてたしかめて、価をきいてすぐカワセつくって速達にしてしまえば、私が行こうとダラダララインにかけるよりずっとスピーディです。
『東洋経済』も全くそうでしょう、綜合雑誌についてのこともそのとおりです。まれにほり出しものがある、そういう程度よ。
海の連想はやっぱりでしょう? きのういつかお目にかけた海と陸との太陽というヴォルフの写真帖が出て来て、又くりかえし眺めてきれいだと思っていたところでした。私に泳ぎ教えて下さるという話、何だか不思議な幻想のようにリアルよ。虹ヶ浜の夕方や夜を知っている故でしょうね。自分の体がそうやって海に入っている感覚や、あなたにつかまっている気持や、ぬれて光る体やまざまざとして、想像される、というよりは感じられます。
ひところよく通俗小説に海を泳ぐ男女がとらえられましたけれど、本当はそういうポイントとは全然ちがった美感があっていいわけです。実際それはあるのだけれど、何というかしら、そういう運動の中での感覚は感覚そのものとして生命的で、自然的であるから、よほど作者のつかみが複雑でないと感性的な面ばかりになったりしてしまうのでしょうね。
『文学の扉』『たんぽぽ』明日お送りいたします。武者さんは相も変らず、よ。同じポツポツ文章に年功がかかって、あのひとの顔や頭のようなつやはついて来ていますが、独断と単純な――歴史性のない人間万歳にみちています。それでも、ああいう風に単純に人間[#「人間」に傍点]に立ってものをいうひとは少くなっているので、やはり何かの魅力なのよ。明るさのレベルは、彼が講談社から本を出して平気なような、そういうところからも出ていて。
新書の『人生論』なんかみると、恋愛と結婚のことなんか古い古い考えです。恋愛が結婚の中で消えてしまうのが当然という風に云っている。これで、彼の女性とのいきさつのルーズさも分るでしょう。そう考えているのだわ、ですから結婚の外に恋愛したりして、そっちはそれでズルズルに分れたりしてしまうのね。
本当のオプティミズムが身につくためには、大した勉強や砕身がいるのですもの。武者さんはそれとは反対のひとだわ。持ちものだけで満足しているひとです。自分のもちものを、客観して疑うということのない、その故の明るさです。持たないものについてはあきらめている、大した東洋人よ、その点でも。それに第一ああいう風な羅漢《らかん》さん的完成そのものが古い東洋です。おびんずるだもの、撫でられぱなしだもの。(おびんずる、って何だか御存じ? それは浅草のカンノンさんなんかにもある妙なつるりとした坊主の坐像で、自分の痛いところをなでて、おびんずるの同じところをなでると苦しみがとれるというのよ。さし当りあなたはトラさんの眼[自注6]をなでて又おびんずるの眼をなでて、益※[#二の字点、1−2−22]ひどいバチルスをお貰いになるという工合)
島田の電車は、てっちゃんのうちの前の川の、あっち側かこっち側を走るのだそうです。あれは島田川? 島田川と云えば、いつか又ゆっくり行って見たいものです、用事なしで。只あのうるささには全く閉口するけれど。光井へゆけば光井へ、ですから。あなたのおかえりになった時分とは何倍かよ、何しろ全部軍事的中心地ですから。何という変りかたでしょう。そういう空気が心理的にいろいろ影響しているのよ。もう十分御察しのことと存じますが。この間多賀子から手紙で、何だか具体的には分らないが、この頃はおえらがたが目先にチラつくので話もそういう傾きになっておばさまも云々とありました。
私の方は金曜日に申しあげたように八月一杯ね。自分ではなるたけ七月一杯としたいと思って居りますが無理でしょう。
そちらへ、家は暑いと云えないわけだけれど、でもやっぱりそう能率はあがらないから。去年は二階にいて、うだって疲れて、ホラ眼が変になってしまったでしょう、ですから今年は下へおりて勉強いたします。下の四・半に机を出して。うまくあんばいをしてやりましょう。一日十枚はかけるでしょう、小説でないから。そこに望をつないでいるわけです、私は一心に、親切な真面目なものをかくつもりよ。
『私たちの生活』は七月五日ごろに出来上ります、さっぱりした可愛い表紙よ。藤川さん本気でかいてくれたから。つよい動きの感じはかけていますが、この画家の真面目さや清潔さは出ています。
おや、前のうちで電気チクオンキが買えたらしいわ、なかなかいいレコードがきこえます。ラジオのようではないから。この頃はボーナスシーズンよ。ワグネルのタンホイザーか何かをやっています。ここの家よ、ピアノのおけいこをしているの。こうやってたまにきくのはうれしいけれど、しょっちゅうになっては閉口ね。
達治さん、では九月まで大丈夫ということにして置こうというお話しでした。何か気になることね。又本当におっしゃったとおりね、なんかというのは困るわねえ。でも八月なんかと云って、もうすこし待ってなんかというのわるいし。それに東京の八月、御本人もそれは戦地へ行ってたのだからと云えばそうでしょうが、お互につらいわ。案内する方も。九月ね。どうも。あっちは九月でもいいのでしょう? こっちへ何のお話もありません。
私がいくらかやせたと云ってもホーとお笑いになるでしょうけれど、ほんとにいくらかやせたのよ。やっぱりバタなし牛肉なしたべるもの何となくなし(お菓子なんてまるでないから)というのがきくのでしょうか。血圧のことは本当なのよ。あなたはユリの円さにおどかされて御心配なのだけれど、みるひとがみればユリの円さは溢血的丸さからちがっていることを申しますよ。栄さんの方は実際血圧がたかいし、溢血的傾向なのよ。私は父のようよ、或は西村の祖母のようよ。溢血はおこさないで死ぬまで元気で、わりあいあっけなくさよならのくちよ。それは殆ど十人が十人そうだろうと云います。ですから、あなたもどうぞそのおつもりで(※[#疑問符感嘆符、1−8−77])(いくらか、ゆするみたいですみません)
さて二十六日のお手紙。「深刻」かっこつきのこと。自負なんかしていないわ、まさか。それから歪みのげてもの的興味も肯定しては居りません、それは大丈夫と云ってしまっては又浅くうけ合っているようですが。そういう「深さ」「神経」には私は調和出来ないたちなのだから。ほめて苦笑されるけれど「ロバとキリンの間を往来している存在に対してのみ」は適評ね。
これらのことにつれて沁々と思うことは、武者さんの例にしてもね、私たちは、本当の明るさに到達するだけの努力を怠りがちなように、本当の面白さに到達するだけの精励をなかなかしないのね。「尤も」ということは低いレベルでは常識一般への妥協にすぎないし、それより一寸さきだと道学流ですし、それより先は「哲学的」で、もっと人生の味を求めるものは、それよりもっと高い精神の美に達しなくてはならないけれど、これ迄の文学というものを考えると、尤ものつまらなさにせいぜい「哲学的」レベルで抗しているのね。トルストイ、バルザック、スタンダール。日本の小説はせいぜい「尤も」に抗そうと試みているという工合。文学に新しい面白さがいるのだわ、そしてそれを得ることは大した大したことなのね。これ迄の文学の観念から溢れ溢れなければならないでしょう。しかし果して何人の芸術家が自分の輪廓を自分でのりこすでしょう。
作家の心理(作品のかくれたバネとなっている)というものは、この頃実に微妙になって来ていて、ひねくれているわ。たとえば主人公に老人をもって来る、何となしの流行。『帝大新聞』に感想かきましたけれど。文学が一応常識からは歪んだようなものの正当さ正常さの人間価値を見出して、更にそれより高くなろうとするに多くのものが力及ばないというところには、これはカッコつきでない深刻な課題があるのね。そういうことを考えるときのロバはクサンチッペではないのよ。ああ、でもロバという名をつけたのは誰なの、あなたなの? それとも私?
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[自注6]トラさんの眼――顕治トラホームに似た眼疾を患った。
[#ここで字下げ終わり]
七月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月三日 第三十二信
三十日づけのお手紙、きのうの朝。
それから、きのうは電報をありがとう。丁度午後から留守していて、その間に浩子さんが一寸出かけた又そのルスにあれが来たので、浩子さんは、雑司ヶ谷のあの分室まで行ってとって来てくれて、白木屋の角で会ったらすぐわたしてくれました。
浩子さんいいところがあるでしょう? 大変律気でうれしく、何だかおキクさんのよかった面をふっと思い出し、あのひとも北海道だったと思い、何だかいろいろ感じながら、霊岸島の方へ歩いていました。(というのは、きのうは寿江の誕生日で林町一同夕飯をたべたので、浩子さんも一人だし誘ったの)
あれは大助りよ(電報)東京官報ハンバイ所なんて電話がないのね。ああ閉口と、行かなければならないと思っていたからほっといたしました。ありがとうね、よく早く知らして下すって。とにかく着いてようございました。
私の勉学はそろそろとよ。
今も、下ごしらえにアランの本を一寸よんでいたら思わず何か笑い出すところがあって、急にこれを書き出しました。
「礼儀というものは無関心な人たちのためのものであり、機嫌は上機嫌にせよ不機嫌にせよ、愛する人たちのためのものなのである。お互に愛し合うことの影響の一つは、不機嫌が素直に交換されるということである。賢い人はこれを信頼と委任の証拠と見るだろう」
私は思わずクスリとして急にこれを書きたくなったのよ。先日のロバの声思い出して、ね。何となし滑稽でしょう?(アランは勿論、そういう信頼[#「信頼」に傍点]と委任[#「委任」に傍点]が度をこすところに家庭の悪徳を見ているのだけれど。)私は実にあなたを賢い人[#「賢い人」に傍点]として扱っているということになるし、私の信頼と委任とは随分大きいわけねえ。ロバとキリンの間の往復という、天来の珍妙性をもって信頼[#「信頼」に傍点]される良人というものは何たる天下の果報者でしょう(!)
きのうも九十度になりました。私は手が又はれぼったくなりましたから、気をつけてオリザニンのんで、今年の夏は下へおりて、四・半で勉強します。去年の夏は多賀ちゃんがいて、私は二階にいたので眼が変になるようになってしまったから。今年はいろいろ工夫をこらして、うまくやらなければなりません。それに可笑しいのね、私の体は。風の吹きとおすところにいては仕事出来ないし、ひどくつかれるし。せんぷうきの風なんてじかに当るのは全く駄目です、それで二階がたまらなくなるのね、しめますから。むれる一方で。
若い人たちの家、それはいいのがないのも実際です、が、旦那さんの方が、消極的我ままで、きまらないところもあり。私はこういうタイプ迚もやってゆけないと思う。よくあるのね、女にも男にも。
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