の単純なものだとは思いもいたしませんし。そして、やっぱり満点細君でありたいわ、ねえ。それは、そうでしょう? そして、私としてそうである現実のモメントはどういうところにあるかということだって、それはわかるわ、ここにシンセリティのこととして云われているとおりに。わかるのよ、そして、わかっているのよ。
 私は一つお願いをして置こうと思います、よくて? どうぞどうぞ忘れないで覚えていらして下さい。それは、次のようなことです。三日に、あなたは、これからこういう必要もないだろうが、と云っていらっしゃるけれど、実際のところ私たちの生活で、もうこれから決して只の一度もダラダララインにひっかかるようにしないなどという高言は放てないと思います。私は、ほんとうにひっかけないようにしますが、でも、もしそういうことがあったら、そのことについてはどんな落雷もいとわないわ。そのことについてだけのガラガラピカリは相当であってもいいから、どうか、ほとばしらないでね[#「ほとばしらないでね」に傍点]。つまり、それが出来ないなら云々というところは、どうかのみこんで下さい。どうも私はあれをきくと少々気の変になった驢馬めいた気持になるらしいから。何だかデスペレートになってしまう。バタつきたくなるのよ、可笑しいでしょう。
 ピカピカゴロゴロは風雨を誘うものでありますから、その天然の理法によって、ピカリとすればおのずからホトバシルのかもしれないし、そのところだけはぬかして鳴ってくれとたのむ方も虫がよすぎて相すまないのかもしれないけれど、でも本当にお願いいたします。よくて? 本当のお願いよ。どんなひとだって、急所はあるものよ、私の急所はその辺らしい様子です。ソクラテスは、偉かったでしょうが、或はこの急所をきっといくらか揶揄《やゆ》したのよ。女房というものは獰猛《どうもう》なものだということを余りえらすぎて忘れたのよ。クサンチッペをこれだけ擁護するということは、私もバタつく驢馬になれるし、それから先のものになる可能もある(!)というおそるべきことなのかもしれません、可怖、可怖。
 私は、よくよくあの「それに応じて」以下数個の文字がいやと見えます。たとえばこの二つのお手紙の、懇切さにつづいて出て来たにしろ、そこへさしかかれば、きっと、私は胸の中が変な工合になって来て、いやあだと感じるでしょう。もとより原因をなくすかなくさないのが自分の責任だということは承知の上で。自分の弱点を、家庭的な云いならわしだの笑い草だので、合理化してしまえば、それは過去の幾百千万の家庭のなかみと同じになってしまうから、あなたが、あれは事務的に下手なのだからと諦めて下さらないことも正しいし、私がこれからの落雷も、わけがあれば敢てさけないわけです。
 下で書いていると、珍しいところがあります。すぐ前で、八ツ手と青木の赤い実が、突然の激しい風に吹きあおられて揉まれるのが見えたり、脚が痛いから坐り直したり、いろいろと。
 派出さんかえって来ました。私もかえって来ました、というのは、林町へ泊りましたから。
 稲ちゃんは満州へ立ちました。二日の夜九時すぎに。家へ行ったら臥ていて熱があると云って。おやめなさいよと云っていたら、それでも立ってしまいました。今瀬戸内海にてとハガキが来ました。熱もなくなった由。よかったこと。強引ですね。私は、南京虫にくわれたときつける薬と、オーディコロンと、タルク粉と、小さい袋へ毛ぬきだの鋏だのの入ったものをあげました。私は南京虫にくわれると実にひどくてアンモニアをつけてやっとしのぎました。それを思い出して。マヤコフスキーに「南京虫」(クロプイ)という劇があって、現在はどこにでもいるクロプイが、或る時代には全く標本しかいなくなって、南京虫、ネップ、ビュロクラートみんな標本として博物の教室で学生が観察する芝居がありました。舞台に大きい張りものの南京虫が出て来るのでした。
 さち子さんは三十一日に田舎へ行って、もう二枚もハガキくれました、二枚とも目白四ノと書いて三に直してあります。四ノ六二? かがうちだから。きっと随分書いているのよ、ね。旦那さんは細君と子供とがいなくて、さっぱりしたような淋しいような工合でしょう、おばあさんどんなにしているか、見て来ましょう。あすこのおばあさんは、本当に真白な髪で、深く腰がまがっていて、腰を曲げたなり袋をふりまわしてお買物です。
 この頃は、牛肉がちっともありません。鶴見かどこかにある巨大な屠殺場では一日七頭の牛を扱っているぎりだそうです、牛として来れば、どこから来ても一頭いくらと公定で、肉となってくれば、近江一等肉ならそれとしての価でうれるわけです。従って、料理屋には入るが家庭には入らず、という珍現象です。うちのもう何年もとっている店も休業中です。
 岩手がいわしの本場だが今年は地元の肥料に足りない、何故なら肥料はやすいが、干物にして売り出すとずっとたかくて、静岡辺ではその干物を買ってお茶の肥料にしますから。こういう関係。
 下で書いている珍らしさの一つで、間にちょいと稲子さんの『季節の随筆』というのをよみました。そして、あなたにもおめにかけようと思います。何だかいろいろと面白いから。人って何といろいろでしょう。この夏か秋に、秦山房という本やから、私のいろんなノートや断想のようなものを集めて出すのだそうです。そんなものでも、やっぱりひとによってちがうのね。栄さんも近いうちに随筆集が出る由です。こないだ出た『たんぽぽ』という本は余りかきあつめできまりわるいそうですが、送るようにたのみました。
 きょうは、朝ひどい雨の中を歩いて来て、(林町から)すこしそれから休んだりして、今の夕日の光が何だか珍しいようです。ラジオで三時頃から天気になると云っていたら、本当に三時ごろから晴れて可笑しいようです。
 林町では国男さんが太郎よりも熱心で、小鳥をかって居ります。大きい金網の中にいろいろの鳥が十七羽居ます。私はこんなのを見るといやなところもあります(「伸子」の終りのところ覚えていらっしゃるかしら)。事務所は今、あのひとのほかには一人しか人がいません。あとは女の子のタイプとお使の青年と。こんど、すこし暇を見て、ゆっくり話してみたいと思いますし、人は自分の専門については本当に熱心でなくては駄目だと思います、生活の中によさがなくなってしまって。一心なところがなくて。益※[#二の字点、1−2−22]行きたくない条件ばかりふえて困ります、本当にそう思うのよ。

 六月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 六月九日  第二十八信
 きょうは本ものの暑さですね。ところが天気予報だときょうから小雨よ。でも、当っているかもしれません、雲は薄りかかっていて、だからこんなにあついのかもしれませんから。暑さにせかれて、紺ガスリ二枚と人絹のサラリとしたシャツをお送りいたしました。セルはもうつきましたろう。
 けさ隆治さんからハガキが来て、うれしいお知らせを一つと、上等兵になったことを云って来ました。肩章も、とかいて消してあります、あのひとらしいことね。およろこびのハガキをかきましょう。きっとそちらへも行くわ、ね。
 七日のお手紙、きのういただきました。ありがとう、その前の二つへの御返事とゆきちがいね。それにあの二つはおそくつきました、どうかして。
 写真週報のこと、私は電話かけませんでした。
 森長さんは四谷の方へ引越されたハガキが来ました。そして謄写は皆出来て、多分きょう(月)そちらへゆくとのことでしたから、夜でも電話して見ましょう。四谷の番衆町ってどこいらでしょうね。きっと賑やかなところでしょうね。音羽の家は、空俵屋の角を入り、もとのホーヘイ工廠の山の下で、こわくもあったのでしょう。あの辺はよく泥棒が入りますから。
 封緘は、相当ございます、今のところ段々補充して行けば相当大丈夫ぐらいあります、島田へも勿論ねがいますが。
 前の二つへの返事で書いたのですが、ガクガク的に云われること、まるで見当ちがいという風に思っているのではなかったのよ、あのときにしろ。心もちだけ勿体つけて云えば、それは笑止千万のようね。坐ってお題目となえてるみたいで。でも、もうきっと前にかいたのがついて居りましょうが、私は、どんなに叱られてもいいから(あなたとして其が閉口、でしょう※[#疑問符感嘆符、1−8−77])ああいう条件だけは、どうしてもどうしてもいやということなのよ。そうじゃないかしら。万ガ一はかがゆかなかったからって、急にその日に現れなければ、その理由とすぐあなたにおわかりになるどんな方法があるの? 私としてそれをお知らせ出来るどんな方法があるのでしょう、だから駄目よ。そんないやなことって困る、と、私がバタバタになるのお分りでしょう? バタバタしているといくらか不条理でしょうから、それは、ユリが、少くともその時間の間に運べるだけ運んで、それで解決されてゆくことなのだよ、という声はよくきこえなくて、そんなら来ないでいい、ということだけがーんと響くのよ。女房の聴覚というものに、ね。だから考えようによっては私のいやがりかたは可笑しいのよ。仰云っているとおりあり得べからざること、ということへのつながりの想定なのですから。前の手紙でお願いしたとおり、私はダラダラしないよう十分気をつけますけれど、その代り、あなたもほとばしり[#「ほとばしり」に傍点]ならないように、と懇願しているのよ。
「いかに生きるべきか」本当にそう思います。小説の方がいいのだけれど、そこにもやはり多くの困難があります。私はエッセイとしてかきたくなくてモジャモジャやって今日までのびたのですけれど、誰かいい人の伝記ないかしらとも思ったのですが、つまるところしかたなく、やはり感想として書くことになるでしょう。これを終ったらもう私は小説しか書かないようにと思います。書くからには本当に若い心の心にふれ、精神をうるおわすものをかきたいと思って居ります。たとえば、今日死の問題が私たちのまわりにあります、ブルージェの『死』が、あんなにうれたりする理由。葉がくれの哲学がもてはやされます。武者小路の「愛と死」という小説がどび[#「どび」に「ママ」の注記]ます、しかし、死が、いかに生の中にあるものだ、かということ、一番明白な理由、死んだ人にはもう死がない、その人の死は生きているものの心の中にある、という関係で、そのような死を生にいかにうけとってゆくかということだって若い人の心もちの納得ゆくように解いては居りません。葉がくれの死狂いなり、死ねばよい、という表現だって、ごろつき学生の解釈とはちがうべきものです。こういうことはしかし、小説ではちょっとかきにくいでしょう、場面的に。
 今日の性格が、今日的色彩を一応は一般的なテーマに投げている。それを正常な理解において明らかにしてゆくということはやはり一つの大切なことでしょう。えせ宗教論のはびこる心理についても書くつもりです。
 例えば結婚論にしたって、先ず人と人との正当な理解ということがすっかりオミットされて、ごく皮相な優生的条件だけで、結婚が云われている。それはやはり一つの間違いですもの。
 眼の衛生の本。去年、南江堂で買おうとして品切れで、そのうち私の方がよくなったのでそのままになって居ります、眼の本はうちにありません。
「ミケルアンジェロ」そうだったの? よんだ本によって調子が書評につたわって来るということは、あのとき痛切に感じ、そこによいところとよくないところ(自分として、よ)があると思ったことでした。
 協力の本はもう二百頁も校正が出ました。これなら本当に本月二十日すぎ本になるでしょう、すらりとゆけばいいこと。すこしはどしどし増刷になってほしいと思うわ。
 家のこと、一昨夜、うちへ仕事てつだいに来ていてくれる娘さんといろいろ相談して、もしかしたら何とかゆくかもしれなくなりました。そのひとは母娘きりなの。父さんはお灸をやっていて、今は満州の何かの病院の物療科へつとめて行っていて当分かえらず、そ
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