の美しい直線のバランスの中に、人間の視線の角度というものをちゃんと計量して、ふくらんだりやや細くなったりしていて、浮彫の様々な頭飾ももって、そして、美しいのですもの。私はそういう柱列をいつも見ているわけでしょう? そういう円柱であればこそ眺めあきるということがないのですもの。
 きのうは、あれから大バタバタをやりました。かえったら、第二回目のマントー反応をしらべるために、林町から一家がやって来て太郎はギャアギャア泣いたりして。二百倍ので陰であったら百倍のでしらべて、それで陰であったらいよいよ予防注射をするのですって。大体大丈夫でしょう。いきなり二[#「二」に「ママ」の注記]百倍でやると、もし陽の場合、よくないのだそうです。
 先生一族はこの三十日から国へゆきます、母子は二週間ぐらい滞在の予定の由。体の弱い娘、あれこれの娘として、お母さんになっているのを信じないのですって、親類の年よりたちが。だからハイこれが旦那さん、ハイこれが息子、ハイここにもう一人とおぽんぽをたたいて、名刺を貼りつけたお盆をもって歩いて来るのですって。どこでも旦那さんというものは、なかなか[#「なかなか」に傍点]なのよ。アニ、ダイコウノミナランヤ。
 私の眼は、この頃大体大丈夫です。疲れるとちらつくのですね、余りくたびれたら又薬を貰ってさしましょう。夜は大変眼がつかれて、いやと思うときは夜仕事いたしません。反射する光は目に堅くて、いよいよ昼間ずきとなるわけです。
 今の派出は問題外のようなひとですが、でも今月中はこの人でとおします。きょう畳バンバンは駄目で(人足の都合で)明日になりました。丁度いいわ。これで布団類の手入れもみんなこわすことだけはすんだから。今の派出婦は、せんたくものをちゃんと知っている人さえ少いようです。
 中野さんのところでは原さんが又腎盂炎で、卯女が百日咳で、よく眠りもせず看病したそうです。だから、きょうはお見舞に甘いものを届けて貰います。たのんで、てっちゃんに。ところがね、台湾に去年大風がちょくちょく吹いて本年の砂糖は大分減って又砂糖欠乏の由です。サッカリンずくめということになりそうですね、例年の2/3しか収穫なしの由。うちも牛乳は、用心のため一本とって居ります、工合でもわるくしたときソラと云ってないのですから。野菜が主の食事になっても牛乳があるといくらかましですから。でも三人迄の家には三合ぐらい(月に)食用油を配給するそうですから、いいけれど、どんな油でしょうね。ヒマワリの油を用《つか》うのでしょうか、私はあの不消化工合にはこまった覚えがあるのですが。ヒマワリの種をたべるところの庶民的食用油はヒマワリで、それはこなれにくいわ。油がひどかったりして私はあんな胆嚢炎をやりましたから、油には大いに注意するつもりです。きっと肝臓の病が殖えるでしょう、肉の油が不足でどこでもそれを多く使うというわけになるでしょうから。家庭ではひどいものしかたべられない。そとで、うんと高ければましなものもある、そういう傾向になって来ます。
 私の血圧は大丈夫と思うのですけれど。あぶなそう? この頃は又そとめにはお分りにならないでしょうが、すこしほそいのよ、私としては[#「私としては」に傍点]。ですから猶いいと思って居ります。私はどうせ、急にポクリのタイプではあるけれど、中風の型ではありません、体つきからそうの由です、その点は大体御安心。チブスも今のところは大丈夫。虱のいるところは大変伝播して居ります、あれはいつも虱ね、ジョン・リードだってそうよ、虱よ。
 これからとりかかる仕事は、うまく行けばいいのですが、かなりむずかしいと思います。いかに生くべきか、というようなことをいろいろの角度から扱ってゆくのはやさしいようでそうでもないことね。いろいろのポイントが煙霞のなかにぼやかされるために。
 高見順が文学について書いているのに、先ず文学は非力である、非力であるが、獅子と鼠の物語のように、ライオンのとらえられた網をくいやぶるのはネズミであるというような云いかたをしている。そんな工合ね。イソップの出来た時代はどういう時代であったのでしょう。そのものとしての特性を主張する率直な形をとらないで、一先ず非力と云うのは何という現代のひねこびた曲線でしょう。その位一方で強引なものがあるわけです。
 日本の芸術家が、年をとるにつれて納るということについて、たとえば石井柏亭のところへ、若い一人の女の子が絵の勉強の相談にゆきました。面白いところのある絵だということは認めました、でも、その子は自分の生活の界隈としてきたない細町を描いているのよ、電信柱のある。そうすると先生は、電信柱というようなものは土台美的なものではないのだから、と。芸術についてのセンスの一致している点又はなれる点、面白いことねえ。その子の絵に面白いところがあるとすれば、それは即ちそうやってあり来りのきたなさの中に何か生活を見ているからでしょう? そこが別々に見られるのね。美的なものというものがあるという風に見るのね。健全なものがあってそれはどんな不健全なつかいようをしても健全であり得ると誤解している人だらけなのを、改めて考え合わせます。
 芸術における世代とは何と厳然たるものでしょう。
 そのことは、詩集のありようにも映って居るわけですもの。
 全五巻のほかに別冊としてある素足だのボンボンなどの描写、追随を許さないものがあります。別冊がやがて全六巻という工合にあみこまれて、きっと又未定稿がまとめられるでしょうね。ちょいちょいした断章に、忘られないのがあるわ。すぐれた詩人は、二三章の断章の中にも感銘をこめる不思議な魅力をもって居ります。息吹という題で、いく章かの断片がある中に、覚えていらっしゃるかしら、さっぱりとすがすがしい丘に、さわやかに軽く匂い茂っている浅い叢。その丘にふさり、手でその軽い叢を梳《す》きながら、遠い泉のしぶきの音に耳をかたむけている一人の女を描いた、淡彩風の短詩。それから、夏の篇の驟雨《しゅうう》。あれも見事ね。さし交した樹々の枝は愈※[#二の字点、1−2−22]深くかげを絡ませながら、揺れ、そよぎ、根から梢まで震動をつたえつつ、葉と葉とからしたたりおちる雨粒が、下の泉の面にころがり、珠と結び、その珠のつながりは忽ち泉のふきあげるしぶきにまじって、紅の罌粟《けし》の花弁をひたしながら溢れる様子。すがすがしい丘の上に、が淡彩であるなら、これはたっぷりとして油の香りも濃い絵ですね。こういう風景画なら、風景画でもただものではないわけですが。私はあの驟雨を読むと、自然の旺溢の美しさを身にしみます。葉のさわめき、つたわる雨粒の丸い柔い変化の多い音。枝のきしみ合う風に交った音。
 でも、夏は又面白い題材も多いものと見えます。
「無邪気なウォタ・シュート」というの覚えていらっしゃるでしょう。あれには、心持のいい插画がついていたわ、かーっと晴れた夏の午後、公園の大池のウォタ・シュートの尖《とが》り屋根。その屋根は赤と白とでお祭の時らしくぬられていて、元気のいい男の子が、いくらか風変りな曲線をつけられたところを、池に向って小さいボートにのって、辷る、辷る、と笑って叫びながら辷って行っては水のしぶきをあげている様子。ちょいと雀斑《そばかす》のあるような顔をした男の子がかいてあったでしょう、ぷりっとした体で、溌溂として、いい匂いの髪のある。あれもなかなか爽快な作品です。
 まだすっかり夏にもならないのに、こんなに夏の詩の物語をしてしまっては早すぎるでしょうか。
 でもいいわね、季節のよろこびは、よろこびを期待するそのよろこびの中にもあるのですから。
 昨今の世の中はね、五月のへぼ胡瓜《きゅうり》という次第なのよ、野菜を目方で売買して居りますから、お百姓さんの心理として、一本でも重い方がいいでしょう、五月のへぼ胡瓜の由来です。
 だから私たちの詩についての話ぐらい、ふさわしいしゅん[#「しゅん」に傍点]であってもいいでしょう。この頃はどこでもちょいちょい畑つくりよ、うちは駄目ですが。まねして紫蘇《しそ》でも生やしましょうか。ではね。

 五月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(紀伊田辺・元島遊園地の写真絵はがき)〕

 五月三十一日。きのうは畳あげ、今日は古雑誌の大整理、五十貫売りました。五十貫あって十二円五十銭よ。大したものです。すっかりくたびれて、タバコ一服のつもりでこれを。ベッドの裾のところにあなたの羽織をかけてあります。時々そちらをながめます。大島の絣が柔かく華やかに見えるというのは大変面白いことね。こういう風にまじっている光景の珍しさ。ごみだらけの顔で眺めて居ります。

 五月三十一日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(紀伊田辺・文里港の写真絵はがき)〕

 このエハガキが戸棚から出ました。きっと去年だか戸台さんがお国へかえったそのときのでしょう。あのひともお嫁さんが九分どおり出来たのに、まだきまりません。お母さんが後家さんで決心しないのね、故に、上の息子はいつの間にかおかみさんをもちました。上の姉は、母さん私およめに行くわとふろしき包を一つもってゆきました、妹は戸台さんのところへそうしてはゆかないらしい様子です。

 六月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 六月六日  第二十七信
 きょうは、本ものの暴風ね。私は妙なところでこれをかいて居ります、下の茶の間の隅のカリンの机で。二階をふきこむのですっかり雨戸がしまって居て、ランプつけて今頃いやでしょう、ですからここへ来ました。
 二日づけと三日づけのお手紙、ありがとう。一どきにつきました。学燈の本のこと。ありがとう。三一年というと、今日にしてみればその頃来るべき新しい時代の女性というものをどう考えていたかというようなことが逆に見られるわけでしょうね。その意味では或は面白いかもしれませんね。本当に十年前。もとより十年の間にも決して古びない婦人観はあり得るけれど、どんな視点でかかれているのでしょう。
 文学古典から、ということを、やはり考えます。トルストイはもうつかまえて居るのです、彼の性と女性との見かたについて。あといろいろたぐりよせるのですが、シェクスピアの「オセロ」なんかやはり面白いところがあります。『私たちの生活』の校正がもう出て、ね、大スピードね、百頁以上初校すみました。その間に、あれこれ次のこと考えている次第です。書く以上やっぱり美しい高いところのある本が書きたいことね。本にしろにせものと本ものとの区別出来る感覚をめざませたいことね。人間が発見してゆく智能というものの価値をしっかりとしらしめたいとも思います、プランがむずかしくて。科学の精神というものについてだってやっぱりはっきり書きたいのですもの。
 私の手紙へのこと。恐縮|仕《つかまつ》ったというところを読んで、何だかにやりとしてしまいました。即ち幾分ユリはてれたのであります、そして、そこにひろい大きい手のひらを感じ、おめにかかったとき、手紙書いたよと笑っていらしたその空気を感じます。
 あなたはおこらず、ともかく私の感じかたをきいて下すって、ありがとう。私にしろ土台から、プランをもって、まわりくどく手法的とは思っていません、そんな風に考える[#「考える」に傍点]ことは、私の自然の感情から不可能なのはあきらかです。でも、このお手紙に「ほとばしり」とあって、私はやっぱり面白いと思いました。ほとばしるものにはほとばしっただけの勢があって、それは流れているものとはちがった顔へあたる感じをもっているわけなのね。ですから、私は何だかキュッと感じて、その感じは苦しくて、ふくれたわけだったと思います。一番私の閉口なところに向ってほとばしったからでしょう、きっと。水鉄砲のように。
 三日のお手紙に云われていることは、くりかえし読み、又くりかえし考え、ここには何一つ納得ゆかないものはないと感じます。そのとおりであると思えることしかないわ、どこからどこまで。私だって、用事が用事だけ
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