でさえ、工合をわるくしたということは、お恭ちゃんの可哀想なところね。いろいろの点から淋しい心でなくかえるようにしてやりましょう。
 私がいくらか変なやりかただとお話ししたのはね、お恭ちゃん自身のことではないのよ。兄というひとがその専門で、ジャーナリスティックには派手にいろんなこと話しているのに、妹の体の現実については、神経のこともこのことも全然だまっていて、私にきびしくしつけて下さいなどとたのむところ、科学者らしくなくていやだ、というだけ。
 お恭ちゃんは云わば自分で自分のことをよく分っていないのですから、可哀想に思ってやらなくてはならないのです。
 思いがけないことで、ここへ来たと思って、きょうは青葉の嵐を電車の中から眺めました。東村山でおりて、三十分ほど歩くのですが、きょうはあの雨で、しかもお医者予約してあったので、いいあんばいにハイヤーがあって(保生園のため)往復ともそれで濡らさずにすみました。いろいろの結果は、封をした封筒に入れたものに書いてくれて、それを兄さんの方へ送りました。そのお医者さんは私や本人が見たってろくなことはないと思ったのでしょうね。
 十坪住宅は今誰も住んでいないそうです。つつじの赤く咲いている丘を歩きながらそんなことも訊きました。目白から電車だけ小一時間ね。
 私は協力出版というのに渡した原稿ののこりの部分の整理で今忙しいところ。又題に困ってね、割合楽なものだし範囲のひろいものだし「私たちの生活」としようと思います、わるくないでしょう? そして、藤川さんに表紙を描いて貰って女のひとが何かしながらひょいとこっちへ顔を向けて今にも物を云いかけそうな、そういう表紙をかいて貰おうと思います。
 題と云えば、只今島田からお手紙でね、坊主の名ね、正輝にしようとしたが、すこしむずかしいようだというので、二人の若い親が相談して輝《あきら》としたのだそうです。それで届けたそうです。宮本輝というわけね。まあ、いいのでしょう、その小さい男の子の顔をみたらきっとあきららしい気がして来るわけでしょう。輝がアキラとよめるとは漢字の魔法ね。些か魔法すぎる傾もある位ですが。でもあの二人は一字名が何となしすき、というところ面白いことね。勝という字も、やはり一つだし。親の気に入ったのが一番いいと、あなたも呉々云っておよこしになっているからとありました。
 お産は大層安産でした由。よかったわねえ。一時間で生れ、お乳もたっぷりたっぷりですって。これこそ全く何よりです。この頃人工栄養でなくてはならなかったらもうやり切れません。ものがないのだもの。お母さんが来て世話していられるそうです。お母さんが、あなたのお手紙を見て(玖珂の、よ)大変よろこんでいられましたそうです。お母さん一荷をおろしたとおっしゃっているのは全く御同感ね。多賀ちゃんや冨美子お祝いに来たそうです。きっと冨美子は赤ちゃん珍しくて可愛いと思ったでしょうね。あのは子供に大人望があるのよ。
 あしたは五月五日で、そろそろ送ったお祝がつくでしょうから二階の床の間に、初端午の兜の飾物が燦《かがや》くわけでしょう。かけものなんかでなくて賑やかで子供らしくてよかったわ。
 この頃は余り鯉のぼりはありませんが、それでもたまには若葉の間にひるがえっているし、そちらへゆく途中、いつも往来から迄子供たちの万年床の見えているひどいおかみさんのうちがあってそこを通ったら、珍しくも畳から床があげられて、掃かれて、そこに二つ、赤い布をしいてガラス箱入りの人形が飾ってありました。
 太郎の鯉のぼりは風にへんぽんと舞っていることでしょう。
 二十九日にね、かきかけの手紙があるのよ。それは、お客で中断されたというばかりでなく、むずかしくて、今よみかえし、やっぱりこういうテーマというものは何と捉えがたく、云いあらわすにむずかしいだろうと感歎いたします。
 夢が本当のようにまざまざとそこに坐っていらっしゃる絣《かすり》の膝だの、そのわきに仰向いて高く二つの手をのばして、重い頭をその手の間に感じ、響きのような訴えを心に感じているままさめて行って、そうでない朝の中に出てゆく心持は、何と独特でしょう。
 あなたにもおそらくは、こういう明方の訪れることもあるでしょうねえ。昔の歌よみは夢の通い路というような表現をもっていたけれど、それはそんな限られた幅の上でのゆきかいではないと思えるのよ。そんなことみんなかきたくて、書きかけて、どうも下手にしかかけなくて。
 余韻の中にゆられていて、ひるから迄も私はいつもの心もちでなくて、涙がこぼれるようなのに、書けないの、可笑しいでしょう? こういう情緒を表現する方法はつまりは二つしかないものなのね。一つは極めてリアルに決して体にわるいことのぞんでいるのではないわ、ただただ、と願っているその心の叫びのあらわれのまま描くか、さもなければ、抒情小曲として表現するしかないのね。でも、私は詩だって散文でかくたちでしょう? 小説でかくしかないのでしょうか。
 生活って面白いのね、名をつけるとか、病人が出るとか、二人ともいそがしくて詩集ふところのままおちおちしなくて、そして、生活のそういう間にあらわれて再び生活のなかに消えてゆく詩も持ったりして。
 芸術の中に生かされなければ、そういう生活の花のようなものは遂にどこにも跡をとどめないでしまうということを考えると、びっくりするようね。書く。そうすると、それは在る。書かない、そうならそれは在ったという跡もとどめない。このちがい何と僅かのようで決定的でしょう、人生にはどっさり不思議なことがあります、それの一つね。生き過ぎるという人間の生活を考えると、何とおどろくでしょう。刻々とその人の人生はすぎつつある。でも、それは関係のなかでだけ実在しているというような人生。自分の生きて居るということの次第をはっきりと我ものとしたいという人間の欲望を、芸術がうけもっているというのは面白いことですね。
 芸術と云えば、重治さんのところの卯女が一本田へ行って川を見て、すばらしい川だと云ったとハガキよこしました。親の言葉がこんなにそのままうつるのよ。大笑いで気味がわるいわ、ねえ。三つの女の子なのよ、やっと足かけ。
 北海道のおかあさんの次の息子がやっとお嫁さんをきまりました。その嫁さんをむかえにかえっていて、今につれて来るでしょう、あの母と息子はこういう風に気質がちがうのよ、たとえば嫁さんもらうと、母さんの方は、はア若いものが何かのとき世話になるだもの、皆さんにおちかづきになって貰えというと、息子の方は、きまりわるいよ、田舎なんかからぽっと出た女房。万事そういうちがいがあるの。お嫁さんが来るときっとそういう問答が行われるでしょう、と栄さんと話して居ります。何かいいお祝いを考えましょう。
 明日はてっちゃん。火曜に午後。風が吹いていやね。
 きょうはくたびれて何となくほーとして居ります。では。

 五月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月八日夜  第二十三信
 今九時すこし前で、私はおどろの髪をふり乱してこれを書いて居ります、そうかくと可怖《こわ》いでしょう? 髪を洗ったのさっき。そしてそれがかわく迄これを書こうというわけです。干[#「干」に「ママ」の注記]いたらすぐねてしまうのよ、きょうは。
 さて、お恭ちゃんも今ごろはさぞムニャムニャ云ってうちでねていることでしょう。
 すこし様子を申上げるとね、月末から咳をしていて、佐藤さんに診て頂いた方がいいなどと云っていたところ、二日の日に(金)貰った映画の切符があって、佐藤さんのおばあちゃんをつれて一緒に行きました。そしてかえりに送って行ったら丁度在宅で咳が変だし顔つきが変というのでとっつらまえていやがるのを見てくれたのだそうです。そして、左にラッセルが相当ある由。
 翌日、いそがしいのにトゥベルクリンをやったりいろいろしてくれて、三日に東村山へ行って、又その次の日は私もついて行って、五日に仙台へ手紙を出したという順でした。ねあせかいたりしていたのに、私にかくしていたりして。今思えば、ちゃんとわかっていて、それで自分では見当をつけていたのね、だから私にいやがられたりしないうちに、きっとうちへ相談でもしてやろうとしていたのでしょう。そういうことにならずわかって実に私たちとしてようございましたね。心持がいいわ、ちゃんとわかって、するだけのことして。ねえ。黙ってかえって夜具なんか乾したぐらいで別の人がかけたらどうするのでしょう、キンが出ているのだそうだから。私は反応が陽でしたから大丈夫ですが。
 日曜以来、すっかりタガをゆるめてしまっていたので、実にいろいろ気をもみ、本当にきょうは吻《ほ》っと、よ。昨夜は、切角いたのだからと寿江子も夕飯に一緒に近所からちょいとした支那料理をとって御馳走をしてやりました。そして、おっしゃっていた半分をもたせてやりました。ちょろりとどこかへおいてのこして行こうとするので、包みの中へ突こんでやりました。かえって御覧、あってよかったと思うのだから、と云って。
 上野へは白田と云って従兄で、これも目下やっているのが送りに来ていて、すまなかったと云っていました。
 さっきお話したようなわけで、何だか兄さん男を下げた気味ね。どうりで、恭子が工合がわるくなったら白田に云ってくれと云っていたのだわ、初めに。いろいろ兄さんとしては可能を知っていたわけですものね。神経系統の方はうちでは大丈夫だったのは見つけものですが、イジワルがいないから、それはよかったのね。気質も明るくなったと云われたそうでした。正月かえったときに。あの子とすれば全く可哀想です、体のよわいということは、気の毒としか云いようないのだから。でもね余り、特権をふりまわすから、その調子だと母さんにはもっとふりまわして結局体も心もろくになおらないといけないとお灸をやりました。食べものなんか気をつけて気が変ってたべられるようにとしてやるのに、口の先でクチャクチャやったりして。女の子って。
 大体女のひとは病気を直すのが下手ですね。これを癒さなければ、というはっきりした目的がないのが多かったり(若いひとなんか)さもなければ、家庭で、目の先のことから気分をはなすことが出来なくてずるずるになったり。
 多賀ちゃんのことを思い出します、大丈夫かしらと思って。迚も疲れやすい子でしたから。不思議なほど疲れていたわ。空気のいいところだからやれているのでしょうね。
 きょうは、可笑しかったの、朝時間がなくて、大あわてで、帯をおタイコなんかにむすんでいるひまがなかったものだから、小さい帯しめて羽織着て出たら、まア、暑かったこと! 夏なのね、セルを着ている人が何人かありました。フーフーになって、上野から林町へまわって、咲枝の帯をかりてしめて、そしてそちらへ行きました。
 あなたはきょうお湯上りだったでしょうか? さもなければ着すぎていらしたのかしら。何かあつそうに見えました。熱なの? そうではないでしょう? てっちゃんはいつも元気そうでした、というから何にも当にはなりません。私は疑わしそうに、いつも、そうかしらと答えます。お大切に、ね。本当に大切に。
 上り屋敷でおりてから(真直かえりました)お礼に佐藤さんのところへよったらば、赤坊がそりくりかえって泣いていて、お婆ちゃんが、もてあましているの、さち子さんおなかをわるくして二階に臥ているというので、上って見たら、その声もきこえず眠っている、下では行坊わめいているので、私は市場へ買物にまわる、そのついでに乳母車にのせてやろうと、おばアちゃんをすすめて車にのせてひき出してやったら、ハア、ハア? とふりかえって顔を見てすっかり泣きやみました、そこで上りやしきの駅の横で電車を見物させて、私は市場へまわり買物しようとしたら、きょうは肉なしデーでした。うちの肉屋も一ヵ月に四日休みます、玉子を買うハンコを押したりいろいろして、かえりに魚やへまわって夜のお菜を云いつけて、かえって、ヤレとおしりをおとしました。
 夕飯の仕度
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