[#二の字点、1−2−22]瑞々しくなければならないのですもの。そうでしょう? 待って居りました、と、石のようなものが出たらお弱りになるでしょう? それでは全くあわれ無惨となりますからね。
 こんな思いを、しずのおだまきの如くくりかえしくりかえしたる揚句にきめるのですから、あっちの暮しで、ユリがお嬢様還元をやるだろうということからの危惧は、本当になさらないで下さい。自分としてこんな気持で動くのに、あなたが元と同じにその点お気づかいになって、いつも自分に対して何か心配していなければならないとしたら、本当に生活は却って不健全になると思います。仰云るように、私は二階がりのつもりでね、一生懸命にすることをやりましょう、それでさえいろんなこまかいことはすっかり違ってしまうのです、私はそれがどんなにいやでしょう。第一あの玄関へ私を訪ねて来る人の心持は、ここの玄関へ来たときのその人の心持とはもうちがうのです。ここの家へ来ると、そのひとが自分の親切は小さいことでもここでは役に立つのだと知る、そういうそのひとの善意が自然に流露することさえ変ります、こんな家にいるなら、自分の思っているこんなことと、よい意味で謙遜したって、そういうことになってしまう。いやね。それを思うと、又、黒煙|濛々《もうもう》です。
 でもまあ、度胸をきめましょう。辛さにもいろいろあるというわけをよく知ってね。一方のいやさをなくしようとして、もっと本質的な、時間の経過によって消されない生活の結実を喪っては大変だという考えからだけ、どうやらやっと肚《はら》をきめるのね。こんなに骨を折ったことは、近年にないことだと思います。
 でも、もしかしたら大局的にそういうきまりのついた方が、あなたとして御安心なところもあるかもしれないとも思えます。それもそうだ、というところもあるでしょう? 生活の複雑さ、微妙さ。ね。いい方法というものが発見されてゆく上の柔軟さを大切ということはよくわかってはいるのですけれども。
 勇気をふるって、よく精励して、居たくないところにいる人間の気むずかしさなどは持つまい決心です。それこそ大負けですからね。ユリがもし精神の活溌さからの明るさを持っているとするなら、それは益※[#二の字点、1−2−22]雲ふかき間を射し貫くものとならなければならないわけでありましょう。(と、自分に申しきかす)
 今年の桜は、咲くが早いか雨に遭いましたが、花吹雪はなかなか風情があります、いろいろの思いの上に吹き散ります。
 ロマン・ロランの脚本で二十五年間持ちこしたのがあるそうです、「獅子座の流星群」その他。ねえ。チェルヌイシェフスキーだって、ね。あれは二十年。この間、丸の内を歩いていて、ああ成程、と感服したことがあります、地理に関することでね、ずーっと以前、そうやって、二人で鉄砲うちにも出かけたり出来るなら、と笑った、人たちの生活の舞台ね、ああいう広大さがないところでは、形も変って、その土地で、そこで、そのままで、しかし同じような効果を生み出す、方法もあるのねえ。ああそうか、と大いに合点をして、そうだと分ればそのようにも致しましょうと、思ったわけでした。平面、立体というのを女学校の幾何のとき少し習[#「習」に「ママ」の注記]わりましたけれど、立体的というのもいろいろ様々ね。ですから私は大いに立体的小説をかこうというわけです。
 そう云えば、もうきっとあなたはピーピーでいらっしゃるでしょうね、ごく近日のうちにお送りいたします。
 やっとこすっとこ、明日中に中公の手入れ終ります、決して見苦しい片輪ものではないだろうと骨折り甲斐もいくらかあります。まるで経師屋でした、あっち切ってこっちへはって。書きこんでは又貼って。この部分はどうせ全部くみかえですね。それでいいからというのだから、かまわないけれど。おしまいの「しかし明日へ」の「しかし」をとって、ただ「明日へ」とします、それでいいと思います。二つの章がとけこんで消えてしまいました。「渦潮」と「転轍」。枚数はまだ不明。かきこみの工合で見当がつきません。
 重治さん一家は、保養に淡路島へ行ったそうです。暫くのことでしょう。通う千鳥のなく声は、の島です、どんなところでしょうね。
 稲ちゃんは箱根。鶴さんは大変血を出しておどろいたら喉の真中がさけてそこから出たのだそうですが、佐藤先生の話によると、傷があるようだと、別の意味で真面目に考え、駆除しなければならないのだそうですが。いろんなことがあります。
 ああ、お久さんが女の子をもちました。ばらさんというのは男の子よ、お恭ちゃんが桃色の布、水色の布でおくりものを縫いかけて居ります。そういえば、シーツおいりになるのでしょう? 何とかいい丈夫なのがあればいいのにね。キャラコ忽ち?
 では又明日に。暖かかったり寒かったりだから呉々お大切に。きょうはありがとうね、おっしゃったようにしたら口の中でとけるようでした、美味しく、美味しく。

 四月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 四月十九日  第二十信
 こんにちは。ああきょうは何とのんびりでしょう。花を自分で久しぶりに買いに出て、何となく柔かな春の花が机の上にふさふさとしていて。クロッカースというのは何にも大した花ではないし、やすい花ですが、こうして様々の濃淡であるのは美しいわ。そちらのヒヤシンスよく匂いましたろうか。
 きのうはね、あれから家へかえったら、仕事手つだってくれている娘さん来ていて、夕方お恭は留守になるし(金、稽古)私は云わば足かけ三年ぶりの仕事終ったのだし、実にのーのーしたくて、六時ごろ出かけて、日比谷の新緑見物いたしました。すこしおそすぎて、もう若葉にさす夕方の斜光の美しさはなかったけれど、芽立った樹々の重りの奥ふかい軟かさ、色調の変化の素晴らしさ。日比谷も全く見ちがえます。この公園は私たちの生活にどうもなじみふかいのよ。先は、接見許可をとりに行ってかえりにはすこし樹の下を歩くのが習慣でしたし、いつか冬の晩、父の命日の会食のかえりに雪見を寿江子としたり。新緑の日比谷は、日頃ここに手入れしている人をありがたいと思います。
 それから、一寸夕飯をたべて、咲枝の誕生日のおくりものに、やすくて可愛いタバコ入れを買って(のむのよ)新橋からのって、早くかえって早くねむりました。そんなにして、羽根をのしつつ、懐の中にひそめた一巻の詩集は、しっとりとした重さで私が見るものやきくものを共感しているというわけです。きのうはね、陽光のかげんで、むき出しにした若い女のひとたちの腕や脚が、新鮮な桃色の絵の具で艷々描かれたように見えて、描きたい衝動を感じました。新しい緑と桃色みたいなそういう人体の美しさを、それなりの自然の品のよさで画面にとりいれたら素敵ね。そういう人なかなかなし。
 新緑に感じる私の恍惚は一年の絶頂ね。秋もいいにちがいないけれど、新緑の美しさは夢中にさせるところがあります、そして、日比谷を歩きながら考えてね、新緑を見たいというとあっちこっち田舎を考えるけれど、足まめなら東京のいろんなところに新緑が見られるのだから、と。冬の雪、今ごろの新緑。リズムがあって、それで面白いのね。風景に。
 さて、十四日と十六日のお手紙。二つ並べて、私は、さてさてどうしても封緘を見つけなければ、と思います、ハガキだと、おそらくこの四分の一よ、ねえ。それはあんまりと申すものでしょう、ねえ。
 十四日のお手紙の大森のひとのこと。ここに云われている点は十分よくわかります。積極に肯定する意味での尤もというところは云わば一つもないでしょうと思います。初めの出発が継続されなくなったということに、プラスは一つもないのは明らかね。その人にしろそれを知らないのではないのです、知っているのよ。でも、人間がある場合、正当である、という判断でだけ一人の人と共に万端やっては行けないこともよくわかりますしね。木や棒のようなひとは、私たちの生活でさえ、頭脳的なもので支えられていると解釈したり、その他もろもろの筋だけで理解しようとしたりする貧弱さですからね。人間生活についてのそういう粗[#「粗」に「ママ」の注記]朴さ、一般になかなか在ります。そして、そこから様々の行きちがいをも生じるのね。余り単純にしか心のニュアンスがないと、その一つのものにいろいろの感情を統一させてゆくだけの生活実力がなくて、却って、それとこれ、それとあれ、という風にバラバラに扱って、始末に負えないことにしてしまうのねえ。よられた糸のようであるからこそ、一つとなって切れないという生活相への叡智がかけると、たくさんの困ったことが出来ます。人の味は大切ね、最も高い内容において益※[#二の字点、1−2−22]大切です。味がどうであるかということが、とりもなおさず現実には善意の内容、表現と思考の素質ということになるのだから。そういう意味では、作品の味いと同じことですね。
 隆治さんへ本を送ること承知いたしました。お金にしてやることも。
 早起のこと。ニヤリとしてしまいました。これも一つ久しぶりに知りたいものだね、なんて、気味のわるい。
 この間うち、寝坊と顔にかいてあったのは、夜をやたらに更かしているのではなくて、いいかげんに床に入ってもなかなかあれこれと頭の方が眠らなかったからのことです。くたびれた顔していたのでしょう? でもね、その位のことはありますでしょう、何と云ったって。
 家のこと、きのうも云っていらしたように、いろいろの点わかりますが、私はやっぱりなおなお考えているのよ。たとえば十六日のお手紙に云われている、作品の生活的確実さと作家の生活というものについて、やっぱり私は、目下大体きまった方針を、いいとはどうしても思えません。現実にピラピラがつくのがいやということは、やっぱり私のかん[#「かん」に傍点]のまともさであると信じます、決して決して庶民的[自注4]なんかではないわ。間借人的労苦というものが、それなりには出ないで、自分に向っても庶民的なものに向ってのロマンティシズムみたいなものがついてまわって、私がものわかりのわるい犢《こうし》のように尻をおとしてひっぱられながら抵抗しているのは、実にそこのところです。
 やっぱり林町向きとは反対の方向にあるのも自然らしいと思って居ります。ここの家賃なんか、今のアパート一室代ですものね、六畳三畳で少くとも30[#「30」は縦中横]以上なのよ、今のアパートというものは、大したちがいでしょう? もととは。私はやっぱりもうすこし共同的な方法について考えて見るつもりです。
 ないならないなかから、いろいろましな文化もうけいれ知ることも知って伸び育って行こうとする積極さ、美しさ、虚飾ない熱心さ、それを欲します。
 あの中公からの本の終りにね、こういうことを書きました。私たちは自分たちの獲ていないものについて、どういう見かたをもつかということこそ大切であると。女性が文学の仕事に従うなんて、獲ていないことへの目ざめ以外にモティーブはないのですものね。
 協力出版という本やの内容、大体まとまりそうです、きのうあらまししらべたところでは。月曜日の午後にでも来て貰って相談いたしましょう。三百枚以上(原稿で)わたせましょうから大した貧弱さでもないわね。それから、筑摩書房のにとりかかります。五月一杯に原稿をわたすという予定で六月初旬になるでしょうね。少くともその仕事が終る迄は、このままにして居ります(林町で引越したがって家さがしたりしていますし。もし万一、もっと直《チョク》にくらせる場所へ行けたら、或は私にとっても大仕合わせね)しかし、うっかりは動けないでしょう、とりつけの店がないとあれに困る、これに困る、でね。

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[自注4]庶民的――人民や労働者という正確な言葉をつかうと検閲が思想問題を扱っているとして禁止の可能性があるので、わざと漠然とした用語をえらんだ。
[#ここで字下げ終わり]

 四月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 四月二十六
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