さとがとけあって一つにもてるということにある条件、沁々と感じました。
 私のうれしがりかたすこし強すぎるとお思いになるかと思いますが、それは安心なすっていいのよ。わかったということも理解である場合と発見という場合とがあってね、理解が発見的境地をもたらす場合、その者にとって、他人が知っているとは全然別様に作用する発見であり得るということはあり得るのですもの。
 もうすこし仕事片づけたらこの本をもう一度よんでね、つづいて第十章のところのこまかくかいたものをよんで、そして初め間違えてよみはじめたものをよむつもりです、面白い。レバーをのむときのようよ。ああこれだけのむと、あしたもてる、そんな慾ばった感じで血の殖える感じ。
 私は痛切に感じます。私は作家として小手先の面白さでまとまるようなものに生れついていないで、その全部の育つためには自身なかなか骨を折って、ぶつかって全重量を傾けるに足る素材のいる時期に入って来ていて、しかも素材を日常の中からつかむ(そんなに大きく)には、それだけの大きい勉強がいるという、そういう作家なのね。
 あの文庫よんでいて、一つの云うのがおしいほどいいテーマを感じました。それは「海流」の中にも一寸出て来る重吉の家のあきないの推移の本当に基本をなした動きをずーっと勉強して、今日女の事務員が精米に出張している、その日への過程ね、これは一つの立派な堂々たる素材であり、テーマです。安積《アサカ》の米屋、百姓とのいきさつ、その百姓とKとのいきさついろいろ。これは二年ぐらいあとでものになるのよ。いいでしょう? 大したヒントをとらえたでしょう? うれしさはそういう点で二重三重よ。日本と日本の家庭の一つの典型のエピック。リアルによく勉強し、楽しみです。こういう大きい作品のプランがあるといそいそね。その意味でもいい年末です。
 しかし、出版関係は大したことになるらしい様子です。紙が先ず現在つかっている量の二割の由。二十冊出した本やで四冊ですからね。配給の工合も全く変化して、今四つの大売捌が会社になって、小売ははじめ希望だけ買ってしまうのですって。そしてその手数料(小売の儲が)岩見重太郎は五割で自然科学なんかは一割の由(暫定)税務署ではならし二割と算術するのだそうだから、誰だって岩見重太郎をおく、と。大したことでしょう? 出版屋が、著者を儲けでだけしか計らなくなるのは当然です。儲る著者が石川達三ピカ一という現状は輪に輪をかけます。そして文化は益※[#二の字点、1−2−22]ダラクいたします。しかも国は重大時局に面しているというわけです。
 このような来年の展望にあって、しかもやっぱり私はうれしさを感じるとしたら、文学の面白さ、歴史の面白さに所以するしかないわけでしょう。こういう時期に、勉強の価値がどんなにいきるのかということこそ面白いと思います。
 ワンワがあんぱんにつられるように、書けるものを追って顎を出してゆけば、どういうことになるでしょう。面白さ、勉強の面白さは、書けるものにかくべきことを見出してゆく力ですから。
 この暮は、島田のおせいぼなんかみんなすませたので気が大分楽です。あとは例のふたところと、眼のおいしゃだけよ。多賀ちゃんが世話になっていたお医者様二人にもちゃんとお礼いたしましたし。
 あすこの家は時代に一番わるくさらされて居りますね。だから多賀ちゃんにしろ、ぐじぐじした生活態度にすぐなって。
 二十五円で本屋をやる人に店の右側の一区切りを貸す話、きっとかえりぎわにあったのでしょう。履歴書出さないでいいのかと云ってもいいと云っていた、何故かしらと思いましたが。
 結果からちっとも生活を真に向上させる方向を示さないから、やっぱり総体の私に与える印象では、何だか張り合いぬけのした、なあーんだという感じで、よくありませんね。手紙にでも、こうして私の月給だけ入ると思うと勤めも辛いと思う気が出て、と正直に云ってよこすなら助るけれど、只「つとめもどうしようかと考えています」っきりでね。私は勤めれば、と思って着物だって身のまわりのものだって随分無理してもたせてやっているのに。だから、ひとを利用すると云われるのね。島田のおかあさんがおおこりになるところもわかります。一人の娘が境遇から与えられてゆくよさ、わるさ、何と複雑でしょう。
 でも、あなたは余り勤めをおすすめにならない方がいいわ。体が丈夫でなくて、タイプに通ったってよくへばって臥《ね》てばかりいたのだから。体をわるくしたりするといけませんから。生活態度は何も形で勤める、勤めないのことではないのだから。勤めないなら勤めないということの中にある態度なのだから。あの子は頭に早いところがあるから、逆に目前の適応性がつよくてそのときの空気や話にアダプトするのね。何だか裏の地べたを隆ちゃんに云々のことも大した期待を抱かせませんね。それならそれでもかまわないようなものでもあるけれど。
 客観的に今の光井の空気、その中でスポイルされてゆく村人たちの生活を思うと、一人の娘のそういう動揺もよくわかり、娘の家の存在もよくわかる、もっと貧乏で貸すところのないものはよろこんで働きに出てゆくのだから。貸せるから(高く)働かなくなる、こうして全く別の方向に押しながされるのね。いろいろやはり深いものがあるわけです。
 来年は一仕事すませたら島田へ行ってみたいと思います、いろいろ勉強かたがた。たのしみなのだけれど、あのうるささ思うと些かうんざりね。大臣格でね、どこへお出でです、何日においでです、全く、ばかばかしいのよ。光井へ泊りにゆけば、もうちゃんと御来訪で。実に時代おくれな形です。去年は特別でしたろうけれど。
 こんな紙はもう天下どこにもなし。今にきっとタイプライタの用紙にかくでしょう。普通の手紙の紙ひどくて、こまかくかけないし、ペンがひっかかるし駄目です。タイプライター用紙はいくらかましですから。封筒も、もう丸善のああいうのやそのほかありません。日本紙の封筒をつかうかもしれません。いろいろ様子がちがって参ります。
 私はこの頃せきしているのよ。大して風邪をひいたとも思わないのに、せきになりました。いきなりせきになったの。あなたは? 呉々もお大切に。
 羽織の紐、ほんとにいいのよ。そういうものにある美しさは格別ね。男のなりで思い出しましたが、佐野繁次郎ってイヤミの標本は洋画をやるが伊東胡蝶園で俳優花柳方面の白粉屋の主人なのね、成程と感服いたしました。では明日ね。

 十二月二十六日(消印) 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書 速達)〕

 十二月二十五日  第八十六信
 これが今年の一番おしまいの手紙となります。きのう、ほぅとお思いになったでしょう? 現れたのが寿江子で。
 二十二日にね、『文芸』のすっかり完結して、予定の二十日より二日のびたけれど、序文、目次、年表とりそろえ『中公』が五時で終るのでフーフーかけつけて、やっと渡し、やれやれと本当に一年越しの重荷をおろしいい心持になったところ、大瀧の叔母に当る人が永く胃|癌《がん》でいたのが亡くなり、そのお通夜ということになりました。
 この大瀧潤家という叔父は不運な男で、林町の母と同じ年故今六十六でしょうが、三人の妻に病死されて居ります。一番初めの妻が、父の妹の鷹《ヨー》子という人でした。その人の子が、基とひろ子とあって、ひろ子というのは、三井のパリパリのところへ嫁いだはいいが、ひどいきらわれようをして、病気になって結婚して一年目に離婚して死去しました。基は後つぎだが、あとの細君の子が六人いて、ソーソーたるところへ、そのお菊さんというひとも死に、あとへこのお久さんという人が来てやはりこの人も没したというわけです。又何故お菊さんとかお久さんとかいう名の人ばかり貰ったのでしょうね。
 私は、今度の叔母という人とは何かのことで家内が集らなければならなかったときしか会っていないのよ。ですから病気のこともよく知らず、見舞もしなかったので、叔父に対して余りわるいからお通夜いたしました。感謝するよ、と云っていたわ。もうすっかり白髪でね、昨日葬式でしたが、もうすっかり暗くなっている墓所でそのうつむいた白髪だけがぼんやり見えて、私は大変気の毒でした。お医者としてはヤブなのよ。それが家柄の関係で、順天堂のおやかたの次で、生え抜きです。ひとから頭を下げられてばかり来ている。そのためにひろい世間を知らなくて、あととりの息子なんかのものの考えかたと正反対で、又ちがう子がどっさりというのですから、家の内はごたごたなの。
 その点も気の毒です。しかしこの点については云わばその人の責任もあるけれど。妻に三度とも病死されるというのは偶然ながらひどい不運ね。そういうわけで、きのうは朝五時の省線でかえって、十一時迄眠って、ずっと七時迄。九時におふろへ入って、けさは十二時迄眠ってしまいました。私の表でこれは何という点でしょう。丁の下?
 さて、『中公』では、あれに気を入れていてね、なるたけ早く三月ごろに出したいと云って居りました。それに大変いいことは、うけもちの人が変って、おちついたいい本を出したいと考えている人になったの。今までみたいに、そらやれと火のつくようなことを云わない人になったの。ですから長篇も書くはり合もありますし、いろいろ心持がよくてうれしいと思います。一月になったら長篇の印税をいくらかとって、四ヵ月ぐらいの間にまとめます。その間に、一冊ぐらい本が出るとすれば、まさかまるであとは一文なしにもなりますまいでしょう。
 二十八日―五日ぐらい迄にまだ五六十枚書くものがあります。それをすませ、お正月は、あの本のつづきのものをうんとよんでね。
 今年の暮は私たちにとっていい暮だと思いますが、いかが? 十二月に入ってから、私の心持に本当に明るい展開がもたらされて、一層、しんの人間の明るさが、性格の明るさなどというものにたより切れるものでないこと、しんの明るさは正しい理解からしかもたらされないことを痛切に感じ、そのよろこびは大変ふかいのよ。いろんな場面で物を云わなければならないとき、内在的なかんでものを云うことには限度があって、(その正しさに)ね。その限度はやはり直感されていて、そこから生じる主観的な弱さがあるわけです。勉強のたのしさというものは、こういうときこんな味で分るものなのかとおどろいているわけです。こんなにユリを両面から明るくゆたかにしてくれるおくりものが与えられたということ、やっぱりいいお心持でしょう? 私は本当にうれしい気持です。こんなに段落がついて、くっきり自分の心の展開の自覚されるということはうれしいことだと思って。
 お母さんもいろいろの点で今いいお気持だし、隆ちゃんも一週間で手紙の来るところに無事で蚊にくわれもしないでいるし、それもやっぱりうれしいでしょう?
 それに、何年ぶりかで、借金しないで暮が過せて私はいい心持なの。これもまあいい心持の一つ。
 何だかひどくうれしづくめの手紙のようで滑稽だけれど、それでも、その範囲では御同感でしょう。元より一番のうれしいことは、勉強のこととあのことと、仕事のことよ。
 この勉学の収穫としてのいい心持というのは、夏から後の結果に対してばかりでなく、よく考えてみると、この三四年来のいろいろの心持の起伏の集積に対して効果を与えているのであると思います。あなたが、あきもせず、くりかえしくりかえし仰云っていることは、やがてはこのようにしてしんからわかる結果で結実するのね。そのことも大変面白いわ。そして、自分の程度がもっと高まるにつれて、くりかえしの必要のへってゆくことも面白いと思います。
 この手紙、まるで郵便船でも出るように、いそいで終って速達にいたします、二十八日に間に合わないといけないから。いろいろのことがあったけれども、総体としてはわるい年ではなかったわけでした。
 でも、クリスマスなんかは外の飾りからすっかり消えて、銀モールその他なんかどこにも売って居りません。お正月のお餅は切符でこしらえます。おとそにするみりんが買
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