やからに、リアリスムのこんな境地のあることを、どんな描写で学ばせることが出来るでしょうか。
 十一日のお手紙。情痴文学がそこまで歩み出せば、それは進歩であるが、もっと複雑な要素に立つ文学がそこへ腰をおろしては退歩であるということ、この関係は正しくとらえて云われていると感じます。あの『現代文学論』にしろ「文学史」にしろ、その前の方の側から云っているが、後者の側をはっきり押し出していないというところに難点があるわけです。更に、この頃の妙な文学の従属主義に対する意味で『現代文学論』の著者は、芸術のための芸術の価値を裏側から云っているわけですが、やはりそこには人間へ還れの場合にすべり込んでいるあぶなかしさのまま一歩進めているところがあって、むずかしいのね。或ものには進歩であるそのことが或ものには退歩としてあらわれるということ、そのダイナミックなもの、そこですね。このことは、いつぞやのお手紙にあった論理的把握と歴史的把握との間にある空隙のことと共に大変有益です。こういうところ私は忘られないのよ。具体的で実にわかるの。ありがとう。
 それから、友情論について。ここに云われている点、その通りです。例えば、「友人」だからと云って妻のある男が妻の知らない女を遊ぶ対手にするなんということは、それは友情というべきものでないという理解、それは、友達であるならその友達の配偶への態度に自然な限界があるべきという私の書いたものの中に云われていると思います。そういう点での友情[#「友情」に傍点]と称するもののいかがわしさを、私はちっとも許す気をもっていません。ですから「人間関係の豊富さ」ということにかりて、そういう妙なルーズさを肯定しようとする友情[#「友情」に傍点]に、私は常に反対なのよ。遊戯的或は擬似的な接触としての友情なんて、そういう表現をえ[#「え」に傍点]てつかいたがる連中の頽廃でしかありません。そして、その所謂友達[#「友達」に傍点]のあいまいな性質、妻を不幸にする存在について私は沢山見本を見ていると思います。それが逆に良人を不幸にする場合だって、例えば「海流」の中にその片鱗を示していると思います。
 すべての同僚感即ち友情ではないというのは本当ね。実に本当よ。そして、これは、歴史的推移の甚しいときには、何と具体的に痛感されることでしょう。
 その点につき、私はこの頃、いろいろな人のいろいろな暮しかたというものが、つまりはそのひとのいろいろの核心的なものの位置を何と雄弁に語っているかということについて改めて考え直します。
 その意味で、いつかのお話の中で一寸出た、(『文学論』にふれてでしたが)「人への評価でもユリは」云々の話ね、やっぱり忘れず心にのこっていて時々反芻しています。ちゃんとした評価、それに準じた交友。そういうことは或る時期心の中で人々の居場処に変化を生じるのです、近いところにいたと思えた人を遠くに見なければならないという風な。そして、そのことはここに云われているひろい輪とその中の独自な輪との関係をはっきりさせていないと、何となし心を傷ましめる感じにうけとられてセンチメンタルになる傾があるのね、そして、自分の評価に自分の方でついてゆかず、ごまかして、人情主義になるのね。その点では大人になってつき合いの雑多な等差に処してゆくべきです。生活の面の多様さにつれて次第に其は分って来てはいても。一番いけないのは近い筈なのに遠いことを発見してゆく心持ね、いやね。そのくせ、それでいて、遠いきりかと云えば、ことによってはやはりそれなり近いのだから。
 この感情わかって下さるかしら。「文学史」の後半について云われていることについて、私は一寸前の手紙にもかきましたが、その心持がああいう場合にも私には作用していると思います。そこが、私の評論家でも歴史家でもないところであるわけでしょうが。
 仕事上の交渉は云々のこと。私なんか実にそうね。特にその点神経も働くわけですけれど。婦人の作家にしろ何にしろ、その点がルーズなひと、逆に個人的な何かで仕事をひろげて行こうとしたりする人で、しゃんとした社会的存在をつづけるものはありません。
 それは日本の社会がおくれているということが変な逆作用をいたしますからね。あの某々が特に接触のある某々だからと、公人として便宜を得るなどということは万々ありませんね。それを女のひとたちはおくれていることから理解しないのよ。女こそ、猶個人関係なんかけとばした仕事でものを云ってゆかなければ、すぐ個人関係の推移とともにどうにかされてしまうことを十分理解しないのです。そして、ひどい軽侮をうけている、かげでね。
 私なんか、だから特殊な便宜もないし、非個人的であることから、私を知っていたら云えないような見当ちがいの悪口も云われるけれど、そのような点でちがった質のことはひと言も云わせないところあり、そこが小面にくいということになってあらわされたりもするのよ。読者にかけている期待、読者に負うている責任、その実感とその努力とは、個人的なものを間に挾んで仕事をする人間には到底理解されないことです。読者というものは、つまり歴史の積極なものという意味でしかないのですものね。それに対して自分は何を寄与しているかという確信、それ以外に仕事をさせる力はないのですもの、それ以外に仕事をさせられないことを堪える条件はないのですもの。
 十三日の手紙。
 カレンダーと云えばね、今あるような柱暦、今年はないかもしれないのですって、実に不便ね。私は月めくりを茶の間の柱の時計の下にかけておいてね、用のある日のまわりに鉛筆でわ[#「わ」に傍点]をつけて居ります。だから坐ってみると一目でわかっていいのに。日めくりなんかだと本当に困るわ。
 月曜の午後来てもいいと。あら。あら。では安静は? ずるやね。私はかぎつけていたのよ。きょうからどうせ開始の予定ですから読み了り参ります、丁度用もあるし、お金をもってゆく(そちらへ、よ)シーツもどうやら出来ましたし。
 そうね、もう僅で本年も終ります。
 多賀ちゃんのこと。多賀ちゃんが一番ためになったのは、私が若い女のひとの生活上の様々の点で、肉親であるとないとにかかわらず出来る限りしていい範囲のことはしてやるということを学んだことでしょう。あのひとのこれまでの圏境は、何かためにいいからか義理があるかしなければ、人にしてやるということを考えない中で育って来て、自分に対してされる親切も、つまりは若い女として自分の可能をのばさせてやろうとする心からだけされていて無償のものだということを知ったのはいいことでした。男のひとと女とは、若い人のもっている条件がちがい、女には特に女の先輩の力が入用です。そのことは知ってよかったのね。それで、野原の裏の地面のことああいう考えかたになったのよ。初め頃は、今更そんなこと要求されたりと、野原側で考えていてね。あのひとが少くともいくらかよりひろい見地に立つことを学び、それをきくことを学んだことは、将来の皆のつき合いのためにいいわ。
 女の少しどうかあるひとは「書生を養う」のが好きで、自分の世話した若い男が世間的に立身するのをよろこぶが、そこが私に云わせれば、古い女の古さです。女こそ女を扶《たす》けなければ、ねえ。
 多賀ちゃんはたくさんひがみをもっていて、そのトゲをなくしてかえったのは、あのひとの仕合わせよ。すこし利口な女が、やや逆境で、負けん気をもてば、狭い井の中でひがむのはさけ難いことですから。まあ私の親切の理解は様々でも満足されてうれしいと存じます。
 夜は十時、ねえ。そういえば一昨夜はかぜになりかかって九時御就床よ。それでうまくまぬがれましたが。早く早くと心がけているのですが。丙が十二時前? では乙は十一時? 私は丙は十二時前後[#「後」に傍点]なのよ。半までは丙でごかんべんとしているのよ。ああああ、あなたをここへもって来て、この表のようにやらせてみてあげとうございます!
 長いものは毎日五―七枚という密度でやってゆくのよ、どんなにたのしみでしょう。そして、表現上の丹念さというものをも十分にとりかえします。沈潜して沈潜して仕事したいと思います。
 私が表現上の丹念さをもっているのは、一時に幾種もの仕事が出来ないという私の特性と一つになっていることで、いろいろのことから無理してもいろいろの仕ごとをやって来ているには、無理もなくはないのです。長いものは、もうそれとくびっぴきでやりたいわ。ですからきょう迄おくれたのだけれども。それに、今になるとよかったことね。
 長いものの間で、非常に作者の内的な世界が、作品の世界とは別の波調で揉まれたりしたら非常にこまったでしょうから。底をついたところがあって、そこにあらわれている芸術上のいろいろのことを自覚して考えられて、そして、そこからの成長として長いものかくのは大変いいわ。本のバカ売れる時期ではなくなりました、が、それでいいと思うの。石川達三はバカになるわけです。あんな屑をかきよごして三四万の金がゴロリゴロリと入れば、相場師よりバカになる道理です。もぐらもちの嬉しい心持ってあるかしら、私は長い小説をかかえてもぐりこんで仕事すること考えると、もぐらが柔い泥へ鼻柱をつっこんだときこんな楽しみかしらと思います。

 十二月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十二月十七日  第八十五信
 この雨は雪にはならないでしょうね。いかが? 大変おさむいでしょうけれども。
 私は昨夜は只一つも火鉢なしというところで座談会をやって、なかなか珍しい経験でした。これからずっとこうだとすれば、人を招くものは大いに心しなければなりません。洋服のひとは御免下さい、とオーバーきるのよ、でも私はそう云ってコートを着るわけにも行かないのですもの。
 きのうは愉快そうにしていらして、私は二重にうれしく、火鉢なしでも、もてたところあり。
 実にこの暮はいい暮れになりました、本当にいいおくりものいただいて。
 文庫本ね、適当なときに、適切なもので、ずっと「文学史」について云われていた諸点、自分でもいろいろと考えていた諸点はっきりして、確信がついて、何とうれしい気持でしょう。「人間に還れ」という文学上の表現が或種の作家にとってはデカダンスからの救いである(これはしかし広汎ね、生産文学から農民文学から知性の文学から生活派文学に亙るのですから。)が、或る作家にとっては逆転になるということの意味が、鮮明に見えます。一本の道の上を一つの曲り角からこっち迄そのまま辿って来るのではなくて、ぐるりとのダイナミックないきさつで質の変ったものとなるのだという、その機微は、何と文芸評論にとって、大切な精髄的なものでしょう。芸術至上主義をも否定出来ないというとき、それはありのままに云えば、やっぱりいつか又自由なあきないが出来るようになりましょうというのと同然であるということ、その評論的質のこと、何と微妙でしょう。芸術至上主義論に対して本能的疑問は「人間に還れ」より一層自然に、私にはあったわけでしたから。
 でもうれしいわ。本当にうれしいわ。私の爽快さは、名処法[#「法」に「ママ」の注記]と相俟って、本格のものになった様子です。益※[#二の字点、1−2−22]地味に、ジャーナリスティックな埃に穢されぬ本質で勉強するよろこびを理解します。
 きょうの雨のようなものね。雨のいる条件はすべて備っていたところ、というわけでしたから。
 きょうはね、午前仕事して、午後からあなたの羽織の紐を買いに出て、夕方かえって、深い深いよろこばしい思いで殆どしんみりして、茶の間でひとりで、買って来たいい色の羽織の紐を結んだりといたりして眺めながら、考えて居りました。よく似合うわ、奇麗だことね、そう思いながら、頭のしんでは極めて遠大雄大な文学の展望を描きながら。あーあ楽しい、と思ったの。こんないい色の羽織の紐、こっち側から一寸はなれて見ていいわ、という景色のないのは残念と思いながら、こんなこまかな女房のよろこびとこんな大きい芸術のうれし
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