獄中への手紙
一九四〇年(昭和十五年)
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)咽《むせ》び泣いて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十二|社《そう》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
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(例)から/\と
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(例)その後の〓〓生活の
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一月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二日 第一信
さて、あけましておめでとう。除夜の橿原神宮の太鼓というのをおききになりましたか? 私たち(この内容は後出)は銀座からすきや橋に向って来た左角にある寿司栄の中でききました。
おだやかに暖い暮でしたが、正月になったら、きのうは風、きょうは又大層寒いこと。私は羽織を二枚着て居る有様です。
ずっとお元気? かぜは? 私のズコズコも悪化しない代り少々万年で。でも、実に吉報があります。それはね、島田から送って下すった炭が十俵無事三十日夜到着。私どもはワーッというよろこびかたで、もうこれで正月になった、という次第でした。うれしいでしょう、何てうれしいのでしょう。ですからきっと私のズコズコもなおるでしょう。佐藤さんのところでお年よりもいられて炭なしに閉口故、一俵あげました。佐藤さんフロシキを頭からかぶってかついで行った。この頃の良人にはこんな役もふえて来て居ります。
いろんなことが押しつまってあってね、三十日にフヂエが無断帰還を敢行、つまり逃げました。可笑しいでしょう? 二十八日の夜中会から速達が来ました。二十九日目をさまして何かときいたら、おふくろさんがかぜをひいたからかえってくれと云って来た由。東京で三十、三十一日はどんな日だか分っているのだから、私はおこってね、正月二日にかえっていいから三十日三十一日はいてくれなければ困ると云ったら(ことをわけて云ったから)何とも尤もで、では一寸かえってそのことを云って来ますというわけで、私はそのまま外出。タカちゃんに晩かえりますと云って出ました。私は図書館へ開いていたらゆくつもり。そしたら二十六日に終っている。がっかりして午後早くかえって来て、二人で夕飯たべて、さて十時頃になって、どうしたろうと戸棚みたら包ナシ。ハハアと大笑いしたり、ふんがいしたり派出婦根性をおどろいたり。
タカちゃんは却っていん方がのんきな、というから、では二人でやって、若い小さい娘でもタカちゃんがいれば一人でなくていいから、たのもうというわけに納りました。タカちゃんもゆっくりした気になって島田でやっていたとおりよく働いてくれて、本当にいい娘です。
三十日は夕方、佐藤さん夫妻と戸塚へゆき、おそくまで久しぶりに喋って遊んで来ました。いねちゃん二十九日にかえったの。健造たちのうれしい顔ったら! 何てうれしそうなんだろう、顔にウレシイとかいてある、と私が云うと、とろけそうな顔に笑って、体をよじっている。その稲ちゃんのところで又一人にげられたの、可笑しいでしょう、二人小さい女の子がいた上の方が、姉娘。よくない娘だったからまアいいのですって。皆、暮から正月へ荒っぽい金がほしいのね。派出婦なんかきっと三十日から三箇日ぐらいやとわれて、ガタガタやって、よけいに金をとるというわけなのでしょう。短く働いて数をこなして、ティップなんかあっちこっちで貰いたい、そういうわけなのね。こんなところでも私は日本の風習の混乱を感じます。何か手つだって貰った女へのような心づけのしかたをして、しかし派出婦として高く日給とるだけには技能もなく、おもしろいわね。派出婦のスポイルのされかたがよくわかりました。家庭笑劇一幕。
三十一日は一日二人で働いて、私は二階の本の整理。文庫本がまとまらなくてやり切れないので、去年の冬、牛込の方、というところから送られて来た戸棚の本箱、どっかの古物屋でお買いになったらしいの、あれを二階へあげて、あなたの坐ってつかっていらした大きい机の上にのせて、そこへ文庫大半しまって、大変まとまりました。久しぶりで床の間の板が見えて来て気持よくなりました。
それから、あなたからのお年玉である『秋声全集』も床の間の本棚の方へ入れて、夕方やっとすみ。二人きりで夕飯の仕度するより、外へ出てたべようと云うプランでしたが、どうともおなかがすいてやり切れなくなって来たので、たかちゃんがお国流に煮たお煮しめでちょっと夕飯たべて、門松をうちつけて、それから誘いに来た佐藤夫妻と栄さんのうちへ行きました。
そしたらね、ここに又一つ話があります。それは栄さんの妹さんが小豆島から来るとき、子供の一切の衣類、自分の平常着、その他木綿、毛糸(但皆純[#「純」に傍点]ナリ)の全財産を大きい布団ケースに入れて送って、それはもう三ヵ月近い先のことでしたが、未だ着かず。遂に紛失ということがわかったのですって。ひどいわねえ。どこかへ間違って配達されたらしいの。そしたらあけて見て、そのままぽっぽらしいのです。まだ編んでないような毛糸もどっさりありました由。先ず子供のものでは大困り。皆着たきり雀の正月よ。栄さんと繁治さんケンカしそうになったりして。それからマアこれが三十一日でよかった、そとへでも出ようよ、というわけで、壺井の二人、うちの二人、佐藤さんの二人、この一隊が銀座へ出ました。一人も暮の銀座をこれまで歩いたことなしの連中なので(私のほかは)それぞれ珍しく。たかちゃんふしぎな気がしましたって。それでもかえりの省線かけられて、かえってふろに入ってねたのが、午前三時。
元旦にはゆっくりおきて、九時頃お雑煮こしらえて、二人ともちゃんとおしゃれして、おとそのんで、あなたのおめでとう武運長久をやって、一日ゆっくりして、たかちゃんのお喋りをききました。
いろいろの風があちらの元旦とちがいますってね。おとそしたりしないのだってね。面白がっていた。私は去年は病院ですし、その前の年はミルクホール問題の正月ですもの、ことし位はのんびりしたくて、ちゃんとやったわけです。
本年は年賀郵便というものは大減です。1/10[#「10」は縦中横]以下です。宮本顕治先生として鱒書房というのからお年賀が来て居ります、廻送いたします、お出先へ(!)。晨ちゃんがよこしています。多摩川保養園というのに入っている様子です。
「人の世の深き苦み笑み耐へて 生きぬく君を尊しと思ふ」こんな和歌がかいてあります。「経過は順調故一層闘病精神を発揮し徹底的に克服するつもり」とかいています。こんな歌をよむ心は、やはり本人もさまざまの感懐があるからのことでしょう。戸ダイさんがアパートで炭なしらしく、賀状もこんなのにてれくさいと思ったら、床やのおやじが電気ストーヴをかしてくれて、手のかじかみがなおったからとかいてくれました。「メーターがおそろしく早い勢で廻転いたします」とあります。炭、米、アパートへは真先にことわる由。そういうのね。
今年のお正月通信はなかなか特徴的でしょう、おのずから。
野原の富雄さんは、きのう年賀電報という派手なものをくれました。多賀ちゃんと二人ハアハア笑いました。「段々父さんに似てきちょるかしれん」というわけで。
きのうは多賀ちゃんも云いたい話みんなして、二人きりだから、よかったようです。フミ子を夏休みによこしたいらしく、それもよいということになりました。四年になると卒業前上京します、旅行で。でも、私は例によって、時間のかち合いで何をしてやることも不便だったりしたらつまらないから、夏来ればゆっくりして、私は仕事していても姉ちゃんとどこへでも行けばいいし、それでハアいいということになりました。達ちゃん五月にかえり、六月には三年の御法事、夏はフミ子、冬達ちゃんが結婚でもしたら、なかなか出入りのはげしい一年です、六月にはたかちゃんがお留守いですから、誰かもう一人いれば安心なわけ。
島田の方もお元気で何よりです。たかちゃんに手紙をよこしたりなさり、はなれて見ると、又可愛ゆさもわかりお互にようございましょう。
二十七日ごろ、てっちゃんに手紙おかきになりましたのね。アラとやきもちをやいた次第です。てっちゃん、昨年の分皆もって来てくれ、又いろいろ興味をもって拝見しました。
良ちゃんお母さん、弟が新宿の方の家を解散して、林町のすぐわきに六月ごろから住んでいるということ、初耳でしょう?
二十九日にね、林町へまわって四時ごろ団子坂の方へと来たら、黒毛糸のジャケツの若いひとが、私にしきりに笑顔しながら近づいて来るの。この辺に、こんな笑顔してくれる人いない筈と思って見たら本郷の独文へ通っている弟さん。智慧ちゃんのなくなったとき咽《むせ》び泣いていた弟さん。「すぐそこにいます」というの。「いつから?」「夏から」本当にびっくりしました。ホラ団子坂の方へ行くと、右手に小さい印刷所があって、そこを右に曲ると、カギの手にバスの停留所のところへ出る道がありましたでしょう、あすこの左側の二階家です。「じゃお母さんにお挨拶して行きましょう」というわけでね、そしたらお母さん大よろこびでした。原さんに教えて私につたえて、と云ったのですって。眠らない赤ちゃんでとりまぎれたのでしょう。「元の家は銀行にわたしまして」とのこと。あすこには娘さんの一人の稼いだ一家と同じ家で、その方からのことでしょう。
こちらはお母さんと二人きり。動坂に娘さんが家をもっていて、そちらへ行ったらいろいろ賑やかには暮していられる由。ただすこしその家は日当りがよくないのですけれども。ちっともしおれてもいず、感心なお母さんです。年を召して、そういう大きい境遇の変化にああ明るく耐えているということは立派なことだと思いました。団子坂を通るといやでもよるようなところ故、折々よってあげましょう。年よりたちは、どこの人も、子供の友達が出入りしてくれることをよろこびます、しんからね。子供への愛がそういう形でてりかえして。
きのうはちょっと「北極飛行」をよみはじめ、深く心を動かされました。こういう底からの明るさ、信頼、合理的であることの当然さ、感慨無量というところです。あの筆者の性格も何と面白いでしょう、ああいうメカニカルな仕事をする人が、公文書でなんかかけないとあの物語をかく、しかしそれはあくまで科学に立った形象性として。ああいう天質の成長というものの中にどの位文化の多面さ、ゆたかさ、自由があるか、そのことでひとしお感動しました。もし私があの書評をかくとすればそのところにつよい光をあてます。新しい文化の傑出したタイプです。本当に感慨無量で、目に涙が浮ぶようでした。訳者は「小説(文学作品)とは云えないが」云々と云っている。しかし、文化の分裂の形であらわれる小説よりは質において遙に上です。あの中には人間の美がさっぱりと輝やいています。あれも本当に、いいお年玉です、いいものを下さいました、ありがとう。ああいうよろこびをもって小説家が仕事出来たら。きっとそうお思いになったでしょうねえ。創ってゆくよろこびが躍動してそれは天真爛漫にさえ見えます。
人間に希望、よろこび、慰めを与え得る文字、というものの価値は大したものです。日本の作家はこれまで、そういうものを通俗な事件そのものの目出度しや、ある心の境地や諦めやで与えようとしてだけ来ていますが、芸術の到達し得るところは、そんなところではないわ、ねえ。芸術は、悲劇をもやはり人間精神の高いよろこびの感動として与え得るべきです。苦痛の中にそのものが描かれてゆくことのなかに、大きい一つのコンソレイションがあるべきです。アランがそのことを云っているのは面白く思いました。なぐさめること[#「こと」に傍点]ではなくて、なぐさめられる心、それについて。芸術家の現実を統括してゆく力として。詩性として。もちろんこの判断はアランの限度のうちで云われている
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