れでは冬の間はいけません。もし又腎臓になったりなさると。おやめになるそうですからいいわね。
二十八日には多賀ちゃん、寿江子、私で、歌舞伎を見ます。私としても随分久しぶり。みんなが歌舞伎は見て居りますから、「どうで、多賀ちゃんも歌舞伎へ行っちょってか」というわけでしょうから。多賀ちゃんがかえると、私も何だかくっついてちょいと行ってみたくなりました。それも無理ないのよ、だって私これ迄只の一度も全くの用事なしで行ったことないのですものね、いつだって、あっちでうんとこさお辞儀しなくてはならないようなときばっかり行っているのですから。十二月七八日以後から暫くが一番行けるけれど、でもまあ今度はおやめ。又いつか春でも、用事なしで行って、お母さん京都へお連れしようと思います。本願寺を御覧になりたいんですって。私は大市という古い家のすっぽんがたべたいわ。これは日本の食物のなかの王ね。お母さんきっとそれをあがると陽気におなりになるでしょう、おさけで煮るから。
ああ、それからね、お母さんへお手紙の折、赤ちゃんをお守りなさるのに、おんぶしたりするような長時間のお守りは決してなさらないように云っておあげになるといいと思います、お体のために。子供の重さは日毎に加わって、体に案外きつくこたえるものです。
お母さんは赤ちゃんが生れたら守りをしなくちゃならないときめて、うれしいながら、いくらか悄気《しょげ》ていらっしゃるのよ、先から。あたりの年よりが孫たちの世話で躰をつかっているのを見ていらっしゃるから。今は店はしもたや同然だから、体のえらいようなお守りの必要はないのですから。
ああ、そう云えば羽織ね、大したお気に入りです。よかったことね。
私は明日、明後日と時評をかき終って、それからこまごましたもの、月末から十二月初旬までかいて。それから『文芸』のをすっかりまとめて十日位までに完了にいたします。すこし先日来お疲れの気味なの。会の話ね、きょうお話した。あれはあのような調子でやって参ります。日本文学者会もボスぶりがなかなかで、この先週の集りには集ったもの三人とかの由。そうでしょう、流行作家たちですから。暮の稼ぎははずせませんでしょうから。いろいろおもしろいことね。同人雑誌の大合同というのを仕事に一枚加えて、よび集めて、タケリンいきなり国民文学をつくれ、と云ったのだそうです。そういったって判りはしない。皆色をなしてね、意見らしいものが出ると、同先生が座長に自選していて、そりゃ、君いかんよ、と意志表示をするのですって。さすがに若いものは正直だから静岡のは席をけってかえった由。文学をつくる人間のうつりかわりは案外こういうところからです。これも歴史の面白き有様。
せっせ、せっせと掘る。どうだ上手に掘るだろう、気づいてみたら、頭の上はるか土がうずたかく、外の景色はいつしかうつりにけりというようなスピードですから。
戸塚夫妻は蓼科高原に御逗留です。ここにも一つの笑話があるのよ。蓼科は日本で只一ヵ所海の気流に左右されない真の高原地帯なのですって。実に療養に理想的空気で、しかも坪五十銭で十ヵ年契約で土地をつかえるのですって。
もうこういえばおわかりになるでしょう。あらホント? と、のり出した私が何を考えたか。十坪住宅のことは頭から消えて居りませんものね。私たちの想像力は旺盛に動き出して、そのような空気の中で安らかそうに体をのばしているひとの姿まで見えます。だって百坪で五十円よ、たった五十円よ、五百坪で 250 よ。
そしたら、稲ちゃんの手紙でね、夏しか住みにくくて、その夏には四五千の都会人士がつめかけて、名流人の御別荘|櫛比《しっぴ》の由。ハアハア笑ってしまった。だって、五十銭ときいて私たちがハッとするころは、もう何年も前に人が行くだけ行ってしまっている。ハアハア笑って、又忽ち行雲流水的風懐になりました。芝のおじいさんのところのことなんかで、私はよけい注意をひかれたのでしたが。フーフーいって仕事している間に、そこまで時間と空間とのひろがった想像まで働かすのだから私もどちらかというとまめでしょう?
林町はあの食堂が北向でさむいので、南の客間を食堂居間にして、上成績です。行っても家庭らしくなりました。日光もあって。私は、十二月に入ったらこの部屋をすこし模様更えして、茶の間のタンスを四畳半に入れます。ひとの来る部屋にそういうものをおくと不便ですし。二階はすこしゆとりをつけたいのです、ベッドを四畳半へおろして。只ここはおとなりの台所にくっついていて、すこしやかましいのが欠点だけれど。そして、ひる間一寸休むにこまるわ、いろいろ思案中です。きょうから玄関にはり紙をして、午後でなければお客おことわりにしました。藤村はいやな男ですが、「夜明け前」を七年かかって飯倉でかきましたものね。あのときは一切人に会わずで。私たちにそれは出来ないが、しかし、粘るところは、ざらにない力です。そういうところのよさは学ばなければ。蓼科へ行って秋声の伝記かくのだそうですが、『文学の思考』の序文が与える感想とそのこととをてらし合わせ、私はああはしまいという思い切です。勉強勉強と思うのよ。うちにねばって、休むこともうまくやることを学んで、勉強勉強と思います。原っぱへ行って休んで来て、それでいいと思うのよ。美しい詩集からいつも新鮮にされるよろこびを与えられながら。
そういうようなわけですから、どうぞ私の殊勝な志をめでて詩集についての物語も折々おかき下さい。
でも、今ふっと考えて奇妙なことと不思議に思いますけれど、あの詩集の中に冬のつめたさはつめたさとして一つもうたわれていないの、面白いことね。「濃い晩秋の夜の霧に」という題の覚えていらっしゃるでしょう? 遠い野末に見ゆる灯かげという句のある。そして、女主人公が、その野霧が次第にうっすりとする街へかえりながら、自分が不器用で、才覚なしだったものだから、のぞみのよこをただとおってしまったことについてのこりおしく思って歩いている心持をうたった詩。平凡のようだけれど、真情からうたわれている詩。あれだって、ちっとも寒さとして描かれていないし。「ああ、この冬は春の如く」は勿論のことですし。冬のさむさに凍らないあたたかい詩はいい心持ね。あたたかく、丁度程よく心をしめつける詩の風情の味いふかさ。
でもね、私はこうして詩のいろいろの味いを思い浮べると、小説のこと思わずにいられなくなります。いつかも書いたようなテーマの展開の素晴らしさを。
私には大変詩がいるのよ。
おっしゃっていた小さい岩波の本近く手に入りますの、そしたらすぐよみましょうね。金曜日まで、まだ当分ね。火、金というのはなかなか間があるのね。今夜はこれからお風呂に入り、眠ります、早いけれど。そして、あした朝早くめをさまし、よ。ではね。
十二月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(第十回龍子個展より「真珠潭」の絵はがき)〕
多賀ちゃんのお土産買いをかねて、明治大正昭和插画展をいそいで最終日に見にゆきました。いろいろ実に面白く思いました。插画しかかかない插画画家というものは何と低い限界で終始しているでしょう。そのわきに川端龍子の個展あり。この風景は面白うございますね、奥の深さ、そして前方の平らかなひろがりの調子。墨だけです。いつかの仙樵の描法を思いおこし龍子の才筆の或るくずれを感じます、御同感でしょう?
十二月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月九日 第八十二信
五日づけのお手紙、きのういただきました。ありがとう。「朝の風」のこといろいろ。でも笑えてしまったところもあります。だって、「本旨に反する[#「本旨に反する」に傍点]」とかいてあるのですもの。それはそうだけれど、でもやっぱりおのずと笑えて来る或る健全なユーモアがあります。
いろいろの点よくわかります。しかしね、ああいうものになった心理にはつながりが重く長いものがあって、夏の末ごろのあの買物ばなしの大きいつよい波がしずまらず、本当に私は病気になる位のところがあったから、その心持であれに執し、同時にリアリズムの衰弱もおこしたのです。でも自分でその病気はよくわかって居ります、大丈夫よ。あれをともかく通って、私は先へ歩めるのですから。自分の病気というものを客観的にみて、そこへ二度と足をひっかけまいとするいろいろの芸術上の課題について考えられるようになりますから。
今年一年の小説の仕事はいろいろ大変有意義であったと思います。「広場」「おもかげ」「朝の風」、そういう系列のもの、それから「第四日曜」「昔の火事」「紙の小旗」という系列。それは来年にはずっと統一されて、主観的素材のもの、客観的素材のものとが、一つの現実への情熱のなかにとかされるようになり、それで初めてやっと一束《ひとたば》のものとなります。
来年は勉強した素材で、出来るだけどっさり小説をかきます、たのしみ。こまかいものを書いてくれ、と云われなかったら万々歳なのですが。今のところ余り評論もかきたくありません。片々たるものは本当にいやです。雑誌の頁数がへりますから、どこでも片々となりやすいのです。評論ならやはり一つのテーマを自分でちゃんともって、それを毎月少しずつ書いてゆくという風なら、本当に成長に役立つでしょう。その方法をきめてやりとうございます。いずれにせよ、来年は小説の年です。
「朝の風」の「アパート」のこと、あの上に、人が自由に住む云々という文章があったと思います。けれども読者がそこにあるものを感じないとすれば、やはり不十分であることは明かですが。
二十六日からあと、きょうがはじめての手紙よ。『都』に文芸時評二十枚かいたのち、岩波の『教育』へ二十枚、「紙の小旗」二十一枚、あとこまこましたもの三十枚ほど。間では多賀ちゃんのおつき合いをいたしましたし。
多賀ちゃん七日の夜九時十分でかえりました。荷物が迚《とて》もどっさりでね、超過二円四十銭とかとられたそうです。おまけに一つの方の量が多すぎて、駅でつめかえをしたりして、夕飯をたべて一休みして時計を見たらもう八時、ホラ大変というわけで大あわてして出かけたら、いいあんばいに学習院の角の駐車場に車がいて、それをつかまえて四十分前に東京駅へつきました。まだ車輛が入ってもいまいと思ったら、九分どおりの人がのっていて、びっくりしました。寿江子と咲枝見送りに来ていて、林町へその前々晩送別会によばれ、大よそゆきの草履を貰い、寿江子にも何か貰い、てっちゃん、佐藤さん、稲ちゃん其々からお餞別貰って、多賀ちゃん大ほくでした。
丁度忙しい最中、家じゅうごたごたしていたので、私は疲れました。きょうは風が吹くけれど静かで、お客もなくて、ずっと机にいて一つ仕事終って、これをかいて居ります。又今夜も早くねて、あしたの朝なるたけ早くから校正をやってしまって、そちらへ行って、かえりに小川町の高山へ届けましょう。
校正そこで待ったりしているとき出来るように一つ万年筆をかいました。3.50 也。アテナ。丸善。金ペンはありませんですからパラテナというのでペンが出来て居ります。「それで書くとこんな字になるのよ、ザラつきます。ちがうでしょう」でも校正は紙がザラですから、どうせいいの。
多賀ちゃんのかえるついでに島田と河村と野原とみんなおせいぼをわたしてしまいましたから大安心です。丁度『明日への精神』の増刷の分が来たので大助り。歌舞伎を見せ、水谷八重子というものを初めて見物いたしました。新派というものの講談社性はどこかもうああいうひとの身にしみついているのね。八重子は情熱のとぼしい女優ですね、ひどく心情のひろがりの乏しいひとです。つまらない女優であると思いました。松井スマ子は子供のときみたぎりですが、目にのこっている生活力がありましたが。本当の芸術的なところがあったのね、八重子は何だか子役から段々仕立てあげられたというものに見えます、そういう演技とつまらなさがあります。歌舞伎では「演劇の健全性」というもののむずかしさがむき出し
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