ばよかったこと、御免なさい。
十一月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十四日 第八十信
雨のわりにおだやかで助ります。でも、そちら冷えましょうね。ポンポコおくらして本当に気になること。
この頃郵便小包のシステムがかわりましてね、市内小包六銭というまことに親愛なものがお廃しになったのよ。そして地方並に目方なの。すると、これまで六銭で行ったものが少くとも五倍、本などだと十倍近いのよ。なかなかうまく儲け法を見つけたものだと感服します。だもんだから、そちらへも、きっとこれ迄送っていた人が持って行くでしょうし、もって行くと、あの苦手の御老人益※[#二の字点、1−2−22]疳がつのり、私は益※[#二の字点、1−2−22]小包一点張りということになります。この有機的関係は、なかなか微妙で、心理的で、六銭が十倍になっても猶その方をとるという程度です。
きょうは、きのう頂いた二十一日づけのお手紙を、すぐ返事申上げます。内容充実のがたまると本当につまらないし、あなただって何だかおいやでしょう?
一つ一つ返事なければ、何となしひとりで大変永く話したように疲れた感じね。
ああ、それからね、本の紙も規準で一定になったし、封筒も十三銭ときまりました。そうきまることはよろしいとして、なかなかひどいものになりました。私は、封筒だの手紙かく紙だのは買いためしてよい権利もっていると思いますが、いかが? こんな紙ももうそろそろ切れます、市中にはとうに切れているのよ。
紙がきたなくなったとき、どんな本が出ているか、ということで、その国の文化のみならず真の国力がはかれる、ということをこの間かきました。それを痛感して居ります。
出現しない本のこと。手許にあります。出現させましょう。十五日づけの手紙については申上げたとおり。珍しいこともあるものね。どうしたわけでしょう。ネズミがその中で子供生んだのかしら。これからもずっと気をつけていましょう。
仕事のこと、『文芸』のかき直しに当面御熱中です。時評二十枚かいたら又それをつづけて、年表も殆ど出来上りましたから、それをまとめてわたします。
表はさち子さんのこしらえていたの余り尨大にしてしまい、しかしあった方がいいので別の人に簡単なのをつくってもらっていて、それを本にはつけ、さち子さんの方はどこかから、何とかした形で単独に年表として出せるよう考え中です。その方が当人は満足でしょうから。本の方へはサク引もつけます。ちょっとしたのでも年表ついた方がいいね、とおっしゃったでしょう? それでとりかかったのでした。やっぱり、やってようございました。
「文学の進路」はこれは傑作の部に属す題です。何とはっきりしていて、幅があって、動いているでしょう。いいわねえ。私はこれは今つかいません。こんないい題! これはね、「現代文学の十四年」に追加してもうすこし先へ行って一冊の本にするときこそ、それにつけましょう。それこそ実にふさわしいでしょう。竹村のに「文化の希望」をわり当てておきます。一つ一つがどれもつかえるということはうれしいと思います。二重三重にうれしいと思います。
『朝の風』出来ました。お送りします。装幀は前の手紙にかいたような河出のやりかたで作者にぴったりして居りませんが、河出からどっさり出している短篇集の一つとしてはましだそうです。そして又一般から云って手にとる気になるそうです。「近代日本の婦人作家」の装幀は、こっちから画家をきめてたのむつもりですが、誰がいいかしら。結局、中川一政かしら。あのひとの抒情的ディフォーメイションが余り気に入っていないところもあるけれど、それでも、今の人としたらましの分ですから。
文学史クロニクル風にかかれているが、という部分。ここは今日非常にいりくんだ手法の必要となっている点で、私は決してクロニクル風に平面に見ていないのよ。流れの本質のくさり(腐敗)を抉り出すことで、それへの文学的対蹠の本質を感じさせようとしているし、その点でむしろ一つの流れの中から云いすぎている、自分の流れを客観的に描き出していないという欠点が生じていると思います。いろいろ弱点がありますが、あれは只クロニクルではないわ。あの調子は只のクロニクルにあるものではないわ。それにね、前の手紙でかいたように、文学上の流れが今日は一人のひとのうちに二筋に流れているようなところや、文芸批評を許さずというドイツのまねの気風があることや、いろいろ実に大した有様です。
流れるままにそれに添うて文学現象を並べてゆくことは文学史ではないと考えているのです。だからいろいろここに云われていること、大変有益だし、この次の仕事で高めたいと思います。
そして、再びここで今日つけられる題の感覚ということについて、意味ふかく考えます。つけられる題で、最も健全なものをあみ出してゆく骨折りということの具体性を。
自分のうちに二つの流れを流しつつ、それが相剋する本質であるということについて感覚が麻痺《まひ》しているようなもののありように対して。文学史の上における文学的堅持というものと、その表現というものの間に生じる差の大さの間におっこちてしまうのね。そのおっこちまいとする方法に二つあって、一つは、文学史的足場の方を移動カメラ式にずらしてずらしてやって来て、表現の可能のそば迄もって来て、本来のカメラのありどころはあすこだったし、であるべきだが、という形。もう一つは、カメラなんかもう自分から蹴ころかしている組。
歴史は与えられた条件でつくるという言葉のうちにあるものの人間らしい希望。骨折り。そうよ、本当にそうだわ。もしそうでないのなら、私たちの生活術にしろ、どうして成り立つでしょう。
文芸復興の声の部分は、自分では、一方が様々の問題に面していたからとだけ感じているのではなかったけれど。そういう時期に、ここに云われているような吸引作用がおこったこと、しかも武リンや林がそういう流れをつくったところをかいていたと思いますが、そうでなかった?
科学的批評は以下、思わず笑えました。実にそうなのですもの。そして、終りまでに語られていることの実現には方法の上での様々な周密な考慮がいって、例えば、毎月毎月短い評論をどっさりかいてゆくというようなものの書きかたをしてゆくことと、どうもいつしかひっぱられて流れにつれて走っていることになりそうです。今日、舞台の正面にいるものほど奇妙な文学踊りをおどらねばならないのだから。
私は幸、益※[#二の字点、1−2−22]お正月号のしめ飾りではない存在だから今月は、これまでのものに手を入れたりする暇もあり、そういう暇をもつ意義を十分にあらしめたい心持です。
私として「十四年間」をかいたのは大変よかったと思います。常にあれを中心として、そこにある弱点についても忘れず、そのつづきとして、文学現象を永い見とおしでとらえてゆこうとする感覚におかれるから。多くて正確でいい仕事、もとよりそれはのぞましいけれど、ある時期には少くていい仕事もいいと思います。結果はどっちにしろ、つまりはいつも精一杯。そこね。
それでも徹夜廃止を実行するようになってから、まる二年と数ヵ月ですけれども、私は丈夫になったと思います。特に盲腸をとってしまってからは。愈※[#二の字点、1−2−22]重心をひくくして、勉強いたします。美しき精神の圭角を輝かしましょう。それなくて何の芸術でしょう。それからね、私は一つ笑われるような希望をもって居ります。それは、来年長篇をかき終ったら三四ヵ月それにかかりっきる大勇猛心をおこして、この間もうすこしのところで息を切らしてしまったもの、はじめっから読了してしまいたいということです。凄いでしょう? 何かそんないきごみもいいと思うのよ。せめてすこし本が出た折に。もし事情が許すならば。うんと倹約して、書くものはへらして。(勿論今のままにしたって、現に、正月号はしめ飾りだけでやっている、という実際ですから、自然それだけひまになるかもしれないが)ウンス、ウンスという勉強ぶり、楽しいでしょう? ものには、思い切ってやってよかったということがあるもので、何にでもそれはあるのだから。みんなは、文学文学と叫びながら文学からはなれて走る。私は書生になるの、益※[#二の字点、1−2−22]書生になるのよ。『改造』に有馬と佐々木惣一との対談あり、白髪の佐々木先生、「私は書生で、どうも」と。しかしわかること云っていて面白いと思いました。宇野浩二と青野の選評を見ても面白く、青野は鑑賞に沈湎し、宇野は文学の中から却って評論的であります。「きみは理屈っぽい」と青野先生が宇野に云っている。面白いでしょう? 文学常識であるべきことを宇野は云っているにすぎないのです。
先日来の細かいお手紙に、心からお礼申します。他人行儀のようで可笑しいけれど、でも、あすこにある声は深くひろく響くもので、文学の仕事に対する評言の髄にふれていて、私としてやっぱり心からのお礼を云いたい心持です。本当にありがとう。「朝の風」、懐古調では決してありません。
十一月二十七日(消印) 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十六日 第九十一信
きょうはそちらからいそいでかえると、すこし汗ばみました。大変あったかァい日だったの?
この頃ぱたついていて、頂いた手紙へ返事かいてばかりいて、余り気にくわないから、きょうはすこし時間のゆとりつけて、こちらからかきとうございます。
下で実業之日本の増刷のハンコ押しています。
きょうかえりにひどく気がついたのですが、今|銀杏《いちょう》や紅葉が、上り屋敷のあたりでもなかなか奇麗な色です。目白の通りずーっと銀杏でしょう。あれがすっかり黄金色よ。二年ばかり前、銀杏が緑を新しく芽立たせて、雨あがりの街の色が実に美しかったときビリアードの横の方へ散歩に出て、土管おき場のわきの大きいからたちの樹の白い花を見た話、覚えていらっしゃって? あんなからたちどうしたでしょう、又いつか行って見たいと思います。この間うちずっと家にばかりいて、何かきょう沁々色づいた葉の色が目にしみました。そしてね、きっと、いろんな街の色彩が全くへってしまったから、こんなに垣根越しの秋の色どりが目に美しいのだろうと、今年の秋を感じました。多賀ちゃんがかえるとうち二人でしょう、するとお砂糖でも何でも大打撃なのよ。三人と二人とでは大ちがいですから。きょうの『都』の夕刊は、学生は震えているという記事が出て居ます、炭のこと。三十四五室もっていても一俵しかないというわけ。それにお砂糖も1/3に配給減になった由。寒いからあつい紅茶一杯ともいかない由。土、日、でなければ映画館へ学生入れず、乗物では腰かけるナ、頭いがぐり。そして炭もない。今都会へ出ている青年たちの暮しということを考えます。寒いから、かたまって本を読もうとしたりすれば、忽ちだし。青春の価値への確信を、彼等はそのような現実の中から自分で見出してゆかなければならないわけです。あらゆる非科学的な矇昧の間をよりわけて。大したものね。
きょうお母さんからお手紙で、この間の速達に対し、およろこびでした。いろいろなこと、そちらから云って呉れると、若いものはよくきくからとありました。でも達ちゃん行くことにしているかどうかは余りはっきりいたしていませんでした。出発の日は見送りにゆくつもりでいるという風にかいてありました。二十三日に面会して、それからあとは、いつ出るのか秘密の由。それでうまく会えるのでしょうか。そこいらのことはよく分りません。
友ちゃんも元気だそうです。お祭りで四五日おさとへかえって来るのですって。そしてね、冬の間、御出勤は女のひとたちはおやめですって。それはそうでもなさらなくてはね。もし万一お出かけになるのでしたらと思って速達のついでに脚の方をひやさない細かいこと書いてさしあげましたが、私が机に向っているような形では駄目なのね。ちょくちょく立って米をはかったりなさるのですって。そ
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