であっても私 からはじまって居ります。よしや多くの展開の可能をふくんでいるとしても、私 からはじまったということは文学の歴史において何ごとかであるのです。それが拡大され、拡大されてゆく過程で、ある永い期間、やっぱり自分を追求してゆきぬかなくては、本質の飛躍の出来ないところ、ひどいものねえ。
 私がもしいくらかましな芸術家であったとしたら、それはつまり、あれをかいてみ、これをかいてみ、という風に血路を求めずやっぱり自分を追いつめて、やっとのりこす底まで辿りついたところにあるでしょう。十年がかりでそこまで自分をひっぱったところにあるというのでしょう。私小説が真の質的発展をとげてゆく道というものは、こんなにも困難な、永い時間を要することです。異った質としてはじめからあらわれる次の正統な文学世代は、この永い苦しい時期を知らず、真に新しいものとしてあらわれる筈なのですが、それは現れず、一層小市民的な方向での細分された才能があらわれているということは、考えさせられます。
(おや、きょうはおみこしが出ているわ、ワッショワッショイ、ワッショワッショとやっている声がして来ました。)
 私の精神・感情には、心理学の所謂つよいつよいコンプレックスがあるわけです。それをすべて文学の仕事のためにプラスとして転[#「転」に「ママ」の注記]開してゆくということが、つまり私の全生涯の仕事ね。その集合観念を、自分にとって圧迫的なものとせず、且つ知らず知らずそれに圧迫されず、それをよい、モティーヴとして活かしぬくということです。この前の手紙、私は心の病気めいたものをもっていると申しましたろう? あれもこのコンプレックスの一つね。もっともっと私は達人になって自分のコンプレックスを解放する力をもたなければならないのです。そして、それがこれからの小説の方向です。図書館、本当に可笑しかったこと。全部で三冊よ、私の送ったのは。上野、大橋、日比谷。明日は芥川の「河童」について伺います、どこに書かれているのか。

 十一月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月十三日  第七十八信
 お手紙(十一日づけ)ありがとう。きょうのお手紙は本当にいい手紙です。何だか酸素のたっぷりした空気、オゾンのゆたかな空気が鼻腔から快く流れ入るような感銘です。これはほんとにいい手紙です。
 そして、それにつけ、これと逆な感じを受ける気持や場所やを考えると、妙な気がします。文壇的知識人というものが、歴史的な知識人としての皮膚の新陳代謝をおくらしてゆく過程が――そして其はやはり現実の、或は目の前の身すぎ世すぎからの敗北として、同時に自分自身の旧いもちものへの敗北として――こんなに明瞭に示され感じられるというのは。
 ほんとにこれはいい手紙です。
 新しい文学が潮流としての存在をなくしたことについての考えかた、そのもののつづきとして「形式と内容」がとりあげられているところがあります。過去の業績の正しい評価を示さず、かかれているということは、云われているとおりですね。
 そして、筆者は、この「形式と内容」が、作品の内部関係でより展開されていないままになっているところから、次第に二つが分裂して其々の云いのがれ的文学傾向となってゆくことに対してあれをかいたのでしょう。「人間にかえれ」が、生産文学・農民文学などのバッコに対してかかれたように。「対象としての文学現象が論理的分析はされても歴史的分析、対象の基礎の分析が不十分なこと」これはまことに真髄にふれた言葉です。一人のひとについてだけのことでは決して決してないと思います。
 そして、更に思えるのは、論理的分析は論理の方法を知っていれば出来ることでありますが、歴史的分析はもっとその人の身についた歴史的なもの、歴史的生活力の底からしかほとばしらないということ。従って、論理的分析は頭脳的に作業され得ることになり、実生活との分離のままに行われるところがあり、そのものとして一種の形式論理になってもゆくということ。これらは、あの論文の筆者が、評論だけをかいていると人間がよくならない、小説をかかないと云々と云ったとき、私は、変で、それはそういう人もあるだろうと答えた、その機微にもふれています。私は永い間そのことが念頭からはなれず、何故と云えば、私は自分が評論のようなものをかいて、人間がよくならないと思えないし、そんな妙なことがあり得るかと思っていたので、しかし、こういう二つのもの、論理的分析と歴史的分析の関係が、はっきりつかめなかったのでした。
 私の疑問であった多くのことが、この二つのことで腑《ふ》に落ちました。これは種々の点からあなたが思ってもいらっしゃらないようなキイポイントとなって、私に周囲の事態を理解させます。
 私には、自分でその二つの関係がつかめなかったように所謂論理的でないところがありますから。自分たちの生活の実感から私には歴史への感覚がめざまされているので、その自然発生のつよさは、感情の内部で一つのコンプレックスとなっているほど(前の手紙にかいたように、ね)でしょう? 時代を経てゆく一人一人の姿は何と複雑でしょう。
 そしてね、あなたはお笑いになるでしょう。あの本の筆者に対して、多くの人は魅力がない、肉体がないというのよ。そう評するものはと云えば、論理的推論にさえ堪えない存在であるにかかわらず。何と悲しい喜劇でしょう。
 その人に即して云えば、論理的な合理に立とうとせずにいられないだけ前進性をもっていて、その半面に真の歴史的分析は自身の生活に対してさえし得ないものをもっている。今日、ゴに熱中して徹夜していられるところがある。そういうところへの悲しさが、私の場合では又コンプレックスのかたまりを大きくしてゆくというようなわけね。(時代のありさまとの関係として)
 いろいろと実にうれしい。わかって。自分は何と自然発生でしょう。この手紙一つをしみじみと眺め、私は自分の内がモヤモヤしていて、力が弱いのをびっくりするようです。いろんなとき、どうも其は変だ、という感じをなかなかリアリスティックな根拠で分析したり構成したり出来ない。
 勉強というもののされかたをも考えます。私の場合は、自然発生のものの整理、それの混迷からの救い出し、生活的成長のため、コンプレックスを、歴史性のなかで解いてゆくために不可欠であり、他の人にとっては、論理の展開の筋を見つけ出すために読まれずに、自分の生活へ切り込む刃としてよまれる必要もあるでしょうし。
 きょうのお手紙のなかにあることは、この数回からの私の理解に瞳を入れられたところがあります。私はね、たとえば「論理的なものはとりも直さず正統な歴史的見かたしかあり得ない」という単純な確信に立っていたから、逆に、歴史性に或る程度立って云っていられることの内にある論理的なものと歴史的なものとの分裂の誤りを見つけ出されなくて、ひっかかるのです。歴史性の小さい入口から、誘いこまれて全体を肯定したりしてしまう。よくわかるでしょう? 自分のうちのモヤモヤというのはそこから発生するのです。
 本当にありがとう、ね。段々たのしくなって来ます。勉強してゆく愉快な思い、新鮮なよろこびが湧き立てられます。
 前の手紙でかいていた歴史的背景、歴史的な根拠をもつ心理的コンプレックスの、文学としての見かたもゆたかにされます。たとえば中野のスタイルと自分の制作態度とのちがい。それとの関係で云える伊藤整たちの登場人物(余計者の自覚によりつよく立ったあげくの積極性と平野の云っているところのもの)との関係など。
 友情についての話。あの中で、私は友情一般が云えないこと、仕事のなかで人生への共通態度は最もはっきり現れるのだから、その態度如何で、友達になり得る人なり得ない人との区別が生じること(つまり私的生活の中での友人になり得ない人でも公的場面でつき合ってゆく事務上の接触をもつことはあり得るのですから)、そして、一般の若い女のひとたちは、共通な人生への態度を感じると、そこにすぐ恋愛的なものを描き出してその曖昧なところをたのしむような傾向をもっているから、それに対して、私は特に友情と恋愛の感情が、女として区別されて自覚されなければ不健全だと強調しているわけだったのですが。その点不明瞭ですか? あれをよんだ女のひとの何人かは、異性の間の友情が、ああいうものであってはつまらない、と云ったそうです。その位、女の社会感情は狭いのね。公人としての同僚感と、その同僚のうちから友情が見出されるということは直接同じだとはしていないつもりですが。同じでないからあの文章の中で、同じつとめに働いている同性や異性の間で、同僚として顔をつき合わしていても、ちがった利害の対立におかれる仲間の方が多い、その中で、共通な生活態度が見出されたとき、それは友情となるが、それがすぐ恋愛的なものと混同されて、友情そのものとして成長しにくい場合が多いということを主張しているわけなのですが。きっと整理が不足しているのでしょうね。もしそういう印象を与えるとすれば。同僚感というものを、生活態度の共感という範囲に限ってだけ云われなくても、それは自然でしょう? もしそう云われれば、その同僚感において友人として必要な人、そうでない人という区別も生じないわけですから。同僚感というものは友情より広汎な、内容の錯交したものでしょう。
 しかし、これについて書かれているいろいろと複雑な心持、ヒントは非常によく感じられました。その点で、この文章をとりあげて云っていらっしゃるいろんなことも実生活的によくわかったと思います。すでに現実にいくつかの経験がありますもの、ね。そして、たとえば、前の方でそれについてかいている評論の筆者とのことについて考えてみても、友情そのものがやはりひろいというかいろいろまじっているし。でも又ふっと考えて、たとえば、同僚感という文字があの文章の中に一つもつかわれていなかったということについて考えます。そのことで、このお手紙に云われている点は(感覚というものの根源の微妙さとして)あたっていますね。それも面白いと思います。なかなかギロリはつよい光度をもっていて愉快ね。
 新しい読書は、大変活々とした感情でよまれます。もとよんだときとは又ちがいます。〓期としての生々しさがちがうから。五五一頁ある本です、よんでいるのは。
 文学について、国民文学ということも、私の考えている或は感じていることの健康さが一層明かに感じられるのですが。
 毎日の早さどうでしょう。
 きのうは、『漁村』という全国漁業組合の雑誌に婦人のための文章をかいて、漁村の婦人の生活にふれたものをかいてみるために、いろいろしらべて、年かん類勉強したら、日本は四面海もてかこまれし国なのに、漁村生活の調査が不十分にしかされていないのには何だかびっくりしました。すこしは、それについて知りたいと思いました。生活力がないのではないのですもの、富山のかみさんたちの例を見たって。海と女とのいきさつは、海女に集約されていますが(これまでは)、随分いろいろの問題があると思います。農村の女の辛苦とは又ちがったその日ぐらしの不安が時間的に農村の女より女にひまがあっても成長させないモメントとなっていると思いました。漁村の女について私たちは知らないことにおどろきました。
 島田からのお手紙で、母さんが御出勤ですって。いいわね。午後二時間ほど友ちゃんと交代ですって。なかなかいいわね。お母さんのために大変ようございます。では明後日に。

 十一月二十二日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月十三日  第七十九信
 今、よんでいて大変面白く思ったこと。イタリーの歴史ですが、一四年において、そこは仕合わせな例外としての一つの力を保っていたものが、その力を失って行った過程というもの。この二十五年間の世界史というものは実にウェルズなどのよくかくところではないということを痛感いたしますね。
「ロマン・ロランの会見記」が(山本実彦)出ています、『文芸』に。ロ
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