う話は。でもたまにはこれも一種の解毒ではないかしら、などと思いながら書いている次第です。
『キング』の地図、おそくて御免下さい。もうじきお送り出来ると思います。もう返品になってしまっているので。
堀口大学からオオドゥウの『街から風車場へ』を貰い、よみ終り面白うございました。この作者のものは「孤児マリイ」、「マリイの仕事場」そしてこれがいいし、私としてはこれをなかなか買います。「光ほのか」が、どんな材料からつくられたかが推察されましたが、つまりは「光ほのか」は作為的であって失敗です。
省線の台数が減り、本数もへり、間が四分、八分、八分となるそうです。いよいよここはいいことね。目白の女子大が神奈川県との境の方へ敷地を買って、小学校、女学校、皆そちらへうつすプランを立てましたって。そしたら今年の入学志願者はぐっとへった由です。そうでしょう。ますます子供の通学ということは親の心痛事になって来ているのですものね。私でさえ多賀ちゃんが洋裁習うといってひっくりかえるバスにでものり合わしたらいやだと歩いてゆけるところをよろこびますもの、自分だってふとこわい気がいたします、折々。この頃バスは信用してのれません。どんなに輪がへって、脳天までビリビリしても市電が安心とは。
こんどいつか気分のましなとき、又お手紙を待っています。お話して、と子供がねだる心持は、こうして考えてみるとなかなか面白いと思います。子供がお話、といってゆく相手との心のつながりが。子供はよく申しますね、長い長いお話して、と。ねえ。
一月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十九日 第九信
きょうの風のひどさ! 二階の南の空は正に黄塵万丈です、ガラス戸をあけるとすぐ目の中が妙になります。一天かき曇っています。こんなに干天で吹くのだから。火事がこわいこと。
お体の工合いかがかと思います。しきりにそう思っています、熱が落付きませんか? 風邪をおひきになりましたか? いけないわねえ、そう思っている次第です。何しろこういう旱天は体に実にわるくて、丈夫なものもすこしずつ異常です、太陽の黒点がすっかりこっち(地球へ)向いているからなのですってね。もうそろそろそれが移動している由です。来月の雨がそこで希望をもって待たれるのでしょう。
何だか様子が分らないので大分気になりますが、こちらからは呉々もお大切に、というしかない次第です。
私の病気は大体直って、或は直して、ずっと平常です。二十七日につるさんの本のおよろこびをやりました。ごく内輪な顔ぶれでしたが、なかなか呑気《のんき》で久しぶりに愉快だったし、つるさん夫妻もうれしかったようで、肝入役は一安心です。五時半と云うきめだったのに六時半になっても来ず。「きょうは手ぶらで来ていいの知っているのだから、変だ」「妙だ」「何散髪しているのサ」「そうだろうがね」というようなことで七時半まで待って、仕方なく食事にかかろうというときは全く愁眉をよせました。私の気のもみかたをお察し下さい。つとめがえりでおなかがペコペコの連中なのですもの。
いよいよあきらめて食べるものを運ばせたら、そこへ、ヤアとひょこひょこやって来て! 二十八日(きのう)お仲人をやるのにどうしても金がいるし、髪はきらなくてはならないし、それでおそくなったのですって。電話のない国ではあるまいし。ああよかったよかった、とやっとたべはじめて十時までそこにいて、かえりました。稲ちゃんが、その場へ人にたのんでかりた紋つきと袴とを入れた大きい箱をもって。
この日には、つるさんが通知して、てっちゃんとS夫妻もつらなりました。互に何とか彼とか接触が多いので、いつまでもさけ合わせていても不便なばかりだから一つこの機会ということが云われたので。食卓で自己紹介して(みんなが)一般的に知り合いとなったわけでした。大勢の中でしたから、知らない人もあって(何人も)万事自然でよかったと思います。これは初めてのことでしたから改めて一寸。
そしたらきのう、てっちゃんが急いで来たから何かと思ったら勤め口がありそうなのですって。産業組合か何かの仕事で地味なもの。月給六、七十円の由。どうしようかと、私に相談に来てくれたというわけです。「ほかに相談するひともないもの、宮本しか」とポーと赤くなっている。「結構でしょう? つとめて見たらいいと思う」と申しました。一度もつとめ人の生活をしないで暮せるというような生活は今の世の中では例外です。いきなり食える食えないのことではなくて、やはりてっちゃんが電話一つかけられないとそれで通っている生活なんて、大ぼっちゃんで変です。いきなりいやにサラリーマンになってはやり切れないでしょうから、そんなところが小手しらべに大いによいでしょうと申しました。あなただってきっとそうおっしゃるでしょう? 子供がすこし成長してくれば、フラフラのお父さんなんかはよくありませんし。どうするか、多分きめるのでしょう。赤ちゃんの世話にかまけすぎて一日というのも人生として勿体ないもの。
『日本評論』へ『現代文学論』の書評をかねて文学感想をかきました。すこし面白いと思います。青野季吉が作家の凝視ということをかいている、二月『中公』。「文芸時評」。作品と作家とが離縁している。手芸的作品が多い。小説の本質的危険はここにあると思うと、現実を凝視せよ、と云っているのです。しかし只現象をおった凝視だけで、作品は作者との関係で血肉的なものになるのではない。そこにはテーマとモチーフとのいきさつがあり、作品、作家、作品をうむ現実、作品への作家のつながり工合が問題となるのでしょう。そのことを中心にして、書評しました。
線が細い。わかりにくい。いろいろ云う人もあります。線の細さはきわめて人間と結びついたものがあって、二月『文芸』に、批評家としての生い立ちをかいているなかに、論理の発展、論理が自分より上位にいるようなてれくささへ、特に文芸批評にあるてれくささというようなものをかいている。それにふれて、そういうてれくささで著者が書こうとするものの中を、一気に謂わば息をころして歩きぬけているようなところから来ているというようなことも書いたりして。増刷したそうです。
それからきのうは「三つの女大学」をかきました。益軒のと福沢諭吉のと菊池寛のと。諭吉が語っているところは力にみちて居ります。それが寛に到ると、実に低下している。そこに語られる女の生活の歴史のありよう。『文芸』の仕事に必要な勉強からいろいろこんな副産物が出ます。
これから又『文芸』の仕事の下拵えです。これはやってよかった仕事でしたね。もう二百枚越しているわけです。あともう三四回。それに文学は翻訳文学だった時代、「小説神髄」以前の女の活動について加えなければなりません。S子さんが年表をつくっています。こんな表をつけようと思います。
『哲学年表』の通りの形式二頁見開きにして、左に社会、婦人、次文化、文学、婦人作家と横並べにして。社会、婦人には女学校令が出た、女の剪髪禁止とか、戦争その他。文化文学は一般。ラジウムの発見、トルストイの作品、日本の透谷、そんなものを入れ、右手に寥々と婦人作家が出現して来るというわけです。見くらべて、それで何か学べるというようにしたくて。七十六頁ですね、『哲学年表』が。その位でしょう。これはきっと婦人作家のためのなかなかいい激励でしょう、だって、どんな仕事して来ているか一目瞭然となるわけですものね。その中には、詩集、歌集、感想集なども入れるつもりです。
明日は、父の五回目の命日です。多賀ちゃんをつれて青山へ行って、どこかで林町の連中と落ちあって夕飯をたべることになりましょう。林町はああいうガラン堂だし炭を不足しているし、そのさむさと云ったらないのですって。この頃一寸行く気がしないようで。さむいのよ、食堂椅子にしましたけれど、ストーブ倹約ですから。小劇場にいるように落付かないの。お正月に一寸つづけて行ってこの頃すっかりごぶさた。
可愛いふっくり美人は、頭のおできがひどくなってホータイですって。可哀そうに。どうもすこし反応が鈍い方だと云って居ります。せかせかした娘よりはいいでしょう。
太郎はあいかわらず。壺井さんのところの妹さん母子、越後の高田へゆく筈のところ風雪ひどく汽車不通。そのため大阪の方は電燈が不足で、大阪高島やは、百匁ローソクを何百本とか並べて商売をしている由。東京でもローソクは大事です。(ウチにもあります)
明日青山へ出かける前、栄さんに眼医者へつれて行って貰います、私たち二人。多賀ちゃんのを念のために診て貰ったら先天性母斑というのですって。ホクロとちがう由。それは放っておくと、いくらかずつ肥大するたちのものの由。自信をもってキズにしないでとってぬって(くけるのですって)あげるが、一つでも線にのこるとその細胞から又出来るからレントゲンでやくがいいとガン研究所へ紹介されました。そのお医者が病気、めったな人にひどい光線あてられて、こんどは視力がどうというのではこわいから、明日二人で行って、お礼やら何やら。ケイオーの桑原さんはこういう風に云ってくれませんでした。医者が社交的だなんて、何てバカらしいことでしょう。私はこれからこちらの人のところへゆきます。
本当に御気分どうでしょう。メンソラを鼻の中におぬりになると幾分かわいた息が楽のようですけれど。お大切にね、呉々お大切にね。
二月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二日 第一〇信
一月三十日づけのお手紙一日に着きました。二人宛にめずらしいこと。どうもありがとう。二十四日に下すった電報勿論頂きました。二十四日に手紙かいて、それを出しに行っていた間に電報いただいたのだったと思います。きっと又その後すぐつづけてかいた手紙御覧になっている頃でしょう。私はつづけて一つと、あと二十九日と、かいて居ります。そして、これ。明日は父の命日でというようなこと二十九日にかきました。そちらのは二十七日づけ下すったのが三十一日についています。
さて、せめてバラやカーネーションが美事だったとはいささか心なぐさむことだと思います。よかったこと。でも玉子がお金とはすこしつまりませんね。だって、お金では、ね。私の素志が実現されようもないのですもの。やっぱりないのでしょう。そちらではあがれていますか? こっちは市場で午後四時ごろ売るのですが、前から行っていてうまく買わないとすぐなくなります。随分玉子たべません。たまに多賀ちゃんが買って来ると私がよろこぶので、子供みたい、と笑います。あの子は特別よ、だって玉子たべあきて育ったのですものね。今は野原には一羽も居りませんが。鶏舎がまことに堂々たるもので、そこを改造して朝鮮人工夫の家族がすんでいます、そして冨美子がそこの子とよく遊んでやっています。四日には、多賀ちゃんも行きましたから。
風邪ひいていらっしゃらないのは本当に何よりね。それだけ考えても、遠出しないでいらっしゃる報は十分だと思わなければならないわけです。本当にそれはうれしいと思います。二十七日のお手紙に少量血をお出しになったとありますが、あれは二十二日より前ね。(ああ二十一日とあるわ)風邪と道づれではなかったのね。それならば結構でした。私はかぜがお伴かと思って。本年はすこしわるい人は皆苦手の由です。喀血がふえているそうです。二十三日の七・四はある方ですものね。こうやって体のことを書いて下さると、私は気が休まるの。あなたが知らして下さらなければ、私はまるで見当さえつかないのですもの。その心持は不安です。こまかい様子話して下さると、ほかのいろいろの気持も、それを中心として、合理的に落付くのよ。おわかりになるでしょう? だから書いて下さることは、私の健康のためにも必要なことです、この頃ではそうよ、全く。さもないと、何だか、又体じゅうが小枝の折れたもので、出来ているような気持になったりするから。
シャツは、わかりました。手袋、もっといいのを上げたかったけれ
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