私の手が大変暖い人だということがわかる、と云って来ました。そういう弱い人は、手の暖い人の手につかまると、冷汗がひっこんで大変心持がいいのですって。お百姓の女のひとはそういうあったかい手をしている人がよくあるそうです。
竹内さんは、比喩的にばかり云っているのではないのよ、かの子と私の生理のちがいがかくものをよむとわかるのですって。私は話していても書いていても同じ生理の条件でいられる位健康だが、よわい人は其々の場合、生理のくみ立てをかえることになって非常に疲労がひどい由。
気味もわるいし、感服もいたします。私の手は本当に暖いのですもの。
こんなことも面白いと思います。だって、日本の男のひとの多くは、手の暖い女に僻易するのだそうですから。つめたい手の女の方がいじらしいのですって。
こういう呵々大笑的趣向は別の場合に面白く現れるのよ。あの永瀬清子の詩集は、女が見ると、それが女だからこうも云うし、そういうことが何かの積極的方向だというものに満ちていて、謂わばあの本のねうちは女らしさの上向性にしかないわけです。私はそう思うの、実に女らしい本だと。よかれあしかれ。ところが、詩人たちは、詩人たちの間での彼女は紅一点ではないのですって。女史というのですって。つまり女らしくないのですって。面白いでしょう? 青野季吉をはじめ、どうして男のひとたちはこうもボリュームをもっていないのでしょうね。それだもんだから、「今のような時に文学なんかしていていいのかと思う」とか、「自分のようなものは文学でもしているしかないと思う」とか、いやなことを云うのですね。
文学と云えば、晨ちゃんがこの頃すこし体がましになったそうです。そして、短い原稿をよこしました。文学についてかいたものです。よんで欲しいと。もしよかったら、そういう勉強もしてゆきたいと。まだあと一年ほど休養の由。よくなったと云っても、三十分ぐらい散歩していい位の由。ものなんかかいていいのかしらと思います。
ではここまでにしておいて、かえってから又つづきを。原っぱのお話いたしましょうね。
さて、原っぱへ日向ぼっこに出かけた三羽の鵞鳥の物語。
裏の電車で三十分ほど行くと大泉学園という駅があって、その奥が私の気に入っている高原風な原っぱです。大泉へ、のり巻の包みをかかえておりると、もとはガタバスがあったのが、馬車になっているの。ガソリンの関係で。そらそらとそれに並んでのっかって待っていると馬車はなかなか動き出さず。「もう何分です?」「サア四十七分ありますね。」四十七分て永いのよ。そこでわきを見たらタクシーがあるので、それにかけあって、二十五丁のところ一本道をゆきました。
そこに市民農園というのがあって、風致地区で空気が軽やかでいいのですが、そこの芝生へ坐って、さてやれと、おべん当をたべました。まわりにすこしばかり貯金局のグループが来ていてキャッチボールなんかしていて、閑静なの。やや暫く芝の上にいましたが、もう芝の下の地の冷えが感じられます。それから、心覚えの道を原っぱの方へ歩いたら、好きだった小高い芝山のところが、すっかり分譲地になっていて、小さい家が建っていて、ワイシャツにエプロンというような二人が落葉を燃いたりしているの。それらの小さい家々は日光で煙を立てそうに照らされていてね。あっちへ行ってはつき当り(ゆき止りで)して相当歩いて、かえりにはうまく馬車をつかまえてポカリポカリかえりました。三時前に、牧瀬さんという友達(メチニコフくれた人)が練馬の方に家をもっているそこへ三人ぐるみよって、おなかの大きい菊枝さんは大体坐らしといて、二人の女丈夫がパタパタやって皆で御飯たべ、九時頃眠たアくなってかえって、すぐねてしまいました。天下泰平。
きのうは座談会の速記の校正して、下で『婦公』の小僧さんが待っているのに岡林さんから急に相談したいことがあるとかかって来たので、びっくりしました。あんなことでようございました。
そして、思いがけないうれしいこと伺って。本当に本当にうれしい気持です。私は上機嫌よ。そして安心いたします。つまり一番はっきりした形で、現代の一般のマキシマムと私としてのプラスとマイナスが示されているわけですから。そして、もしかこのことはあなたにとって幾らか愉快ではないでしょうか、こうやって書いているもののうちにある響きが、やはり変質されないで、ほかのかきものの中にもつたわっているということが。そういう意味での感情に統一のあるということが。それが、どんな価値と性格とであるかということも。
近頃他のものも御覧になったから、それらのもっているものとの対比も面白いでしょうね、きっと。非常にちがうところがあるのよ、それだからうれしく又苦しいのよ。わかるでしょう? 私たちはまともな資質だから。或る面白さというようなところでまとまれない。それは(まともさは)やさしく成長出来る筈のもので、しかし本来のそういう自然さがかけたときは一番まともにそれ(障害)につき当ってゆく種類のものですから。
ああ、でも本当にうれしいこと。
文学史の方、小林秀雄のところ、思い出される論点のつかみかたがあるでしょう? ああいうものは引用して活かすべきですが、それは出来にくかったから。引用より肉体的なわけだけれども。でも、お笑いになるでしょうね。余り私は理論的にかけないから。体あたりでばっかりやっているから。でも、生活的ではあるわ。そのことだけは確信があります。私の文芸批評がケタはずれなのは、他の人たちのようにそこに出ている作品の世界だけなでまわしていないで、ズカズカその人の作家としての人生へまで近づくからでしょう。これで、人生的深み、ゆたかさが加って来れば、やっぱり其でいい独自性がつくでしょうと思います。勉強する張り合がついて。何と気が楽になったでしょう。ああ、ああ、ああ。と頭の中がのびのびしてゆくようです。点がからくてどんな駄目が出ても、やっぱりよろこんで顎をのせてフムフムときいていそうよ。ききめがなくていけないとお思いになるでしょうか。大丈夫よ、私はキオクリョクはある方ですから。
今年は一つよく気をつけ、早ねを益※[#二の字点、1−2−22]励行して風邪引かずの冬を越したいと思って居ります。肺炎になったりするとこまるのよ、そのために必要な薬がありませんから。それからね、お恭ちゃんについて一つこまったことがわかったの、それはきょう申上げます。来年の春でもすぎたら、かえした方がよさそうなことがあるのです。健康上のことで。頭のことです。ですから、猶たっぷり眠らさなくては、ね。
私の例の表、おくれてしまいましたが、十月は甲が割合多いわ。甲七、乙一八、丙四、丁一。炭のないことから一層甲がますでしょう。それからね、大工を入れて、台所の水口の戸の羽目がくさってプカプカなのを直し、家の中の台所から茶の間へ入る仕切りのところやお恭ちゃんの部屋へ入る三畳の障子を内からの錠をつけます。いいでしょう? そうすれば相当安心です。それに石炭入れもつくるのよ、何しろ石炭というものは、石の炭というよりは大した大切なものになりましたから。
珍しく重治さんが卯女ちゃんつれて来ました。ではこれで一区切り。卯女子初めて来たの。では、ね。
十一月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月六日 第七十五信
けさ、四日づけのお手紙。どうもどうもありがとう。
表紙も心持よく思って下すって、うれしゅうございます。小磯という人にとにかくお礼の手紙出したら(本になったとき)奥さんからあいさつで、お粗末なもので、と何かたべものの礼へ答えるような文面だったのは面白うございました。画家の細君なのにちっとも絵画として良人の仕事感じていず、何か注文として感じているところが。家庭で仕事について喋る茶間の空気がそこに出ていて。
世間の母がというところね。全くそうだわ、それはそうだわねえと心に語りました。栄さんがさっき来たのでやっぱりその話をして、本当にそうだろうと云い合いました。私自身にそれがいくらか分っていて、ですから本当に今度はうれしかったと思います。安心した、という一言にどれだけのものがこもっていることでしょう。私にはその全量が感じられます。そして、益※[#二の字点、1−2−22]ゆたかに大きくなって、安心をよろこびにまでしたいと願う次第です。
お礼の手紙や一寸したおくりものへの答えは、ちゃんとあの当時いたしました。それは、お話したとおり。
キュリーとナイチンゲールについて云われていることは全く当って居ります。あのとき、そのことについていろいろ考え、うまく書く方法を考えつかず、それに敗けて居ります。今になって考えれば、必しも書く方法が絶無ではなかったと思われます。その点はやっぱり弱いつかみかたでありました。フロレンスがああいう仕事についた時代のイギリスが、都市衛生について自身の安全のために関心を示さざるを得なかった、そのバックに立って彼女の活動も方向を見出したということは、どの伝記者も云っていないことで、フリードリッヒの英国労働者の生活状態についてかいたものからの勉強が助けとなっているのですけれども。
働くひとの数のこと、この昭和四年一〇〇に対し女一一五・七というのは、繁治さんのくれた調査統計によったものでした。しらべておきましょう。どうもありがとう。誤植も玄人でもあるのね。岩波にさえあるのですからね、というのですものね。
「昭和の十四年間」について、どうかお心づきのこときかして下さい。あれは又五年ぐらいまとめ、ずーっとああいう風にかいて行って(つまり一貫した歴史性に立って文学の移りゆきを見て。文学というものの育つべき方向と、そこからの乖離の姿とをはっきり見て)やがて昭和文学史としてまとめるのを楽しみにして居りますから。ああいう密度でずーっとかかれた文学史があったら、それはやはりそのものによって文学の進んだ程度が示されるものだろうと思いますから。あの仕事なんか、やっぱり永い間のかさなりで出来ているわけです。抑※[#二の字点、1−2−22]《そもそも》のはじまりは『昼夜随筆』の中にある、今日の文学としての三二―三七頃までの概観と、次はそれをふえんしてかいた百枚の未発表の昭和十二年までの文学史と、その上にあれがあるのですから。十二年の暮かいたのはゲラで十三年一月からストップとなったのでしたが下手よ、まとめかたに一貫したところがなくて。一貫しているが自分のものとなり切っていなくて。
小説の集ったものからどんな印象を得て頂くことが出来るでしょうね。きっと、そこには、こちらにはあらわれていないいろいろの時代的苦悩がきっとまざまざと出ていて又別の感想をおもちになるでしょうと思います。こっちの方は、胸につまって来る息づかいを堪えて押し出しているし、そちらは(小説は)息のせつない姿そのままのようなものですから。
河出の二千五百よ。こちらは早いこと。短篇集として二つつづけて見ると、やはりなかなか面白いでしょうと思います。重吉は初めてあなたにおめにかかるわけですけれど、あなたはどんな歓迎ぶりをして下さるでしょうね。ねがわくは肩を一つ叩いて貰える存在であることを。早く小説の方が見とうございます。
母の心持になって、のこと。私は勿論それがそのように云われたことは知っているのよ。ただ、あのときユリはデリケートすぎて話が出来にくいと仰云ったような状態に私がなった、一つの私としてのあのときの心持の状態を説明していたわけです。そして、あのとき、そんなに変に敏感になっていたことは、前後のいきさつからだけの、あのときだけのことでもあるのです。ですから評論をかき、「三月の第四」のようなものをかき、そしてあれがある、その三つのもののいきさつの間に語られているもの、私が私という作家を評論するのであったら、この渦《うず》をこそ分析しずにはおかないでしょう。満腔の同情と鼓舞とを与えてやると思います。そこには分裂がある、などという皮相の結論ではありません。
こ
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