床の間に腰かけて陰気な気分になっている女主人公があらわれていて。しかし短篇集に入れるのは気にかなわないのです。『朝の風』の装幀は本やでやります。別な本のをやっているのを見ましたが、割合あたたかみのある配色で、厚手なところもあり、マアいいでしょう。でも、どんなのになるか。竹村の方は私やはりかき集めは出したくないのです。だからもうすこし待って貰うことにしたいと考えます。今日の世の中で、重複したりかき集めたりした本を私が出したのでは余りですものね。それでいいでしょう? 来年早々ぐらいなら。本屋自分の方の勝手でバタバタしていて、『明日への精神』が出たことも知らないのですって。(竹村のひとは、主人とは別のひとですが)何だかそぐわないところがあって。文学書ばっかり出していて、きっと或る意味では妙な文壇ずれがしているのね。出したくないような気をおこさせるひとが来るのよ、いやね。丹羽、高見、石川なんて作家が、曰くをつけられているから、こっちを出したいんだなんて。そういう作家の見かたの商人根性も本当にきらいです。丹羽の作品集を古谷綱武の年表解説つきなんかで、物笑いのように出しておきながら。林芙美子の出版者とのいきさつもひどいものよ。実に本質は酷評している、でも女の子が買う、だから出す、「出版者が赤い舌を出すものですね。」そういうのはきいていてやはりいやよ、ね。
さて、けさのお手紙。『書斎』のことは私三省堂へ一つねじこみたい位です。あんなに行ったりいろいろ手をかけて、いろいろ云って、そして、注文したら来たなんて。それはよかったけれど、私たちの骨折りをまるで無意味にして。実にあすこの事務は雑駁ね。店員のくんれんがなっていないのね。でも御覧になれてようございました。そのなかでのおかみさんへ注文のこと。そうねえ。「永遠の新婚の歓喜にあるわけでほむべきかな」何だかニヤリといたします。極めて複雑なニヤリよ。ごく真面目に肯定した上での、ニヤリですけれど。御亭主の身になって、注文をつけること日々に新たなりであることから永遠の新婚が祝福されるのでは、とニヤリとしたわけです。そういうところに私たちの生活の一種独特のヒューモアもあると思って。私たちの散歩、夜の散歩で、あの本郷の三角路の角の店へ行ったことがあったでしょう? あのときのうれしさ、おかしさ、いろいろ思い出して、何かそこに共通な面白さ、愉快さを感じます。
わかりやすく書くこと、それはテーマの本質上の深さを低くめたりすることではないということ。そのことはよく考えてかいてゆくつもりです。もし私がそういう傾向に陥るとすれば私の文筆の価値はないのですから。随分いろいろのものをかいて、かけて、しかし雑文は一つもないという確信をもてることは新しい文学の作家にとって絶対の必要ですから。
玄人芸は根気仕事というの、里見の芸談のプラスとマイナス、これにも仰云るとおりよく出て居りますね。『文学』なんぞという作品は鼻もちならないものです。ヘミングウェイ、そう? 私ももう二階が暑さで苦しいということもなくなりましたから、この二月ばかりは昼間が実に能率的につかわれます。今年の夏は多賀ちゃんが下の部屋つかっていて、私ずっと二階で、そのあつさ。大分参ったのは其もありました。午前四時間から五時間一息にやって、午後すこし仕事して。相当よ。でもやっぱり所謂速筆ではありませんね。割合展開の単純な感想だと十五枚―二十枚は一日の仕事ですけれど、小説なんかやっぱり七八枚。
何となく小説にかきたくて、まだどうかくか分らなくている一つの気持があるの。ここに一人の女があります。その女の少女時代の生活は、母と子とのいきさつで、子供にとって、母が子供を負担としているということがどんなに苦しく腹立たしいことかということを痛感するような生い立ちでした。子供を生むということについて、無責任にはすまい。そう思って成長して来ました。その女があるときに結婚するの。その対手のひとをその女はしんからすきで、そのひかれる心は健全で、その女が対手に対する自分の感情を自覚したときには同時に母となるよろこびへの渇望もめざまされていました。しかし生活の条件へのその女の判断はそのままの形でその欲望を実現させませんでした。その判断はあやまってはいなかったのです。その夫婦は、そのような判断への確信もともにもって充足して生活して来て何年かすぎました。あるとき、そのような生活の流れへ一つの春のさきぶれの嵐のような変化の予告、予想、或は想像がもたらされました。そのことによって、女の経験した内面的な展開は極めてリアルで激烈なものでした。女の生涯には幾度女としての誕生があるでしょうか。女の性格のうちには更に新しい何ものかが開花されました。感覚の豊饒さが加えられました。新しい命へつらぬく良人への愛、新たな生命へ溢れる自分たちの命の美しさ。その昏倒的な美さのために、女は幾つもの夜々を眠りません。その夜々のうちに女は半ば可愛らしいものを自分のうちに感じるようになっているほどです。その春の嵐のさきぶれは、そのように重く生命の樹々を揺りながら、やがて雲が段々動いて、遠のいて、小さくなって、すぎ去りました。もとのような見なれた空となりました。しかし、女はもうもとの女ではないのよ。元にはもどれないのよ。そこには一つの誕生が経過されたのですから。
しかし、女はそのような自身の開花を人生において無駄花とは感じていないのです。どういう事情であろうとも花ならば一杯に咲きひらかなければなりません。そこにそのものの自然なよろこびがあるのですから。けれども、花の嘆きも亦何と面白いでしょう。花粉に出合わなければならない花の嘆きの面白さ。その女は、天然が女である自分のなかにもう一つのみのりの可能性として与えているものを力一杯にみのらせようと一層熱心に思いはじめます。それは人間の意力でもたらされるものですから、少くともある程度までは。そして、女は知っているの、つまりは、それとこれとは一つ生命の展開であると。一つになっている二つの命の火であると。
でも、その女のそういう意欲の半面には何となしこれまでにないテンダアなところが生じていて、こんな心をも経験します。その夫婦が、あるとき、良人の親への思いやりについて話しました。妻であるその女は良人の言葉をよく理解しているのです。でも、そのときの感情は前後のゆきがかりから、わかっているだけ其を改めて云われる悲しさのようなものがあって涙ぐんだ状態でいると、良人は、ごく自然な調子で「自分が子供をもって居る気持になって考えてみればよく分ることだから」云々、と申します。その妻は、その言葉が自分の心臓の上をその言葉のおもみと永さの限りで切りめをつけてゆくような鋭い痛みを感じました。自分たちの間に新しい命の形を表現されないという一つのことのために、その女はたくさんの俗見とたたかって来ています。俗見は最も正当な人間性の評価にあたってさえ、その女が腕のなかにかかえる小さいものをもっていないということを云い立てて、その女の合理性を非難する場合があるのです。
女は自然に洩された良人の言葉を忘れることが出来ません。そういうことについての感じかたの相異は、命を与えるものと、与えられなければならないものとの感じかたの相異なのでしょうか。命を与えるものはモーゼのようなもので、命を与えられなければならないものは、その季節というものに限りのあることを知っているからでしょうか。しかもその女はそのような季節のかぎりをかけて、たった一つの命にしか命のあたえてとしての価値を見ていない、そのことからの感じなのでしょうか。
――○――
これは、なかなかむずかしいとお思いになるでしょう? もし小説にかけなければ、もとよりそれでいいのです、ここにかいたから。云うに云えないその女の傷みの心を表現することは大変むずかしいと思います、何故ならその心持は其だけの単純なものではなくて、それだけの深いよろこびを裏にもっているものでありますから。ああ、そしてね、その女はそのとき良人に、「今ここで云えないいろんな気持があるのよ」と云っているのです。そう云っただけで良人のひとがすぐ諒解出来ないということは万々わかりながら。でも、やっぱりそう云っているの。
小説や詩に何といろいろあるでしょう。私たちはたくさんの素晴らしい詩を知って居りますが、こういうテーマは小説にしか扱えないところ、やはり大変面白うございます。髄の味いのようなものね、それは小説です。私は詩がわかるだけでなくて小説家であることは何とよかったでしょう。では又ね。
十一月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月三日 第七十四信
只今、うちは急に御飯をたいたりして小さく騒いで居ります、というのはね、午後から来たいと予約していた人が急につとめの工合で来なくなったハガキが来たので、この間から野[#「野」に「ママ」の注記]っぱへ行きたくてうずうずしていたもんだから、さアじゃ出かけようと今のりまきをつくる御飯たいているわけです。お恭、たかちゃん、私と三人で、うらの武蔵野電車にのって大泉というところまで行って来ようというのです。そこは只原っぱなの。しかしその原っぱは高原風で実に心持よいの。
きょうは、お休みでなければ、私はどうしてもそちらへゆきたい日です。おとといからそうなのよ。けさはお休みの朝でしょう。全く「朝の風」の心持です。「朝の風」と云えば、河出の方はもう出版届けよこしました。金星堂どうかして居りますね。自分の商売の方から云ったって、早いのがいいのに。
島田へ手紙よくかきました。経営単位として何故一台一口とするかということを、よくわかるように、古くたって新しくったって一台は一台分の稼ぎをすることよくかきました。
そして、お母さんには、まことにいい柄の羽織を見つけたので裏も気張ったのをつけ、紐も見つくろってお送りいたしました。友ちゃんがきっと縫うでしょう。本当にしゃれた奇麗なの。傑作の部です。お母さんはああいう御気象ですから、割合いきめなのがお似合いになるのよ、面白いでしょう? 決してもっさりしたのがよくはないのよ。ですから、いつも私の見立てはヒットです。
その点あなたもそうなの御存知? 人の気質のなかにあるリズムや線は面白いことね。画家は私をなかなか描けないと申します。全体の印象は非常に鮮明なのに、さて描写してゆくとなると、太いようで繊細で、大きいようで小さくて、それらが交錯してつくり出している感銘はいかにも捉えにくいのだって。
それで思えらく、その人は(松山さん)人の印象の構成を静的にとらえようとしているのね。こんど話してあげようと、今かきながら思います。私はきっと非常に動的なのでしょう。顔立ちというような固定したもので、顔の全印象は出来ていないのね。生きているものをつかまなくては駄目だわ。それを松山さんは静的な線で辿るから何だか似ないもの、いのちのないものをかくのですね。これは大きい発見です。私のためにではなく、松山さんのために。松山さんにもう一つ、高山の本の装幀をたのみます。それは大根畑をかくのよ。いいでしょう? そのことまだお話ししませんでしたろう?『明日への精神』はああいうので私らしい溢れるたっぷりさがないから、高山のは大根畑の土の黒々としたゆたかさ、葉っぱの青々とした大きいひろがり、ひょいと一本ぬけ上って生えているのがあったりして、冬の大根畑は日本の豊かさのようです。それをかきたいの。只、色の工合でどんなになるか、スケッチ風のところに濃い色をさっぱりとつけるという風なのもいいということになりました。只私は赤い色が好きなのに、大根に赤いところないから唐辛子でもくっつけたいけれど、大根畑に唐辛子はないのでね、閉口中です。大根一本、唐辛子を添えて、とまるでお香のものを漬ける前のようなのもこまりますし。
ところで、病気の人というのは何と敏感なのでしょう。竹内てるよという詩をかく女のひとは永年病気なのですが、私の本をよんで、
前へ
次へ
全59ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング