立ち姿の重点を下に落ち付けて居り、隅々まで構成の注意が感じられます。目立った作品の一つでした。二十三日。
(3)竹久夢二のロマンティシスムもこのあたりだと、画家としてのセンスに大分近づいているでしょう? もう一歩のところね。きのうとおととい奉祝展というのを見ましたが、たとえば版画なんかでも柚木久太が苦力《クーリー》の生活的なのを出しているほか、感情が遊戯的で、日本版画の感情的伝統について印象づけられました。二十三日。
(4)夢二の人生感想はここへおちいったために、彼の芸術家的気質は彼をひっぱり上げて破滅させず、ひっぱりおろして漂泊させたのだと感じました。私の十六歳ごろ夢二の装飾的画は大変美しく思われ、もっと図案化された表紙の絵など切って壁へピンでとめてトルストイよんでいました。そのコントラスト、その年頃らしくほほえまれます。
十月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十三日 第七十二信
十二日づけのお手紙がこちらについた一番おしまいの分で、あとはいきなり十九日の、きのうつきました。間のは、きっとあしたあたりつくのでしょう。
もしかしたら又いつかのように御自分宛ではないの? 本当にそれは何と自然でしょう!
「南京虫」という芝居を見ました。このお手紙で、あの陽気な場面が髣髴《ほうふつ》いたします。クロプイという題。クロプイは或る歴史の時期がすぎるともう動物学の標本にしか存在しなくなるの。クロプイ的存在のすべてがそうなるのです。段々の博物学教室に若い世代の男女がぎっしりつまっていてね。びっくりして、クロプイを見ているの。人類学的標本もあらわれて来て、そういうすべてのものが、まわりにウザウザしているなかでそういう未来の図絵を示される見物は何と大笑いに笑いながら、その非存在的本質を感じることか。
部屋をかりに行ってね、先ず私はききました。南京虫いないでしょうか。するとおかみさんは、マア、とんでもない! と両手をひろげてね。どうして、一匹だっていやしませんよ。すると、そのとき、もう私はチクリと椅子のかげからやられて、思わず立ち上って、変な顔して笑いながら、「そうかしら、多分あなたのお部屋にはいないんでしょうね」と、退散いたします。その位は流暢なものよ。おひまに、この会話を翻訳ねがいましょうか?
でも消毒されるのは何よりです、大チブス(リードが死んだときの)はしらみと南京虫が伝播したのだそうですから。
この紙のひろさは、たとえ1/30[#「30」は縦中横]なりとも、というお手紙だと思い、くりかえしよみ、そして又いまもよみます。
作品と作家とのいきさつについての物語、それから詩のヒローに単純な呼び名がつけられる面白さ、可愛さ。全くすこやかさは目に浮ぶようと云われているとおりね。健やかな情感とすこやかな理性というものは、実に実に人間の生存の核心の発育力だと思います。そして、昔の人のようにその二つのものが二つの分れたものとしてはなくて、すこやかな情感はすこやかな理性に生活が貫かれて居り、そのようなすこやかさを理性が確保するのは、それにいつもすがすがしく新しい血をおくる感情の、人間らしいすこやかさがあるからであるという関係。そういう人間らしい弾力と暖かさと面白さのあふれた小説がかきたいことだと思います。
一昔前脱皮の内面が描かれるべきであったということは非常に意味のふかい言葉だと思います。「広場」ではじめていくらかそれにふれているわけです。しかし、あの時分に描かれるようには描かれず、従って、そういう作家の発展が、日本文学の中にまるで新しい一つの典型となっているという興味ある歴史の面も浮彫られず、読者の感覚からそのような感受性も喪《うしな》われていたりして。惜しいと思います。今日にあって、勿論、一生懸命さを否定しはしないのですし、一生懸命倒れということも、例えば内面的過程を描いてゆくそのことがとりも直さず最高の歴史的な文学のテーマにこたえていることだと思って、それを自分もひともはっきりつかまず、そういう一体の若さがあって、作品でそういう世界をとらえつつどこまでもアクティヴに生きてゆくという統一が、私などの場合では、自身の未熟さからも出来なかった。そして、いきなり「信吉」のようなものをかこうとして、そして失敗している。そこがなかなか面白いのね。文学の成長の過程は何と各自各様でしょう。一つの大きい動きのなかで、自身の成長の段階をとばさずに踏んで大局のためにプラスとなってゆく、そのように作家を育ててゆくためには、大した経験の蓄積が入用なのね。大人であることが必要なのですね。
そんなことにつけてよく思い出すのは、万惣の二階のサンドウィッチの話です。あんなに自然にあの味を味った心理というものも面白いことね。私はそう思います。同じ話でも話し手によるというはっきりした一つの実例ね。今私が同じような物語を誰からされたとしたって、そんな物語の非文学性虚構を感じずにはいられず、大方耳もかさないでしょうから。そして、それは自然で正当なのだから。そのように非文学性を見わけられるように何故なっているかと云えば、やはり単純素朴な正直だというのは何と面白いことでしょう。ねえ。いろいろな場合、一生懸命倒れと私がいうときは大体、誠意は十分なのだけれども、それを表現してゆくにふさわしい方法やその方法の一般性に負けて自身のものを見きわめることの出来ないような場合、主として自分の一生懸命倒れを感じるのです。ほら、あなたもよく注意して下さるでしょう、或る種の作品が未完成でしかあり得ないというような先入観を持つことは間違っている、と。あれね、あれも一種の一生懸命倒れよ。この頃そう気付きます。私は小説をかくときは一番ぴったりしたテーマでしかかけないようで、そのために妙に自分で自分の足の先にせきをつくりつつ進行するような意識の塞《せき》があって、これはフロイド的現象なのね。これは非常に有害です。小説における私の神経衰弱をひき出します。一生懸命倒れの雄だろうと思います。だから、これからずっと相当小説ばかりかく決心をしたのは、健全にしかしその意識の栓をぬいて溢れさすためです。フロイドは意識のなかのそういうものを性的なモメントでばかり見ましたが、それは彼の彼らしさです。人間生活の現実は遙に多様で、フロイドのとらえ得なかったモメントを、或る作家は歴史的に感じるのです。人間は生物的生活ばかりでないからこそ、云わばフロイドが解いてやらなければならない女の心理的重圧もあるのだから。
そういう意味で、私は来年へかけて出来るだけ努力して、小説もある精神の栓を内部的な沸盪でふきとばしたものにするところをたのしんでいる次第です。
こんな作家としての心の生理、面白いでしょう? 同時に何か教えるところもあると思います。かりに私が、作家というものに対してその人々の正当な成育を促そうとしてゆく場合の扱いかたのような意味で。そういう場合を考えると、いかにすぐれた文芸批評家、評論家が存在しなくてはならないかということを痛感いたしますね。個々の状況に文学的に通暁した人がいります。あらゆる部面でエキスパートが要求されるように。このエキスパートの働かせかたも面白いことですね。一般的事務家の普遍的な文化水準には達していて、おいこしているが故に文学上の優抜なエキスパートであるという、そういう文学のエキスパートも決して予想されなくはないのだと思うと、これも亦面白うございますね。気力で追いこしているばかりでなくね、もっともっと複雑にね。歴史の或る時代の姿としては十分にそうであった作家より更に幾倍かの複雑性をおりたたんで。
こんな気持の追求から、島田への自分の心持があなたの言葉で何となしはっとして会得される機会を生じたのは又おもしろいでしょう? ずっとずっと私は文学上、生活上、自分の努力というものを自身どう見ているか、どんな心をそこから養われて来ているかということを考えつめていたら、努力の努力だおれもわかるところがあったりして、いろいろ思っていて、あなたの仰云ったことが極めて純粋な心の要素として語られていることが、自分の心のこととしてぴったりわかったのでした。それもあったもんで、ユリが、自分の気持を合理化ばっかりしているようでは云々と、一昨日おっしゃったとき私は切なかったのよ。でもあとで又考えてね、切なく感じたなんて、やっぱりまだどこかで自分を劬っている根性があるんだナと思って。
あのときについて私は一つの大した疑問に逢着いたしましたが、大人の女のひとってものは、眼に涙が一杯でアブないときでもべそはかかないものなのかしら。可笑しくて、可笑しくて。不思議ねえ。だって、どんな小説だって、彼女は段々赤いふくれた顔になって来て、べそをかいて、涙を目にためたなんてかいてないわ。白いような顔を怨ずるが如くうち傾けて将にこぼれんとする涙をいっぱいに湛えた目で彼を見る、のよ。大変優艷なのよ、変ねえ。全く。私もどうかして、一度はそういう凄い涙の湛えぶりをしておめにかけたいものだと思いました。しかし或はそういうことにもやっぱり歴史性があるのかしら。あるのかもしれないわねえ。怨ずるが如く、という感情の土台がないと、べそになるのかしら。子供はどんな泣きを泣くときにもべそをかきます、何だかおもしろい。ちょいちょい泣くて[#「て」に傍点]を知っている女のひとは、いろんな涙の出しっぷりを修得しているのかもしれないわねえ。オンオン泣いてはて[#「て」に傍点]としての技法の効果をこしますものねえ。もしかしたらあした又十六日の分への御返事かくことになるかもしれません。そうだといいけれど。ではひとまず。ああ、それから、種々な手紙が、どんな姿勢でよまれるか想像したら、大変あったかいような、ホコホコするような気がいたしました。
十月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十五日 第七十三信
きょうのむしあつさ、いかがでしょう、そしてこんな風! 今朝二十四日朝づけのお手紙ありがとう。
十五日づけのは又現れません。昨日で高山の「現代の心」すっかり原稿わたしました。きょう序文をかいて送ります。河出の『朝の風』、これ、あと『文芸』のをすっかりまとめると一応一段落となり吻っとして先へすすめます。「現代の心」やっぱりいい題ね、なかなかいい題ね。この装幀は松山さんにたのんで、ふっくりしたゆたかないいのを考えて貰います、柔い紙の表紙で。たっぷりした果物なんか面白いのだけれど。ただの図案より、そういう生活の中からのものを描いて欲しいの。
ああそう云えば『朝の風』の内容は、「朝の風」「牡丹」「顔」「小村淡彩」「白い蚊帳」「一本の花」「海流」「小祝の一家」です。相当つまって居りましょう。「海流」七十三枚か、「一本の花」八十何枚か、あと三十枚、四十枚というのですから、そんなに貧弱でもないし、かきあつめというのでもありません。このなかであなたの御存じないのはどれかしら。「牡丹」「顔」「一本の花」はいかが? 初め入れようとして入れないのは「心の河」、これはお話したとおり。それから「高台寺」、これは作者の生活的な稚さが、いやです。「街」もそういうところがあるが、「街」は人間のおかれている歴史への無知識にすぎず、「高台寺」は、ある生活にある女の鈍感さがあらわれていていやです。或る茶屋のおかみに今よめばうまく女主人公があやなされているのにそれを心付いていない鈍さがいやでやめました。「伊太利亜の古陶」もわるい。やはりその小市民風なつべこべを自覚していないで、それにのっている。面白いでしょう? そういう作品を生む生活がつづいて、やがて「一本の花」をかいて、生活への激しい疑問にぶつかっているのです。そしてその冬外国へ行っている。全集の中へ入ると、その過程として面白く、しかもね、そのいやな「高台寺」に、やはり「一本の花」及びそれ以後の動きの芽はあるのです。舞妓とさわいでいる、そんな気分についてゆけなくて、とりちらした室の
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