くたびれるわけですもの。
これも私の十七日のおくりものの一つです。
十七日には、寿江子と佐藤さん夫妻を赤坊ごとよんで何か皆でたべでもしましょう。私がおかみさん役してやって愉快に遊びましょう。
十八日が臨時大祭ですから、市中はごったかえします。そちら、お休みがつづくのではないかしら、よそは休みます。
高山の本の表紙は松山さんにたのみます。河出のは先の方でたのむのですって、誰かに。中公のは誰にしましょうね。これは絵が扉[#「扉」に「ママ」の注記](表紙の裏)にだけあって、表は何か模様のない落付いた色の紙なんかいいのだけれども。表はじみで、表紙の裏の一寸派手なのいいでしょう?
三月か四月に『日本評論』に小説かく約束しました。これから来年にかけて小説たっぷりかいて見ましょうね。
もう四時よ、あきれたものね。けさ起きて、ゆっくり、日曜らしいパンたべて、二階へあがって五枚の感想をかいて、手紙かきはじめたのは十時でした。おひるに一寸おりたぎりよ。ではこんどこそ、これでおしまい。のぼせいかがでしょう? お大切に。
十月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十六日 第七十一信
ひどい雨が又降り出しましたね。このザアザアの音。雨の音ききながらぐっすり眠るの、何といい心持でしょう。私たちほんとにほっとして居ります。あやしげな者がこのあたりから退治されたから。
夜のしずかな人気のない往来の袋小路を照す灯の下へ、ジリリ、ジリリと黒い姿が出て来て、白い姿を垣根へおしつけたあの殺気は、強烈な印象です。怪我というほどのことがなくてようございました。往来を見おろせる窓は有益ね。高い窓からの声は、下の往来でもみ合う砂利の音や罵声をこして、四隣にひびきます。しかし近来、人気のわるくなったこと沁々と感じます。稲ちゃんのところへやはり二階づたいに入った由。誰もいなかった二階へとなりの若いものが入ってものをとった由。どっち道犬は飼いましょうか。これから冬になるし、くれにはなるし。〔中略〕
きょう、島田の生活がどうであるにかかわらず、こっちの生活がどうであるにかかわらず、それは、と私たちのするべきこととして仰云ったことが、これまで分っていたと思っていた理解の棚の底をふっとぬいて、もう少し深いところまで自分の気持が到達した感じをひき出しました。この感じ、おわかりになるかしら。こっちの生活がどうであるにかかわらず、あっちの生活がどうであるにかかわらず。私はそんな気持で自分の親たちに対していたことがあったかしら。私はよくするということを意識していたと思われます。あなたのお気持を表してゆく、そういうところがあったようです。きょうは、でも、あなたのおなかにある深さ、自然さがそれなり私の気持のなかでするするとのびたような感銘です。〔中略〕私はこうやって、徐々に人間の優しさというものが分って来るのね。騒々しいような仰々しいような心づかいとはちがった優しさがわかって来るのね。
十月十八日。
きょうは何といい心持でしょう。きのうはなかなか成功的でね、只天気が不確かだったので、卯女と康子は電車の停留場のところまで折角来たのにそこからもどってしまったのが残念でした。結局は降らなかったのだけれど。
例によってわが家のけさは、花満目です。下のタンスの上には、大阪から種をとりよせて咲かせたと花やが自慢したという大輪のダリヤが、大壺にささって居ります。こんな花びっくりなさるでしょう、まるで生きている飾提灯ほどの大きさの白、赤、黄よ。(これは佐藤さん)それから栄さんの可愛い赤い粒々輝く梅もどきと白菊。私のこれをかいている机の端には、未曾有の贅沢としてカーネーションの束がふっさりとかたまって居ります。もしここを写真にとったらどんな豪奢なおくらしかというような姿です。
きのうはくつろいで愉快でした。〔中略〕みんな珍しいもんだから気持がよいとみえ、夕飯までいて、みそ汁と大根おろしとで御飯たべ、夜も益※[#二の字点、1−2−22]話しにみが入って、おそくまでいました。
賑やかさ、きこえましたろう? もうきっとみんなひき上げて、ユリも二階へひきあげて手紙でもかいているかな、あなたがそんな風にお思いになりそうな頃(夜八時頃)は、いろんな真面目なことや可笑しいことで大笑いの最中でした。そして豆腐の味噌汁が美味いとおかわりしていた頃よ。
こういうやりかたはようございました。きょうが休みなので、みんなうれしくのんびりして、おみこしをあげなかったわけです。午後のお茶というのはいいことね。そして、もしのこるとすればああいうあっさりした夕飯で。うちのものがひどくくたびれなくていいと思いました。
きょうはこれからどっさり仕事いたします。カーネーションがかすかに匂って居ります。あの菊の花咲いたでしょうか。いい題や、そのほかいいものどっさり頂いたけれど、その上なおよくばって手紙待っていたのに、きょうもまだつきません。上下二巻の物語、やっぱり同じめぐり合わせでツンドク休日におかれているのでしょうか。
タカ二さんから久しぶりで手紙が来ました。それは十六日についたのですが、なのに一流の文体のざれ文というのが余り笑えるから御目にかけます。少し古風ゆえそのつもりで耳立てておききあるべし。「いまだのどかに暮らす頃なりしか。顕治をその二階借りする部屋に訪れ、女を口説くにはフットボールの心がけなからざるべからず。タックルせざるべからずなど例の高声にひとりうち語る。顕治本など読みてありぬ。七日ほど経て鶴次郎吾が草の庵を訪れぬ。格子引き開くるより『非常《ひぞう》のこといで来たり。非常のことなり』と云ふ。『何事ぞ』と云へば『百合子|婚《まぐあひ》せり。非常のことなり』といふ。『男《をのこ》は誰ぞ』『誰そか思ふ』『知らず』『顕治なり、宮本なり、非常のことなり』やゝあって、『いづれより云ひ初めけむ』と云へば、鶴次郎から/\と打ち笑ひ『相寄る魂なるべし』」
最後、なかなか秀抜でしょう? ハアハア笑いました。
うれしくてハアハア笑うというのいい心持よ。そして、私を十六日にそんなに笑わすなんて、なかなか味なことです。拈華微笑《ねんげみしょう》的微笑もおのずと口辺に漂わざるを得ません。だって、そうではないの、同じスポーツの用語を問いの形で出されることがあるだろうと、優雅なますらおは予想していたでしょうか。それからのサスペンスもなかなか賞翫にたえるものであると思います。ああいう瞬刻のサスペンスを、破らず深く保ちつづける情感そのものが、それから以後、きょうの心にある持続性と本質は一つであることが実にはっきり感じられますでしょう? そういうことが益※[#二の字点、1−2−22]わかって来て、私はあのサスペンスの趣をいよいよ愛し尊重いたします。これは同感でしょう? 何とも云えないわかりやすさ、すきとおったようなわかり合い、それとあのサスペンスにたえるつよさとの統一はほんとに美しさがあってすきです。いろいろ、はずみというものの瞬間を知りながら、そのはずみに支配されず、こちらでそれを支配してゆく感情のたちというものはうま味があって、大切なものね。私はしみじみそう思うのよ、あなたは? ある状況のなかで、その者たちにとって肯定されていいはずみでも、何かそこに一寸かんにふれて来る何かデリケートなものがあってそれを感じとって、はずみを支配してゆく心情というようなものは、実例は小さくても、生活感情のいろんな角々、曲り角で、やはり一つの行動の感覚で、価値のあるものね。
はずみに支配されないということは大切なことだと思われます。はずみの力を知っているということも大切であるというのと同じわけでね。
世の中には何だかはずみだけで動く人々さえあります。
こんなこと書いていたら、或る一つの午後の室の光景が浮んで来ました。本郷の仕事部屋。机の上に原稿紙をひろげていて、でももう三時で、五時になれば出かけようという日でした。五時に出かけるということのためにものが書けないの。
そのことばかり何ということなし思っていて。ふと気がついて、あら、自分はそれをこんなにたのしみにしているのかしら、そう思ったら、息がつまって胸がさけそうになりました。益※[#二の字点、1−2−22]机にじっと向っていられない心持になって来て、小さい室の内を歩きまわり、そして、ふと柱にかかっている懸け鏡の前へ立ち止って、そこにうつる自分の顔を見つめました。ああ、ああ、この眼! この顔! おぼえず髪をおさえながら、噫《ああ》、だめだ、だめだ、と自分に向って叫んだときの心持。しーんとした明るいすこし西日のさす仕事部屋。
自分のとらわれたものが何であるかがわかったときのおどろき、よろこび、重大さへの直感。そんなものを表現することも考えず出かけて行った夜の街。面白いわねえ。何て謙遜であったでしょう。
それでもねえ、そんな心の一方には、十六日に書いているような心の部分がきわめて自然発生の環境的なもののまま存在していて、やっと今、つかまれたりしているというのは、何という複雑さでしょう。私は、あの日(十六日)かえる道々大変その気持の変化について考えて居りました。そして、考えたの、本当に隅から隅まで妻なら妻を好くことが出来ることは、なかなかあり得ないことだと。自分が、わるいというのではないが、好きといえないもちものをもっていたことをはっきりわが目でみれば、いかにも沁々それが思えました。そして夫婦というものをあわれにも思いました。愛してゆく、というのは、どういうことなのでしょうね。私は好きだから愛す、と永年思って来たけれど、今はそうばかり思えません。愛すということと好きということはどこかちがって、好き、という感情のつよいひきつける力は、意志以前のようで、好きだから愛してゆくという現実もこまかくみれば、好きなところが多いものだからいやなところや辛いところをこらえて、それをへらす努力をしてゆく、その心が愛というもののようね。好きだから愛す、そんな棒のようなものではないのね、人間の心は。愛は妻なら妻のいやなところに傷けられるときもありながら、只そのいやなところを憎まない、何とかしようとしてゆく、その心ですね。人間のいやなところというのは大変悲しいものね、好きなものがどっかにいやなものもっていて、ちょいちょいそれを出す。そういうことはどんなに味気ないでしょう。私はこうやって自分のいやなものは見つけたけれど、あなたのいやなもの知らないから、何だかこの頁の二行から三行にかけての感想が声になってきこえるようです。本当にそうだったでしょう? 一体になってゆくなりかたというものは、実に実に端倪すべからざるいきさつであると感服もいたします。縦横からなのね。これは、おくりものとしたら、画面にあるかげのような関係のおくりものね。しかし、かげがあって明るみが描き出されているというおもしろさ、ね。
十月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より((1)島崎鶏二筆「竹」、(2)林重義筆「少女」、(3)竹久夢二筆の雪山の絵、(4)同、角兵衛獅子の絵はがき)〕
(1)これは好きというより何と父の作風と息子の作風とは似ているでしょう、とその見本。
今夕方でおなかがすいていて、気がおちつかないところです。すると向いのうちからピアノが鳴って、ショパンのエチュードで「雨」という名の友情を表現した曲を一寸ひいている。実に無感情にひいています。ところが、その女のひとが洋装で出て来るときは大変すっきりしていて、身についていて、きれいなの。女の美しさなんて、こんな風にも在り得るかと思ったところです。
(2)極めてデコラティーヴな画面ですが、昔麦僊が庭園と舞妓を描いたのとは全く異った感覚があります。娘は自分のデコラティーヴに扱われていることにわずらわされず、しかも少女の重みをふくんで、なかなか美しいと思います。少女の手の紫陽花《あじさい》は日本画の緑青に近い鮮明な緑をうき立たせて画の焦点をつくって、少女の
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