していた部分が今日はっきり見えます。いろいろな過程をとおってそんなに一生懸命倒れしていたことも今は活かされてはいるけれど。これまでの何年間かのものが、やや結実しかかっているとは思えます、文学的に。一生懸命倒れの時期は、どうして自分の作家としての弱点がああ自分でつかめないのでしょうね、全くそれは不シギね。一生懸命さばっかり自分に感じていて。この頃はすこし高められた形として、自分の作家としての弱点も(一生ケンメイ倒れの意味で)わかりますから、それは今年になってからの収穫だと思います。『文芸』の仕事はそのモメントとなっているのよ。何でも、ですから徹底的に勉強すべきものね。
あの一昨年の「流行雑誌」にことわったこと。今もあれでよかったと思います。「歌のわかれ」はあれに出た作品です。これからも又きっとそういうときがおこりましょうね。極めて現実性があると思っていていいでしょう。積極的な文学上の努力であるということが、外見の消極を保たざるを得ないことは、いろんな歴史の波の間に屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》生じましょうね。でも一昨年のことから私はいくらか学んだところがあって、無駄ではなかったと思います。いくらかずつ、少しずつ自主的な芸術の意味がわかって、多々益※[#二の字点、1−2−22]弁じ、強固な柔軟性のあふれた美しいものになりたいことね。
昔の作家は自身の中に分裂をもっていて、本当の芸術のための仕事と、金かせぎと二通り分けて使いわけきれるものと思ってやっていて、いつも後者の現実のつよさに引き倒されて来ています。本質の劇《はげ》しい作家は、云わば何でも書きますが、それは書くべき方向と質とで一貫されていて、その統一の上に何でもかけばかくので、純文学的作品と通俗的作品との区別のあるものをかくのではないわ。雑文というものは、そういう統一のある作家はどんなときもかかないわけです。その点で荒れることもないわけなのは面白いところです。
作家と画家の交渉もこの点がやはり興味があって、たとえば尾崎士郎は「人生劇場」の美文的浪曲でそれなりになり、一政はそれに名コンビしたリリシスムとその他の何かはもっているが、その半面そこからぬけ出す努力も忘れないでいる。その相異が数年後にはどんなちがいとなってあらわれるか、そんなところ。
実に確乎としていて、よくしっかり構成されていて、しかもその確乎さや構成そのものが、人間のピンからキリまでの感覚のむき出しの敏感さにみちたものであったらどんなによろこばしいでしょう! そういう作家こそ文学の歴史の上向のために寄与し得る作家です。
十七日のために大変いいものをいただいて、すまない位だと思います。
丸善へ行ったとき文芸評論のところ見ていたら『六つの肖像』という女のひとのかいた本があって、エリオット、ド・スタエル、マンスフィールド、オースティンその他の伝記があったの、十五円。いつかやろうとしている仕事のためにふと買おうかと思って、なかをすこし見たら、こまかい普通の伝記で、マアそれでもいいけれど、と十五円がおしくなっておやめにしてかえりました。ジョルジ・サンドなんかかいていないのよ。でもすこしほしいところもある。今ふらふらしているところです。アメリカの婦人作家、いろいろあるのでしょう、シェリーの研究で有名なエミ・ローエルという女詩人(大きい大きいお婆さんでした)をはじめ。図書館にない本やはり集めなくてはダメでしょうね。
十一日のお手紙におしまいの「よろしく」という文句。ヘロインたちによろしくということば。ちゃんとつたえられました。
この間好ちゃんもいろいろ工夫をこらしていい生活をしているという話。私にはしみじみと忘られません。いつもそのこと思うのよ。いろいろの折の美しいしおりのある態度と思い合わせて、工夫をこらしという表現も真実こもって心に響きます。大変よくわかって。でも一つ一つ具体的な細部は分らないというところに何という感情があるでしょう。深いニュアンスがそこにあります。
好ちゃんがいい感受性をもっていて、戯曲の「谷間のかげ」をよんだときの亢奮したよろこびの表情をそれにつけ思いおこします。若々しい顔立ちが精神の歓喜のために引きしまって而も燃え立つ表情をたたえているときの輝やかしさ。精神が微妙に溌溂に動いて、対象のあらゆる文学的生命にふれ、その味いをひき出し、のこる隈なくという表現のとおりにテーマの発展を可能にしてゆく理解力。
本がそのように読まれるよろこばしさで呻かないのは不思議と、よく話しましたね。字というものは、何と多くのもちこたえる力ももっているでしょう。其を思うと可愛いことね。感動のきわまったとき私が膝の力がぬけるとき字はやっぱりそれをもちこたえて表現してゆくのですもの。字で表現される文学の可能性の大さを感じます。文学は、人生的にみしみし鳴るおもみに耐え得て来ていることは古典が示して居りますものね。これは又別封でつづくのよ。
十月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十三日 第七十一信
丸善で絵の本を見ていたとき、あのイギリス名画集の別の一冊に「最後の章」という絵がありました。
いかにもイギリスらしい室内で水色の服をすーっとふくらませた若い女が、あのイギリスの炉辺にしゃがんで、二つの手をそのストーヴに向ってのばして、今よみ終ったばかりの物語か詩の最後の章の感銘を味っているところです。傍の椅子の上に伏せられたまま本があって。
詩でも戯曲でも、はじめの第一章のつよい感銘と、終りの一章の与える感銘は決定的ですね。ですから、作品についていうとき、よく、はじめすこしよんで、中頃よんで、結びをよめば、その価値がわかるというわけね。しかし、本当の文芸批評からいうと、これはやはり本末顛倒でしょう。少くとも私はそう信じます。
よい作家たち、旺盛な詩人たちであったなら、これから複雑をきわめ、大きい振幅とテーマの展開とがひかえている全篇の序に向ったとき、おのずから力の集注された表現で開始されるのは自然ですもの。しかも傑作ほど思わせぶりなく主題に入るというトルストイの意味ふかい技法上の必然は、あらゆる場合の真実であることもどんなにつきない興味でしょう。作品の主題そのものが、最初の章では自身のそれから先の展開を知らないで、自身に加えられる展開のための力に従順で、真白い紙をしずかにのべて、様々の方向からの描写を与えられてゆくうちに、いつしか作者とテーマ自体の動きとが一つに起伏しはじめて、作者がテーマをすすめてゆくのか、作者がテーマのリズムの緩急につれて次の章からより深くより密接な次の章へひかれてゆくか見わけのつかないときがはじまります。
この中頃のめりはりの、すきまのない精神活動の振幅というものは、いい作家たちほど激しく大きく変化の妙をきわめますね。そして、この過程で、テーマの奥の奥まで作家の筆がたっぷりとふれられてゆくか行かないか、それもきまる。テーマが最後の完全な昇華を行うかどうかもきまります。作家が全力をつくしテーマは自身のうねりを絶頂に発揮する、こういうときの見事さ。
あなたはヴェートーヴェンの交響楽のフィナーレにある、あの一つの迫力ある痙攣を覚えていらっしゃるでしょう? すべての精神の燃え立つ活動には、音楽でも文学がもっているようなああいう強烈な痙攣の経験があることは実に実に面白いところです。ワグナーなんかは終曲をもっと俗っぽく扱って、ヴェートーヴェンのように序曲から高め高めつよい人間と神のまじったようなサスペンスでもち来したものの必然の終曲としていないから、只音の大きい束ですが、ヴェートーベンは何とその点こわいように生粋でしょう。高まり高まって、もうテーマの発展の限りの刹那、彼は全曲のふるえるばかりなフィナーレの第一の音を響かせます。そして、大きいテーマが自然のしずまりを見出すまで、又も又もとうちかえして来るうちかえしの趣。よく御存じの第五交響楽のフィナーレ。そうでしょう?
小説の結びの一句は何と全体のいのちの感銘の集約でしょう。多くの読者は、作者がよろこびきわまった、殆ど悲痛な感動で一字一字とおいてゆくその結びの数行を一生心に刻まれてしまいます。
そういうほど、いのちを傾けて展開されるテーマというものは、作者にとってどんなに自分の身内のものでしょう。どんなに自分ときっても切れないものでしょう。
三文作家は、題材さえ手近くつかめばすぐそこへ、自分を放射してしまう。そういうひとびとは、テーマの真の美しさ、輝しさ、心を魅する力をおそらく終生理解しないでしょうね。
好ちゃんの愛読書である「谷間のかげ」から、段々熱中してしまって、上下二巻の創作物語になってしまいました。
それというのも好ちゃんのひとかたならない生活態度が私を心から感動させる為です。同感して下さるでしょう。私は好ちゃんのことを思うと、よく感きわまって、あれの前に膝をついて、無限の劬《いたわ》りと善意と希望とをこめて抱擁してやりたい心持になります。あらゆるよろこびをよろこばせてやりたいと思うの。これも同感でしょう? そしてね、人間としての素質の見事さを全面的に発育させたいと思うの。そして、それも全く望みのないことではあるまいとも思います。何より幸なことには、彼は文学がわかります、この天のたまものの力で、私が幸もし益※[#二の字点、1−2−22]いい作家となり、縦横に文字を駆使する法力を身につければ、詩や戯曲は、これまで到達していたフォームとリズムをもっと進めて、リアルな趣で、更に成熟へすすめるのだろうと思います。
このこと、あなたはどうお考えになるでしょう。極めて微妙な大切なことだと思うのですけれど。
私の作品が一つから一つへ進歩の道標とならなければならないように、好ちゃんの成育もそのように一つの段階から一つの段階へと導きすすめられなければいけまいと思います。
私はそのために力をおしまないつもりです。どうかあなたも助けて頂戴。好ちゃんのように卓抜な資質のものを、その一定の発展段階にとどめておくなどということ、私には堪えられないことです。彼をほめてやる言葉を私たちがひととおりしか持ち合わさないなどということは、寧ろ腹立たしいでしょう? ねえ。
ユリは欲ばりだ、そうお笑いになりましょうか。笑われてもうれしいわ。
ひとの美質とその生動をより深くと理解してゆけるようになるということは、つまり私たち夫婦の生育ですものね。私たちは多面的に成長しなければなりません。
私は自分のことを云って勝手ですが、この一二年来、いろいろの点成長出来ました。そして、それは去年の夏、詩集の別冊で「素足」というのや「化粧」というのを私がよんだ頃から自覚されて来た影響です。前の手紙でかいた一生懸命倒れ式の精神が、他方にバランスをとり戻して来て、一つの発展をいたしました。私たちの生活の中では一冊の詩の別冊でも何と大きい影響をもつでしょう。
それから後、あなたもいろんな短詩をおよみになりましたし、それを私につたえて下すって、そしてこの間のあの大波の際、今までよまれていた詩集の全巻が、初めから終りまで再読されるという戦慄的な味いで、又私のところに何かが熟しました。みんな其が文学の仕事にてりかえります。何ということでしょうね、人間の生命の様相というもの。
あなたはどうお思いになって? 私たち互の流れ合うものも、随分この頃では川床がひろく面白い起伏で飛沫もあげるようになって来ているでしょう。
よくそう思うの。そこにある手紙の束のなかにある私の姿、私たちの様子、どんなに次第によくなってきているでしょうか、と。どんなに段々と夫婦らしくなって来ているだろうか、と。単純なものから複雑な甘美さをもちつつあるか、と。
ああ、きょうはどうでしょう。まる一日あなたと暮しました。
この頃こんな大部な(!)長篇的手紙はじめてね。そして、私目玉のつれるわけ今わかりました。だってこんな細かい字、こんな全心の字、この位かけば目玉だって
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