ものとして。そういうものとしての美感を心底に蔵しない者の妄動ぶりは塵煙りが舞い立つばかりです。道義的な善とはちがったもっと云わば高いもの。そういう立派な美の溢れた、命のあふれた小説をかきたいことね。
 そのことについて一つ発見があるのです。
「杉垣」など、あすこでは主人公夫婦が現実に対して一つの態度をもっていて、その態度で世相の推移に対してゆくそのところをかいたの。一定の態度をもって生きるということは武麟のリアリスムと称するものにはないから、こしらえものだと云い、私は『帝大新聞』で、散文精神と云われているものが、現実のうちに立ちあがっている精神をもっていないことを云いました。
「朝の風」なんかかいて感じるのは、主人公たちが一定の態度をもっていて、それと照らし合わせる現象を対置した構成でかかれた小説は、局面局面に解答があるわけね。「朝の風」なんかは、心持のいろんな面の動きを追求しているその過程そのものにある態度と高さとがある。小説の面白さというものの本質はここではないでしょうか。通俗家は、シチュエーションでそういうサスペンスをつくるのですし、そうでない人でも本質的見とおしはもたない転々を辿っていて、つまりある一つのことなり心理なりが、何が何だか分らないまま、わかったところ、つかんだところだけでかいている。小説の真の小説らしさ、そのいのちは作家がもっている大さとか高さとかを、過程のうちに反映してゆくところにあるのね。その証拠には、ロマン・ロランだって「ジャン・クリストフ」は実に面白いが、英雄を扱った(むき出して)戯曲は大して面白くないわ。卑俗に、読者にわかるところまで作家が下りると云うが、決して決してそうではないわ。無いことがさがし出されてかかれるのでなくて、あることが、独特ないのちを与えられて現れる、そのいのちこそその作家の高さ深さをあらわすものでなければならないのでしょう。こんなこと、すこしひとり言でしょうか。でも、私は大変いい小説がかきたいのよ。ギューッとつっこんだところのある作品がかきたいのよ。中公の長いの、ですから楽しみです。いろんな研究と発見とが出来るだろうと思います。おでこと心臓とで、ぐいぐい押してかいてみたいの。わるくないでしょう。この意味では春ごろ、てっとりばやく書かなくて本当によかったと思います。
 八日づけのお手紙、二葉亭四迷の第五巻、まだそちらにあったのね、どこに行ったのかしらと思っていたところでした。このお手紙もなかなか興味ふかく有益です。二葉亭のこういう分裂と矛盾を、今日真面目にかえりみてわが心にきいて見る作家が果して何人いるでしょう。若しそうしたら今日の自分たちのような世わたりはきまりわるくて困るでしょうね。
 私はこういう手紙折々頂きたいと思います。あなたの方に時間のゆとりがおありになるときは。たとえばヘッセについても。マンなどについても。私のほしがる心持、よくおわかりになるでしょう? 表現されるということは大切なことですね。表現するということはやっぱり大切なことです。
 それから、又一つこの頃考えていることは、古典を私たちがどこまで自身の養いにしてゆくかという点です。若いひとで小説をもって来ます。素質は素直な娘さんなの、でもそのひとの川床は浅くてかたいのよ。何故でしょう? もっとそのひとのもちものは柔かく深いように思えるのに何故自身の重みだけ深まりきらないのでしょう。これについて、そういう世代の人々が川端だの横光だのジイドだのといううらなり芸術にやしなわれて来たということの結果が、こんな貧弱さとしてあらわれていると思えます。うらなり芸術独特のほり下げのあささ、ごまかされた部分のあるがままその上を修辞の力で滑走してゆく芸[#「芸」に傍点]で、一層貧弱なのね。今のような時流の間で、本当に芸術を未来に向って育ててゆく養分はコンテンポラリーには絶対にと云っていいほどありません。やはり、古典、自分、未来この三位一体しかないと思う。
 そこで、たとえばトルストイの作品なんかでも、今の若いものは読みつづけられないのですって。何故でしょう。いろいろ考えたらトルストイの作品では、彼の人生観そのものの二元性分裂が映っていて、感性的なものと思想的なものが分裂していて、レーウィンにしろ、あんなにいやなカレーニンにしろ、考えるとなると議論になるのね。考えを考えとしてだけ開陳します。現代の人々の感性はうらなりながら或る立体性にあって感性が理性となる方向――その悪い例は感性の徴象化、今日の詩なんかの――にあって、トルストイが親しめないのね。私はなんだか、ここのところを大変面白い芸術の特殊性の一つだと思います。「鏡としてのトルストイ」には、こういう表現そのもののうちにあらわれている内容の本質はとりあげられていなかったと思って。古典は何だか、そういうところまでずーっと手をつっこんでつかまれなければならないのね。そういう風に古典にずっぷりと手をつっこめる或るものがなければ、結局未来への伸延力もないというわけで、ここの微妙な生活的モメントを実に実に面白く感じます。そういう意味で、私はよく謹んで学んで、牛若丸になりたいのよ、過去と未来との間を自在にとび交いたいの。そういうつよい脚の弾力をもちたいの。その様を想像すればなかなか快いでしょう? かの子というひとは小さいすこし凸凹のある鏡台の前へぺったり坐って、自分の顔へこの色を彩って見たり、この隈どりをつけて見たりして、こわいだろう? こわいだろう? と自分におどしたり、いいだろう? きれいだろう? と自分をおだてたりした人です。その全体の姿はやはり面白いけれど、作品は一面にひどい通俗性をも持っていて。
 ああきょうは何とどっさり喋りたいことがあるでしょう。十七日はどんな天気でしょう。うちに奇麗な花をたっぷりいけて、机の上にも奇麗な花をたっぷりいけて、そして詩集や戯曲集についてのお話いたしましょうね。私は居心地よくするのが割合に上手だったでしょう?
 花の匂り、いい匂り。その匂りのなかに神経のほぐされてゆく気持、いい気持でしょう。暖く血がめぐるでしょう。おわかりになるかしら、私はあなたを丁度快適なほどに血のめぐりを暖くそして速くしてあげたいと、いつも思うのよ。休みにそれがなる程度に休ませないようにして上げたいの。これはやさしいことではないと思えます。あるところまで集注されて、それがおのずからほぐれてゆくリズムは大変とらえがたいのですものね。雲の風情はとらえがたいのですもの。
 この間うちから一度かいて見たいと思っていることがあります、それは別封で。この手紙十七日につくように。窓からヒラヒラと舞いこむおとずれになるように。では、ね。

 十月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月十三日  第七十信
 これは先ずお約束の表ではじめなければなりません。この十日間は好成績でないわね、第一防空演習でしょう、第二が小説でしょう、尤もあとの方で非常によくないのは九日の夜だけですけれど。
   甲 二つ
   乙 五つ
   丙 二つ
   丁が一つ
 よみもののこと、プランが変えられて、私はほんとうにほっといたします、どうもどうもありがとう。あれはすこしせめ苦めいていました。もっと早く自分からそのこと云うべきでしたね。そのことでは私は、わるかったと思うの。だって現実の日常生活の条件から、そういう方法が変えられるのは当然ですものね。私はあなたが仰云ったとき、ふとそのことを思って。私のそういう従順さのようなものは本来はあなたに対してよろこばれるものよりも、寧ろ何か自発性の足りなさとして考えられる筈のものだと思って。同感でしょう。
 けさは何というまざまざとした感覚のなかから目をさましたでしょう! 二つの腕のなかに紺大島のボリュームが犇《ひし》とあざやかで、顔の前に何と紺の匂いが高かったでしょう。
 下へおりたら十一日と十二日のお手紙。こうして一組になって到着するのは、いつも片方が黄色っぽい色で片方は白い色なのね、何だか面白い。この前のもそうでした。
 十一日のお手紙、題のことで、動物園や植物園に縁のあるのばっかり多いというのは実に笑いました。本当にそうね。昆虫記のような題も少くないわね。日本の文学のある傾向もあるのね。そのこと何だか興味をうごかされ、今度一寸した感想にかいて見ようと思いました。
「日々の映り」という題への批評は適確です。名は体をあらわす式で、あれを私が書き直したい(結局別もののようになりましたが、逆から云えばそれほど)と思っただけ、作品として主観的だったのです。私は大変愉快よ、あなたのお突きの正確さが愉快です。こんな小さい道を貫いて、作品のよまれもしない内奥までふれられてゆくところが。作者の気持いっぱいで、息をのんでいて、語りつくしていなくて。この例から見ても、簡潔ということが自然主義的平凡さとちがうという意味がよくうなずける次第です。
 題はそういう意味で本当にむずかしいと思います。つまるところはその人らしい題をつけるものですね。稲ちゃんの「くれない」「素足の娘」「美しい人たち」「女三人」「四季の車」みんななかなかうまいでしょう? 一つ一つ聞くとはっとする位しゃれた題です。いかにもその人でしょう、
〔欄外に〕前の頁半ぱに切って御免なさい。余り消すことになってしまったから。
 フィクションの題にすれすれで、そうでもないところ。その味。私はこういう題をつけられないけれど、内心はうらやましいことがなくもないのよ。そして、自分なりにいかにも自分らしいのを見つけたいと、いつも思います。そして、お手紙にかかれている例にしてみても、題は歴史を語ります。ここにあげられている思いつかれた題をよんで、私は無量の感想にうたれます。こういう題の本が出るべきであるのに。そういう題がつけられていい筈のものであるのに。
 高山のは元のにします。一寸というところはよくわかるのですけれども。勿論よく考えますけれども。現代は題をつける上で、又おのずから微妙なむずかしさがあります。題だけで、そしてその題と著者の名をよみ下しただけで反撥する、そんな神経も題に対してあります。わかるでしょう? ちゃんとしすぎていて通用しない、そんな実際についておわかりになるでしょう。私だけ特別な成層圏にいるわけにゆかない。しかし、最も多く健全な酸素をもつものであろうとする、そういう努力の一つの形として、たとえば「日々の映り」の主観性もより雄弁なものにふくらまそうというわけです。
 十二日づけのお手紙しんからうれしいのですけれど、私は自分たちの生活的リアリズムのために、あなたが私の努力を十分みとめて下さりつつ、その努力の価値と意義とは、私がアマゾンであるからではなくて、毒ガスに当てられれば死ぬ人間らしい人間であるから、益※[#二の字点、1−2−22]健全の価値を知ってそのためにつくし骨を惜しむまいとするところにあると、そう見て下さることで、一層うれしさがリアルです。バックの批評はちがった対象で、作家の人生的難航をかたっていますね。その具体的なものにふれることこそ生きた批評であると云える意味で。自分に対していい批評家であれたら、作家はどんなに育つ力をつよくもつことになるでしょう。作家は従来いつもガンコに主観的です。昔式の作家は皆そうね。その範囲で完成している。そういう主観性と対置されるものはいつも世俗的なかしこさで、藤村のように、こういう時代になるとせっせと子供のよみものを書こうというようなことになり、それを秋声が、ああいう人はいいと歎息してながめることにもなります。藤村の童話は、チャンバラよりは、それはよいでしょう。でもね。秋声がそう歎く歎きにはともかく現代の文学の歎きがこもって居ります。藤村がそういうところへ流れ出してゆくことには、やはり只よりましだ、結構だと云えぬ、すかんところがあるわけです。面白いわねえ。
 十二日のお手紙、改った気持になり、同時に極めて謙遜な心になって、頂きます。自分とすれば一生懸命だおれを
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