うねましょうね。又犬が啼いてるわ。

 九月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月三十日  第六十六信
 二十八日づけのお手紙、きのう着。ありがとう。
 菊さっぱりして、秋らしくて奇麗でしょう。
 三省堂の『書斎』御免なさい。あれは、やっぱり出ていないのよ。ずーっと出ないようになったまま、出ていないのです。
 二十日の手紙は、お話ししたとおり。二十六日の消印よ。座布団と手紙とは、扱いにおいておのずから違います、ねえ。
 きのう、きょうは寒いこと、セル着ていらっしゃいますか。きょうは、女のひとのためのものを二十枚かかなければならないのよ。ヘッセのことをかきましょう、随分よまれているから。ヘッセのうちにある正しいものと、ロマンティシズムにぼやかされているものとの区別、大体ロマンティシズムとはどういうものか、そんなこと。今は妙な時代でね、日本はロマンティック時代というところがありますから。壮語的ロマンティシズムと極めて低俗な万歳的地口とが、日常の感覚のなかでよりわけられずにまざっています。大した大人たちがその見本を示しているから。
 小説は、書き直しといってもそれには其だけの愛着があってのことですから、決して片々的片手間仕事にはしません。それに、この前の手紙で云っていたようにいろいろと考えていることがあるのですし。
 机の上にペラゲアの赤い花が二輪さしてあって、青い大きい生々とした葉っぱとともにいかにも鮮やかな色です。原稿紙の厚いかさなりの上にやきものの山羊がのっていて、その文鎮にあなたのお手紙よせかけて眺めてかいているのですけれど、私は、この手紙ひらいたときから、きのうから、幾度も幾度も、行為の動機は思慮深く、とかかれているところをくりかえしています。
 まざまざとそのときの苦痛が甦ります。寝ることも出来なかったし、歩く力もないようになって、夜じゅう何か畳の上を膝で居ざって歩いていた、はーっと時々苦しい息をつきながら。
 一生忘れない夜であると思います。スタンドが何とギラギラ明るかったでしょう。自分に対する何という口おしさだったでしょう。
 その苦しさが肉体のなかに甦って来て、しぼるような感じです。
 私がある一人の女のひとの真にいたましい悲劇を、しんから思いやり、苦悩の過程を辿ることが出来るのはああいう一夜のためですね。そう思います。そして、こういう苦しさは、どこにもあなたの妻であるということからの救いはないのよ。おわかりになって? あなたにかかわりない全然私のくちおしさ、苦痛であって、しかも、ことの結果があらわれれば完全にあなたの上にあらわされるということで、堪えるに堪えがたい苦痛がまさるのです。何という気持でしょうねえ。何という気持だったでしょう。ああ、といきなりは、生きていられない、という風に思います。それだと云ってどうするのだろう、つづいてそう考える。自分をそのことによってあなたから切りはなされたものと感じ、しかもそんなおそろしい孤独の状態の中から、全く密接に大事なものにかかわってゆくいきさつがまざまざと見えている。あんな気持って。
 悄気《しょげ》てるの話ね。そういう言葉の表現で、私は一度も云いあらわした覚えはないと思います。だって、そうではないのですもの。ただ、体が随分参っているということは話したでしょうが。この手紙で、あなたが云おうとしていらっしゃることの本質はよくわかりますから、こまかく一つ一つを訂正するというような意味ではなく、ね。
 私には、あの時分、行くたんびに、どうせ命はおしくないんだろう、私だってその位のことは考えているだろうと云って居りました。そして、私が涙を出したり、哀訴したりしないので、こわい様子をしていました。それでも、顔をちがう方へ向ければ、ちがうようにあらわすのね。
 一般に云って、誰がああ云った、それでつい、というところは日常に随分ありがちなのね。こういうことは、それだけ切りはなして云えばだけれど、すこし追いつめて考えれば、たとえば女の作家が自身の芸術の理論をもっていなくて自然発生の仕事ぶりをするということと、どこかで共通ね。この頃はこのことを考えていて、そうなってゆくという作家は十中九人ですが、そうしてゆくという作家はなかなかないということを考えています。たとえば一つの大づかみの創作の理論と方向とは何人かに共通なものとしてあるわけですが(今日でも)そのなかで、チェホフの所謂自分の線というものを、持味という範囲より高めて文学史的見地から描き出してゆくものは、なかなかないわね。
 私はこの文学史的見地での自身の線がほしいと思うことがこの頃、自覚されて来た希望です。ねえ、面白いでしょう。若々しい向う見ずで仕事に熱中する時代からある段階を経て、真に仕事そのもののための情熱で仕事にうちはまってゆく時代が再び来るというのは、面白いわねえ。刻苦ということがわかって来る時代、一つのアスピレーションではなく刻苦ということが仕事の上でわかって、おのずから楽しみとなる時代。
 私は早く完成の形をとる人間ではないから、えっちらおっちらね。
 この間、津田青楓の六十一歳の還暦祝があってよばれて行って、洋画の大家たちというもと[#「と」に「ママ」の注記]を近くから見ましたが、文学の人とちがうものですね、洋画でああなら日本画がどの位鼻もちならないものかとびっくりしました。画かきは直接社交的買い手と接触する、安井さんのような肖像画家は名士とばかりつき合うから、何だか大した先生になってしまうのね。鍋井克之は一寸面白いひとです。皮肉も云うところがあって。安井というひとの顔を見て、ああこういう顔のひとがああいうのをかくかと面白うございました。画の中の人のとおりよ、面が多くて、黒い眉して、頬ぺたのよこのところが珍しく赤くて。面と色彩とが錯交していて。石井さんはぼってりで、そういうてがたい教師風の絵だし、鍋井という人は宇野浩二の本でもああいう線の細い淡いような、そこにつよさのあるような風だし。
 私は、芸術家に還暦なんかある筈がないから若がえりのお祝だろうと思うということと、この画家が明治からのいろんな文化の波を反映して来たことの独自さを一寸話しました。門の木犀が咲きましたから、せめて匂いを、と思って、花を入れて封をするのよ。では又。

 十月四日(消印) 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月三日  第六十七信
 きのうあたりからしきりにそちらに行きたい心持がいたします。でも、それに抵抗するようにして机にねばって居ります。こんな気持、子供らしいような。けれども一週間てこんなに永いのでしょうか。随分奇妙ね。たった一つの、土曜日から次の月曜日までとお思いになれて? きょうは木曜よ。
 この前の手紙、丁度これから女のひとのためのものを二十枚かくところ、というときでしたと思います。ロマンティシズムのことかくと云って居りましたろう。けれども、この問題は別にすこし深めて面白い課題となりそうなので、少年から青年にうつる時代の少年少女の心の様々のたたかい、よろこびと悲しみとを描いた文学についてヘッセの「車輪の下」を話のいとぐちとしてかきました。今、「たけくらべ」なんか随分よまれているのですって。ヘッセにしろ「たけくらべ」にしろ、そういうものを今の若いひとが心の休息所とするというのは何と可哀想でしょう。そういうことを若いひとは憤り、大人はそういう文化しか若いものに与えていないということについて大変慚愧するべきです。髪の毛を一分苅にされた頭で、その中では「たけくらべ」が訴えるものとして感じられているということは、何という深刻さでしょう。
 ロマンティシズムについては、こう思うの。これまでの文学の考えかたの型では、いつでもリアリズム対ロマンティシズムという風に扱われて来ています。そして評論をするひとたちはその型のなかで語っているけれども、ダイナミックな文学では、こういう二元的対立はもう古いと思うのです。新しい文学評論の領域でも、リアリズムの究明はまだ、その対象として或は一つの要素としてのロマンティシズムを扱うところまで行っていなかったと思います。
 この頃、自分の心持を考えてみても、そういう対立は間違っていて、ロマンティシズムはリアルなものの見とおし[#「見とおし」に傍点]から来る一つの美感である筈であり、丁度岩波新書の『北極飛行』に飛行士の描いた極めてリアルな推定に立脚しての推測の美のロマンティシズムである筈であり、未来が語られるという性格でロマンティックである筈だと思います。だから、リアリズムの時代的な(歴史の中での)発展の性格に対応していかなるロマンティシズムがあるかということが、リアリズムの方から今日は見らるべきでしょう。これは分りきっているようでいて、文学の評論家は一人もしていないことなのよ。即ち、彼の内部でリアリズムのファクターはそのところまで拡張もしていないし、複雑になってもいないというわけだろうと思います。これは、(そういう現実関係を見直してゆくということは)大変有益でしょう?
 それともう一つ私がヘッセやトーマス・マンをよんで考えたのは「有用人」、「無用人」のことで、従来は世俗的無用人が芸術家であって、芸術家の側として其でよいという境地があったと思います。ところが昨今は無用人に存在権は許されない形があらわれて来ているので、その無用人の或ものは急に有用人になろうとして、そのことでは世俗的有用人との区別がつかなくなってしまっている。他のつとめ人と同じ内容で有用人になるしか知らない、つまり有用人になったつもりで文学の本質からは無用人になって、歴史の永い目ではつまり全くの無用人であるということになります。
 この歴史は十九世紀文学の流れの中から発して、日本にどうあらわれて来たか、二葉亭四迷のことを、その点から考えてね。マンやヘッセの時代の作家即無用人の考は、二葉亭のあの煩悶[自注6]とどうかかわりあっているのでしょう。十年ばかり前の文学の新しい本質をとらえたものは、無用人でなくて社会と文学に有用人でありうる統一を学んだのであり、そこにしかこの統一はないのですが、所謂「純文学」はそういう実に大事な成長の輪を一つおっことしていますからね。「純文学」における自我の崩壊、それにつれての通俗化、猥雑化と、この無用人、有用人の関係はつながりがあります。
 二葉亭についておもちになる興味の核心はどこでしょう。最も早いエゴーの目ざめとして? トーマス・マンは、家族の血統の廃頽(世俗的)のとき芸術家が出るとしています。「ブッテンブーロークの一家」でそれを語っているのだそうです。こんな考えかた――そこに発展[#「発展」に傍点]を見るという――何とドイツ哲学亜流でしょう。結果から現象的にさかのぼる方法。二葉亭についてかいて下すったら面白いでしょうねえ。中村光夫のはよんでいませんけれど。忘れず、ね。
『明日への精神』やっと出ました。表紙は白でフランス綴です。小磯良平のトンボがかいてあって、題は朱。トンボの色は写生風で瀟洒としている(そうです)が、私は自分の量感が出ていないで余り感服いたしません、表紙なんか私がどうかしらと云うのは賛成しないのよ、だから何だかもり上って来る感じにかけていてがっかりですが、第三者はきれいですって。皆がそういうそうです。三千だけ刷ったが、第二日でもう千部刷るという話が配本の方から出ている由、まだわかりませんが。本のつくりかた雑なのよ、ですからすこし悲しいのよ。折角なのにねえ。でも、出ましたからよかったとしなければなりません。
 日本評論社の現代文学読本(何人かのひとと一緒の)案外によく出ましたって。やはり又増刷した由。一ヵ月で珍しい由。しかしこれは版権はないのですから。
 明日で金星堂の方も刷りにかかります。文芸評論の原稿もわたしずみになります。そして、中央公論社にわたしたら吻《ほ》っとね。〔中略〕
 達ちゃんたち、組合と近所の女のひとたちをよんで秋にお祝をいたしますそうです。お砂糖が足
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