することは、天然の理法であるにかかわらず、と云っている。有三においてさえなお然り。このことには無量の意味があるわけです。或る作家にとって、例えば、一人の妻の心というものがあるとする、良人を思う心をかくとする。良人を思う心は抽象には存在いたしませんからね。きわめて具体的条件があります。その条件をぬいてかいたとして、妻の心一般であって、芸術的には独自性もありません。だから書かない。それだけその作家は宝をもちぐされている。何と痛切でしょう。作家はいつも一番かきたいテーマというものがあり、それをこそかいて力量をいっぱいに振えるのであると思います。そのテーマの一番必然なものをいつもよけているということの毒は、非常にふかいものですね。作家の渾身の努力は、いかにしてこのフショク作用にうちかつかということでありましょう。この努力がまたごくごく微妙です。
 本当に雨がサーッとふればいいことね。けさ一時曇っていただけでも大いにたすかりました。
 今年の夏は一つ修業をしようと思うの。それは風のとおるところでものをかく練習です。私は風が体に当るといやで仕事出来ない。でも、今年は二階に籠城でそんなこと云っていられないから、風が通ってもかけるようにして見ます、これは半ば生理的な原因なのでしょうね。皮膚の表面が温度を奪われ、頭の血管がどうしても充血するその間に何か不快感があるのでしょう。皮膚の弱さもあると思って、それで今年はすこし吹かれて辛棒してみます。
 上野にはソーダ水あってよ。私はのみませんが。ソーダ水というものはどうもすきません。ポートラップというもののこと、白山の小さい店でのんだこと思い出しました。覚えていらして? 私はあのとき初めてポートラップというものをのみました。
 ところで十九日づけのお手紙の前、昨夜速達頂きました。それは私の甘ちゃんと云われていることわかりますし、承認もいたします。あなたに対し、あなたの批評に対してはそうですが、たか子なんかどっかに私の手落ちでもあるような表情をするから非常に不快です。そのことでは不快です。野原にいたときも、あのときの手紙には書かなかったけれど、なかなか腹にすえかねるようなこともあったわけです。あの一家のひとは、とことんのところへゆくと、人を利用すると知らず利用するだけに頭を働かせ、到って水臭い心持で対して来るからきらい。尤も、きらいというのは子供っぽいことですが。でもきらいだわ。自分の勝手でばかりやさしい声したりして。暗黙にケンセイしたり。大変むきつけに書いておやおやとお思いになるかもしれないが御免なさい。書くと下らないようなことだが、心持では腹の立つこともあるのだから、あなたは「ホウ、ユリはむくれてるナ」と思ってきいていて下さればいいのよ。誰に云う人もないと、昔話の木こりは木の洞に自分の云いたいことを云ったというでしょう、あなたは御亭主だから、私のジリジリもおききにならざるを得ないのよ。あしからず。
 面白いのねえ。本当にまともな気持でたよりにしているのかと思うと、信頼という本当の気持は知らないで、スルリといつか利用の面へまわってしまっている。だからあいては、本気でためを思ってやって、やがて腹を立ててしまうところが出来る。
 ところで、富雄に召集がかかって八月一日に出かけます。何《ど》ういう種類の召集か分らず。明日たか子が御相談いたしましょう。いやなところを思うとムカムカするが、一人の若い女が、ともかく世の中と組みあってゆくのですから、同じ利用するにしても大局的なましの方向に役立つ以上、利用されてやるつもりでは居りますから、その点は御安心下さい。
 十九日づけのお手紙。いくらかでも冷たいトマトがあればまアまアね。玉子は売りに出ていますが、痛んでいるリツが多いから。牛乳はおなかにあって居りますか? 下痢になりませんか。アメリカあたりの標準で、体のためになるのは四合五勺が単位ですね。ただそれだけはのめますまい。料理に入れるのを入れてですから。どうかうまい組合わせで栄養をおとりになるように。そのことでの倹約は全く無意味よ。味噌汁は汗をかいた体のために力がつきますが、召上るでしょうか。塩分がいるのです、汗をかくと。塩分は非常に大切のようです、肉体の疲労には。
 島田からかえりのこと、一般的なこととしてよくわかります。半徹夜なんか絶対して居りません。そうすると朝おそくなり、体がもちにくくて、暑さ一層凌ぎにくいのですから。本当に、いつかの夏、林町にいて、四十度熱出しましたね。そして、叱られたこと! よく覚えて居ります。よく眠ること。体に力のある感じにしておくこと。それはよく気をつけて居りますから。今夜も十時半には眠るでしょう。先日うちのように、一日の大部分暑い外にいると頭がボーとなります。うちにいると疲れ大分ちがいますが、いつもそうばかりもして居られず。
 読書案内のこと、はっきりそう思います。例えば「古代社会」だけで、発展が示されなければ、河出のあの結婚や何かを法律上しらべた叢書をあてがったって本質は何も知り得ないのですから。婦人伝についても、この頃多く出るのは回顧風のものね。その点婦人作家論はちがうつもりです。記録のこと、しらべました。
 これからすこし明朝渡すものかきますから、又ね。

 八月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月一日  第五十三信 これで順でしょう?
 妙にこんぐらかりましたから先ず、土曜日のことから。土曜日は多賀子が立った日で、朝そちらへゆき、私は夜東京駅まで送ってやりました。家を出るときは気がつかなかったけれども、往来を歩いたら頭がクラクラして足が浮いて千鳥足の気分だものだからびっくりして、送るとすぐ家へかえりました。
 日曜日は、それでもどうしても読まなければならないものがあって、昼間じゅうそれにかかっていて、夕飯後すこし書いて早ね。月曜日にそちらへゆき、少々ピンチと云っていたのはそのことです。今まで、体がつかれて苦しい気のしたことは始終ですが、こんどみたいに、体はしゃんとしているのに頭だけ妙になってものもはっきり見えないようだし、目まいがしてあぶないようなのは初めてなので気にしていたわけです。でも、月曜日は午後の六時半から明舟町の新協劇団へ前から話にゆく約束があって、人があつまっているのにことわれないから、早く夕飯たべて出かけようとしていたところへ、てっちゃんが就職がきまったと云ってよってね、そちらへゆきたいが、では明日は私はゆかないからというようなことで、私がめの舞う話もしたわけです。二三日ひとの来ない家のことの考えないでもいいところで、フーフー眠りたいというようなことから国府津へ林町の連中がいるので、行こうかしら。行きたいけれど、やっぱりなかなか思い切って行けない、宮本が行って来いと云ってくれると行けるようなもんだけれど、など話したわけです。じゃあした話しましょう、そうね。こんな工合で、すぐ出かけて、私は虎ノ門へ出かけ十時半ごろ帰宅したわけです。
 一時間も落付いていず、私は出かける前でバタバタして別にそんなことを、話して貰うというはっきりした依頼なんかするわけもないし、半分笑い話のようにしていたのでした。私がはっきり、そんなことはいいわと云わなかったもんだから、あの人らしく親切気から妙にこんぐらかったのだろうと思います。
 私が疲れたということより、妙な話の出されかたが不愉快でいらっしゃるのはよく分りますが、元来はそういういきさつなのよ。
 こんなに頭が変という疲れかた初めてだから、私もすこしびっくりしたのです、勿論ぐたぐたな気になっているのでもないし、只早くこんな目まいなんかなおしたかったわけです。佐藤さんにきいたら、私が珍しいというのが珍しい方の由。頭をつかう人の疲労は大抵そういう形の由、私がふだんひとより丈夫で、生活に気をつけているため余り経験がないのだろうとのことです。だからどっさりたべて、よく眠って、すこし用事へらして(会やお話のことをことわって)休めばいいでしょう。土曜日には、すこし風邪気味ではあったのですが、全くあんなこと初めてだったから。今もまだ幾分クラクラです。
 国府津のあの長椅子のこと思い出したりしてね。何だかあの上へ丸まって眠ったら癒りそうな気がしたりして。私が疲れを出すと、半徹夜、不規則とすぐ結論づけられますが、半徹夜なんかで、この程度続くものではないのよ。現実の問題として。普通のひととちがう生活の条件で、昼迄寝ているということはないのだから。
 でも、きのう、あなたが、何となく頸の毛を立てた鷲のような彫刻的な顔つきで、私の疲れを承認なさらなかったとき、悲しいようでしたが、やがて面白くなって、その気持は今もつづいて居ります。疲れを承認しないこと、承認しない疲れを、生活の中に生じさせないようにやってゆくこと。つまりそれですから。随分その分量は減っているのだけれど、一年に一度はちょいと出して、三十一日のお手紙のような印象になるのね。あの手紙だけ切りはなしたら、マア私の生活というもの、考えかたというもの、何という惨憺たるものの如くでしょう。私の小市民的敏感性なるものも、あなたへの映りかたに興味をもちます。こういう表現で云われるときには、現実のこまごました場合のなかで、私のそうでもない気質で同じ対象に向ってされているあれこれのことは消されて、その面と思われる点だけ、あなたの印象に甦るのね。常に同じことが甦るのね。それは何となく不思議のようです、そのところだけが、様々の他のいろんな事実によって流動を与えられないまま固定されているというのは。実際はそんなに膠着してはいないのでしょうと思うのですが。どうでしょうかしら。全体的に云えば。
 所書のちがったお手紙二つ。どうもありがとう。五月十五日のと六月二十五日のと。生活というのは何と面白いでしょう。この二つの手紙のうちにある天気の工合、そして、三十一日のなかにある風の吹きかた。そしてこんな風も、やっぱり五月十五日のなかに云われている水をかけたり、陽にあてて暖めたり、手入れのいい植物を大切に思う、その一つのあらわれであるということも。たとえば月曜日に私がその上に漂うような心持で、目をまわしながらうっとりとして歩いていたその気持と、水曜日やきょうの気持の変化。そして、そんないろいろの気持の断面がチラリと見えるきりで、見えた断面に一日の気持が、多く支配されるというのは、私たちの独特な生活の条件ですね。こういう光景は非常に趣が深いわね。同じ詩集の中の描写でも、泉の上に太陽は出ているのだけれど、すこし風立っていて、すこし荒っぽく樹の梢がふかれる風がふいていて、雲が飛んでいる。泉の噴水は、いつものようにおのずから溢れてふき上げながらその風で漣立って、水の頂きを風の方向にふきなびかせられている。秋の情緒ですね。美しい寂寥があります。風にふかれつつ光る水の色などに。
 きょうは午後、『朝日新聞』で会がありますが電報でことわって出ません。そんな風に気をつけ、余りよみかきせず、三四日休んだらいいでしょう。ごちゃごちゃして御免なさい。ズーっと力をこめて一定に引かれていた線が、突然ゆれて力がぬけたみたいで、きっとあなたも「甚だ妙」でいらしたでしょう、私だって駭然としたのですから。こういう疲れかたは、おどろきを伴うのよ、特に「あら私目がまわる」と云ってすぐそこでつかまる手がない生活のなかで。この気分おわかりになるでしょうか。そこに手があってそれにつかまれれば、つかまったそのことで、もう疲れのいくらかは癒るのよ。これもお分りになるでしょう? 私の場合は大層な大所高処からの見解で、うっかりつかれたというと、それは通用しないのだから大したものねえ。全く大したものねえ。でも、疲れないようにいくらしたって疲れたとき、私はやっぱりそれをあなたに向って表現するしかないでしょう? それが自然なのもお分りになるでしょう? 国府津のことはもう考えていませんから。グラグラしたはずみにそんな気持になったのです。
 お客のこともわか
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