んなことも思います。人間にも鳥のように、声で唱うしか表現の出来ないような情感もある、と。その声を大抵は胸の中にたたんで暮すのね。人間の胸がもしもアコーディオンであったらどんなに色様々の音を発することでしょう。人間の芸術に音楽があるわけですね。うたう心というものは面白いものですね。うたわんと欲する心も美しい。前奏のメロディーが委曲をつくしてリズムがたかまり、将にデュエットがうたわれようとするときの光彩にあふれた美しさ。全く陸離たる麗やかさ。光漲るなかに何と大きい精神の慰安が在ることでしょう。そういう美しさは涙を浮ばせるものであって、その涙のなかにこころを洗う新しく鮮やかなものがこもっていて。「ああわれは竪琴」という短い詩があります。絃をはられた竪琴が、ああわれは竪琴と、やさしくつよくかき鳴らされることを希っているソネットです。このソネットは目の中に見入り、膝の上に手をおいて、ゆるやかなふしでうたわれるうたですね。一年のうちに一月はユリの詩の月ですから、どうしたって。では、どうぞかぜをおひきにならないように。

 一月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(北京・牌楼の写真絵はがき)〕

 一九四〇・一・一四。栄さんのおくりものの手袋をお送りいたします。このエハガキもおくりものです、徳さんの。いろいろのがあります、涼しそうなのは夏に、ね。あしたは朝玉子をあげにゆきます。それから夕方は、小樽のおばあさんとてっちゃんのところ。でも、急に天気が変ったからどうなりますか、雪でもふればおやめでしょうが。私は雪見に出かけますが。雪は何となし家にじっとしていられない心持です。つるさんの本お買えになりましたか? 今仕事の下拵のためにこまかく読んで居ります。

 一月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月十九日  第六信
 きのうは妙な一日でした。何だかそちらが一日じゅう気がかりで、電車にのったりしていて人にもまれながら何か急に気になって。どこか工合がおわるいのではないかしら、そんな風に思いました。けさ、十三日づけのお手紙いただいて、すこし安心したけれども。しかし何しろ十三日ですものね。やっぱりどうしていらっしゃるだろうと思われます。本当にいかが? どんな顔つきしていらっしゃいますか? 熱の工合などは? このお手紙にはそういうことがちっともかかれて居りませんね。即ち、ましでしょうか。どうかそうであるように。
 四日のがお金でしたってね。では十五日の玉子もお金? 玉子でなければいやですのに。四日は、しかし正月の間で品が一層揃わず、そんなことだったのかもしれません。
 御用の方からシャツのことわかりました。すぐ今ほして送ります。地図もわかりました。『朝日年鑑』の新しい分はいかがでしょうか、送りましょう、ね。
 雪も雨もふらないでも、何と何日もかかることでしょう。てっちゃんの手紙、僕は苦笑とあって消されてあるので笑いました。あのひとは、ここに云われているとおり、苦労の時期をまともに生きようとする作家として見る心持や、あなたへの親密さや、そういうものでやっぱりいくらかはあなたに安心をおくることになるだろうという心持で、作品のことなどかいてあげるのね、きっと。
 あの文芸批評について、私の感じたことかいた手紙はもう御覧になったわけでしょう? 大分前ですものね。仲々分らない人が多いということを全く同じに感じました。そのわからなさの範囲のひろさと云ったら! 今年の仕事への祝福をありがとうね。量質ともに粗末でないものを生んでゆきたいと思います。
 それにつれて、いつぞやのお手紙の中にモチーフが豊富になるように云々と云われていたことについて、それがモチーフと云われている味の深さをよろこんでかいたことがあったでしょう? モチーフとテーマということの今日の文学でのありようは風変りです、つるさんの評論集の中に、このモチーフについて志賀が、テーマはあってもモチーフが自分のなかに生れなければかけないというのに対して、横光は芸術のモチーフというものを知らないのね、自分の感覚として持っていないで、世界像を整理しようとする意欲としているのは面白いこと。この二三年はこのモチーフを知らず意欲を知っている連中の仕事師ぶり、生活ときりはなされた題材を平気でまとめてゆく意欲がバッコしているわけです。モチーフというものが、生活と芸術とへの全く積極的な態度なしには生れないというところは面白いし。又自分としては過去の何年かに書いたものの、その点モチーフの的確さの点でいろいろ省るところがあります。又そのことばではなくても、あなたがいろいろ云っていらしたことについて。モチーフのゆたかさは、生活感(芸術家なら当然そこに芸術家としての勘も入っているものとして)の鋭さ深さ、生々しい柔軟さですから、なかなか面白い。テーマが、題材との関係で、積極性を求めて云われたとき、このモチーフにふれて、芸術的分析を十分にして云われなかったことも思い出します。当然のこととしてのみこんでしまっていたと思う。本来的に会得されていたものとして。でも、私一人のことについて考えて見るとテーマとモチーフのことは微妙で、たとえば「小祝の一家」ね、あれなどモチーフがはっきりしている部だけれども、でも、やっぱりもう一層自覚されていたら、もっと作品の上でのふくらみ動き流れるもののたっぷりさがあったと思います。このことは、大変大変面白い点よ。私はモチーフなしにかける作家ではなく生れついているわけですが、テーマのとらえかた、とらえられたテーマの正当性、というか、そんなものへのよりかかりが或ときは生じていたと思う。失敗の部に入る作品は、大体こういうところにその原因があったとも思います。テーマはその骨組みは頭脳的なものでもとらえられるのですから。
 いろいろと目を白黒させないように、などと! ああわかったわ、あなたは、すこしユリがのぼせて目玉クルクルさせて、そういうところ御覧になりたいのでしょう? ところが、これはあにはからんやというところです、決してソワつかないのよ。泰然としてね、それは正月でしたからすこしよふかしもいたしましたけれども、大体は早ねで、本よみも、すてては居りません。いずれ、表を。と云って礼儀ぶかくひき下るのよ、大した奥様ぶりよ。フーンでしょう?
 多賀ちゃんは、年若い仕合わせに、なるたけさしつかえのないところへは一緒に出かけ、変化も多く暮して居ります。大島のよく似合う着物羽織一組買ってやりました。これは知っている人がお払いはいつでも、チビチビで売ってくれるのです。お金で月給やるようなわけ合のものではありませんから。ところが、表は出来たが裏がないのよ。赤い赤絹《もみ》の布がどこにもないのです、織元でひき合わぬ由。三月になって洋裁がはじまったら多賀ちゃんとしての一日の割当が出来ますから、そしたらそんなに一緒にも出ません。
 富ちゃんの年賀電報、そうでしょう? それに、最大の謝意ということ、よくわかります。
「北極飛行」本当にすきです。幸福ということは、どういうことかなどとよく論議されたが、主観と客観の幸福がああいう形で一致し得るということは、何という明るいよろこびでしょうね。多くの世界では、その二つがくいちがっていて、客観的な条件は、その歴史性でとらえてだけ主観的に体得される幸福のよりどころとなり得る関係です。
 小樽のおばあさんをつれて、てっちゃんの家で夕飯をたべていたとき、静岡の大火のことがわかりました。(十五日)何しろあすこは鶴さんの故郷ですからびっくりしていたら、いいあんばいに、六千戸もやけたその外廓で、わずか一二町のところで、三軒ともたすかりましたそうです。よかったこと。今の火事は本当に気の毒です。ものがないもの。そしたら皆おじけづいてね、動産ホケンかけようと云いました。本だって何だって大変です。このラワンの机が今こしらえたら70[#「70」は縦中横]ぐらいですって。二十円そこそこのものでしたが。48.00 だったこのシモン Bed なんか大した財産というので大いに笑いました、鉄成金になった、と云って。十倍として見ろ、なんて云うんですもの! この動産ホケンのことは真面目に考えて居ります、僅の掛金ならやります。
『中公』の書き下し長篇の話、本きまりになりました。顔ぶれはどういうのかその選びかたが分らないみたいです、女では、岡本かの子、私きり。男では石川、丹羽、石上(新しい人です)そのほか。いろんなところから書き下しが出ているが質のちゃんとしたもの、長篇とはかかるものなりというにたるもの、そういうものを出したい由。紙数が制限されてのびのびかけないから、そういう文学上の意義を完了させたい由。四百五十枚ぐらいの由。七八千刷る由。一割二分の由。四五月ごろからかきはじめることになりそうです。それ迄にすっかりいろいろすませて、それに全部かけます。印税をすこしずつつかって兵糧にして。ああと思うのよ、本当にかきたいものを、と思って。しかしよくよく構成をねって私はかきたいこと、書きたい情景、いろいろ出来るだけ活かして見るつもりです。今はまだまだそこに行っていず。手前ですまさなければならないもの一杯だから。これを二月一杯にすませ、三月以後はほかの仕事は大体のばして。三ヵ月びっしりかかってかき上げます。たのしみです。二年に一冊長篇かくことにして、勉強するのもいいと出版部の人とも話しました。マアこれも先のこと。
 東京堂あたりへ行って見ると何とどっさりひどい本が(粗末な装幀で)出ているでしょう。書くものの身になると大安売りの姿で悲しゅうございます。だからしっかりした本が出来たらと思います。文学としてしっかりしていて、本のこしらえとしてもチャンとしたの。
 今にきっと、私の手紙はその小説の誕生についての話で一杯になることでしょうね。先ず、あなたにそこに現れるすべての人物を紹介したいわけですから。
 仕事の配分と時間のこととを考えると、ユリもそうのんべんだらりとしていられないね、とお思いになるでしょう?
 私は、この長篇にかかる前の勉強としてモチーフということについて大いにこねるつもりです、文学上の理論としてというより、作家として自分の内部的なもののありようを見きわめるという意味で。私たちの文学において、このモチーフが気質的なものでもないし、主観的なものでもないし、しかも生活の中で生活されたものから生じるというところ、そこを自分に向ってマザマザとさせたいわけです。鶴さんの本を殆ど終りますが、六芸社の本を出してよみ合わせて様々の感想にうたれます。六芸社の本のなかで、小説的現実と云われていること、描写で追求しなければならないと云われていること、いろいろ又味い直し、この筆者の芸術的感情の本ものであること、しかし歴史の中では、いつも全面を万遍なく云い切れないということなども感じました。作家として、この筆者の芸術性を具体的に示す責任を感じるわけです、いつも感じること乍ら。ではどうぞお元気に。二十三日にね。

 一月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月二十一日  第七信
 本当は仕事しなければいけないのですが。ね、こっちのペンをもっているくせに。御機嫌はいかがでしょう、寒さもこんなに乾くとあらっぽくていやですね。こんな冬にはやっぱり、春のような冬とは思えないでしょうね、きっと。
 ゆうべも、二十三日にはどうなさるかしら、そして自分はどうしようかしらと思いました、夕方からは座談会があって出かけます、花を朝たっぷり買おうと思います、それからそちらへ行って玉子と花とをあげましょうね、そして、どうしようかしら。あなたもそうお考えですか。それとも考えるまでもなく、という条件でしょうか。こちらには、そこがよく分らないのでどうだろうと思うのです。無理をおさせしてはわるいし、いやだから、玉子にして置こうかとも思い、或は、とも思い。でもあなたのことだから妙な義理立てはなさりますまいから、という結論に達しているわけです。それでい
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