めいたものをよみ直しましたが、これは今日の目で見るとどこか下手です。本質に間違いはないが、整理が下手にされているし、その整理の下手さは何かしら、客観性の不足が私としては感じられ、あの節出なくて惜しくもないという気がしました。
この位長いものとして初めて書いて企画がはっきりしなかったのね、きっと。『文芸』の仕事は、そういう点では随分ためになっているとびっくりします。マアこんなお習字があったから『文芸』の方のも行けたのかもしれないけれども。今月のうちに、五十―一〇〇かくのですが、不可能でもなさそうです。こんどは一つよく整理して、一目瞭然しかも文学の正しい詩に貫かれたものをかきましょう。章をよく分けて。
今どんなにしていらっしゃるのだろう。ふところ手して、何かよんでいらっしゃるかしら。それとも横になっていらっしゃるかしら。多賀ちゃんとの二人ぐらしで、私のくらしもいろいろ微妙にディテールが変化いたします。なるたけ外出のときは一緒にゆきますしね。それから第一のちがうことは、一日のうちに何かにつけて、顕兄さん、顕治さんということが出てね。ごく自然に。わたしはすこしふざけて、自分だけの心持をこめて、「ひどい風! 御亭主さんどうしているんだろうね」などとも申します。これまで、こんな相手はなかったから。寿江子とは又ちがって。そしてね、これは又一層たべられたさをも誘うわけです。何かすこし家庭らしいのですもの。女中さん相手にばかりくらしていたのとくらべれば。それに多賀ちゃんはなかなか頭が早くて、私が林町に暮せない雰囲気やいろいろもうすっかり理解していますし。面白いでしょう? 私は今のうちの空気、大変味って居ります。何処かに私のしこりをほぐすものがあります。しこりがほぐれて、こまかいいろいろの腱だの筋だのがわかって来るような生活の感情は、やはり面白いし、ああこっていたと今にして思うところもあってね。多賀ちゃんでさえこう感じる、そのことを追って思ってゆけば、私がどんな情景を描くか不要多言で、その心も亦、大変きめのこまかい明暗にとんだものです。すっかりお分りになるでしょう? 私は自分のそういう明暗が、はっきりあなたの中にもてりかえしていて、わかっていると感じているのだから。面白いわねえ。どこもしこらしていないで、四通八達で、深く深くふれてゆくそういう達人になりたいこと、仕事の上で。生活の上で。実に腰のきまった、ね。私はまだ本気になると堅くなるところがあって、そして、この四通八達はリアリズムの極致なのだから面白い。主観的なおさまりでないところが興味があります、そして無私であって。
又「北極飛行」になりますが、あれをよんで、人間を育てるものは何かと考え、何か激しく求めて喘ぐような感情を経験しました。あの筆者は、自分がどんな新しいものとして生きているか、きっと私たちがその姿を見て呻《うめ》くように感じる程分ってはいないでしょう。人間の成長はそういう風だからおそろしいと思います。ああいうものをよむと、私は七度でも生れかわりたいと感じました。あすこへ文化が育つまで、世代から世代と生れかわって辿りついて、その光の中に出て見たい、そういう気が切実でした。これまで一度の生涯というものへの愛惜は随分つよく感じて生きて来ているけれど、七度もと思ったのは初めて。益※[#二の字点、1−2−22]業がつよくなったのよ、ばけるようになったのね。そちらはいかが?
私はこれまで自分はお化けになれないと思っていたけれどもこの分ではやや有望です。
ふと思いついてひとり笑えます。だって、私は義務読書の中で、一度もこんなばけたい話まではしなかったから。ニヤリとなさるだろうと思って。でも、それは私の具象性でしかたがないのでしょう、見たもの、ここにあるもの、見たところで今日あるもの、その三つの点が生々しく関係しあって、そこの街の匂いとともに顔をうって来るのだから、どうもこたえるわけです。「広場」の後篇なのですものね。
お化けなんて可笑しいけれども、先《せん》、盲腸をきったとき、手紙のこと一寸申上げたでしょう、覚えていらっしゃるかしら。「役に立たなくてよかったね」と云っていらした手紙のこと。よく云うでしょう? 自分のごく親愛なものが死ぬとき、そのひとのところへ現れるって。父さえ私のところへはあらわれなかったから、自分のような性質のものは、やっぱりきっとあっさりしちまって迚も挨拶なんかしないだろうし、おばけにもなれそうがない、と思ったのでした。可笑しいでしょう、そして、それは残念だから手紙かいてちゃんと用心していたのだから。ちゃんと化けられる自信がつくまで、手紙はすてられないわ。これは本当よ。
あなたの方の御様子が分らないので、こんな半分のんきそうな(本当はそうではないのだけれど)ことかいていて、どんな御気分のところへ着くのかしらなどとも思います。ああ、でもいずれにせよ、秋風よこころあらば、なのだから同じことですけれども。
寿夫さんから手紙来。おたよりを頂いたと。体がよくないのだそうです。どうしたのか。のみすぎでしょう。年賀のあいさつに、お酒をやめろというと野暮のようだが、体は正直な生きものだから、と書いてやりました。
林町の連中は皆丈夫。多賀ちゃんも幸《さいわい》、風邪もひきません。これは何より。私のはまだ、何度も鼻をかみます。今夜どうしても出かけなければならないのに、こんな風でいやだこと。乾いて、こう風がふいて。東京の一番わるいところですね。
一月も、もうじき二十三日ね。火曜日ね。満月は二十五日。大変くわしいでしょう、当用日記にはこういうこともあります。二十三日までに玉子何箇になるでしょう。
呉々かぜをおひきにならないように。あなたは何日がお書き初めでしたかしら。
一月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月十三日 第五信
けさ書き初めをいただきました。(六日づけ)ありがとう。風邪をお引きになったのでもなかったのね。そのことを主に心配していたので安心しました。
私のかぜは随分グズグズでしたが、それが今年の風邪の特色らしくて、やっと昨今大体全快になりました。私は、体の条件で、すこしわるい機会に引くとそのかぜは迚も永くつづくのです、もう大丈夫故どうぞ御安心下さい。多賀ちゃんも元気です。島田の方も御元気。達ちゃんと同じ石津隊のひとが(同日に出た人)先日かえりました由。そして三月ごろはかえれるというそうです。段々そんなこんなでお母さんの御希望も具体性が加って来て、さぞおうれしいでしょう。私は本当に達ちゃんの顔を見たら安心します。そして、私たちは仕合わせであったと思います。隆ちゃんはどこか南の方でしょうか、今、日本の九月十月の気候のところにいるそうです。さむいのは可哀そうですが、それはマアいいこと。ハガキで例の如くわかるのはそれだけです、それから丈夫でいる、ということと。お嫁さんのことその他、おっしゃるとおりね。こちらで人が見つけられないのですから。勿論私は直接何とも云えないから、ただあなたにお話しするわけなのですが。全くとびはなれたところからでは、生活の習慣がちがったりして、双方それに適応出来ず、ね。やっぱりお母さんのお気にも叶うことが大切な条件ですし。岩本の小母さんという方は、お母さんより遙か常識家で、お母さんのそういう面に拍車を加える作用をしているので、いろいろになるような様子です。最小抵抗線でのもの事のおっつけ方は、ここが参謀らしく何となく悲喜劇ですね。岩本の小母さんという方は、現在の御自分の暮しに大変満足していらっしゃり、息子の小学教員の云うことを唯一の真理と思っていられるので、息子殿の口うつしでお母さんにもペチャペチャの由。でもマア話対手として御退屈まぎらしにはいいでしょうけれど。永い間にそういうものの作用が、お母さんの聰明さを曇らしはしまいかといくらかは気がかりです。今のところ、しかし私たちには現実的に別のプランというものもないのですし、お嫁のことも。
栄さんたちのプレゼントのこと。それはいいでしょう。きっとよろこんで「じゃそうしましょう」というでしょう。丸善へでも行って見ましょう。きれたのを、でもとりすてになすっては駄目よ。又ちゃんとつくろって、大事大事にとっておいてつかわなければなりませんから。純毛は大人用は本年はないでしょうね、折角のおくりものでも。
ユリのエッチラオッチラは本年も勿論つづけて居ります。五冊をのりこしたら、フーと大息をつくと思います。目に見えぬ土台というのは適切な表現です。本当にそれは目に見えぬ土台ね。年が経ってからききめがなるほどと感じられるような味がわかります。一昨年中によんだ何冊かのものについてもやはり同じことを感じます。或本をよんで、一旦はもう忘れたようになっていて、しかしどこかに蓄積されている。作品をよんでもそうです。但、私にはまだその底をつくてい[#「てい」に傍点]の理解が不足しているから、その肌身についての身につきかたが、例えば「北極飛行」などとは雲泥の差です。そこは遺憾ね。しかし追々読書力もひろく深く高くなって、消化しきれるようになるでしょう。実際わかるということのうちに、何といくつもの段階があることでしょうね。その段階の多さがやっとこの頃になってわかったようなところもあります。
小説のこと。今のところ、この前の手紙にもかきましたように、本月一杯に今日の文学を歴史的に見たもの百枚以内書いて、来月は「三月の第三日曜」をかいて、それから『文学者』へ何か短いものを書いて、それから『中公』の書き下し長篇へとりかかります。この長篇の話はきまったばかりで、まだこまかい話はきいていず。しかし確定はして居ります。うれしいから一生懸命かくつもりです。それにかかる前に『文芸』のつづきのもの、もう四五回分書いてしまおうと思います。そして長いものをかきはじめたら、余り他に気を散らさず書きます。私はどこへも行けないから、うちの条件をよくして。『文芸』の方のは『改造』から出るでしょう。ついでに「伸子」文庫にしないかきいて見るつもりです、性質から云えばそうしていい本ですから。
あれやこれやで、多賀ちゃんは、野原へ、となりの桶屋さんの娘でこの三月青年学校を出る娘をこちらによこさないか、手紙をかいてくれました。きっと多賀ちゃんがいれば来るでしょう。どうも見込みがありそうです。そうすれば大助りね。私はやはり、何でもたのんでして貰える人がいないと困ります。多賀ちゃんがいれば、一人ぼっちの感じはないからその位若い娘(十六七?)でも大丈夫ですから。三月から多賀ちゃんの仕事も始りますから。もし実現したらいいこと。その娘は三年ぐらいはずっといるつもりですって。多賀ちゃんだって今年一杯はいそうです。洋裁が三月から十月まで。それから一ヵ月ぐらい帽子のことを習ってね。十一月でしょう? そしたら年の暮は野原でということがせいぜいでしょうから。こちらの生活に入りこんで見ていて多賀ちゃんには随分いろいろのことがわかったようです。私が田舎で暮すのは不便ということの意味もわかったようです、ただ水道、ガスの問題ではなく。
四日のはまだですって? もう、お正月用封筒の手紙はついているわけですね。でも、お正月になってかいたのはまだ? 寄植でぼつぼつ咲いているのは何? 福寿草でしょうか、梅はないでしょう?
梅と云えば、今年は一つ楽しみが出来ました。それはね、あのエハガキをお目にかけた六義園ね、あすこの梅見に出かけようと思って。私の好きな好きな紅梅も、一本ぐらいはどこかにありそうで。いつも桜や桃を見たいと思うのですが、そんな場所へわざわざ出かけてゆく折がなくて。六義園なら何のことはないし。
詩の話も愛読して下すってありがとう。なかなか味いつきぬ趣がありますでしょう。お互に一つ本をよんでいるわけですが、やはり又それについての話も伺いたいのは面白い心持ね。話しかたというものに独特な味いがあります、それからそれを話す様子にも。その情景にも。そしてね、こ
前へ
次へ
全59ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング