これからはお母さんをお呼び出しして一緒に旅行するのが一番いい方法ということになりそうです。その方が周囲も気が楽でね。私たちは予定どおり十二日に立って十三日の午後東京へつきます。エーテル・マーニンというひとのこと、その婦人作家のこと月報ですか? 東京堂の。あの海鳥何とかいうところ? 何か微苦笑的対比があったの? 私はちっとも存じませんでした。イギリスの※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ージニア・ウルフだって小説のほか評論・感想いろいろ書いて居ります。外国のちゃんとした作家の活動の圏は皆その位です。マーニン女史のみならず。「街から風車場へ」は大学先生の甘さね、あの調子。実際、あの甘さは彼の白足袋とちょいと下げている合切袋趣味から出て居るものです、オウドゥウはああではないのですものね。おや多賀ちゃんがかえって来た、困った、富士もサクラもないらしい。今夕わかりますが。では又ね、呉々お大切に。

 六月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 六月十日  島田第三信
 きのうはお墓詣りに出かけず、けさ早くおきてひる前三人で出かけました。お墓は元の畑の中の場所から引越してずっとうしろの山の方です。家を出て裏の畑へ出て、新しく出来ている六間通りを一寸行って右へお社へのぼります。お社のところよく覚えていらっしゃるでしょう? あの右手の山々にずっとクラブや官舎が出来かかっているのです。お社は昔のとおりです。多賀ちゃん曰ク「東京で考えていたよりずっと奇麗さがへっちょるようだ。」お鈴を鳴らしてなかをのぞいたら、「宮本捨吉明治三十年奉納」の豊公幼時の胆と矢矧《やはぎ》の橋の上の小六の槍の石づきをとらえている小さいごろつきのような豊公の絵があって大笑いしました。それも覚えていらっしゃる? お社のお祭のときはあの石の段々に蝋燭の火をずっとつけつらねるのですってね、それは小学校の女の子の役だったのだってね。
 お宮の裏に小松と山帰来とひうちごろの生えた砂山がありますでしょう? あすこはまるで小公園ね。すっかり水無瀬島から下松から室積が展望されますね、ああ気持がいい、いい気持、と私はよろこびました、松の梢がぎっしり古い松ぼっくりをつけていて、若々しく青い松ぼっくりも出来ていて、古い松ぼっくりはおじいさん、若い松ぼっくりは少年という風情です、あの山のいろんな茂みの間を、カスリの着物を着た男の子のあなたが遊びまわる様子を描きました。
 それから、もっと大きくなっても、きっとあすこへはおのぼりになったのでしょうね、松の蔭にねころがったでしょう? そしてそのような時代になっての心は又それらしく、ね。
 私は様々にそんなことを考えながら心持よく風にふかれ、段々奥へ入って行って、あの山からぐるりとまわって(左へ)あたり前の山中らしくぜんまいなど生えた径をぬけるとお墓がありました。そこへあのれんげ草のなかの一かたまりが移ったのです、うちのは、あのまま元の白い砂迄ちゃんとしいてありました。もって行ったお水をかけ花をさしお線香を立てお辞儀しました。ここも元は竹やぶだったところの由。よく日の当るところです。山懐ではあるけれど。こう書くと大体の見当がおわかりになるでしょうか。それから又同じところへ出て来て暫く砂の上に腰をおろして休みました。そして私は笑うの、上機嫌で。「たまの休暇としてくつろぐがよい、と云っておよこしになったが、まアこれでくつろいだということかね」と。本当に笑ってしまったのよ、あなたのたまの休暇には。考えてみれば、あなたは休暇におかえりになったことしかないのですものね。全権委任大使での出張とは、休暇と何という相異でしょう!
 けさのこの小散歩でやっと田舎に来たらしい気になりました。多賀子はこれから広島へゆきます、例のお話していたたか子の友達ね、あのひとにあって、大体の意中をきくために。ついでにみやげのレモンを買い、東京迄の寝台券を買うために。十三日の寝台で十四日朝ついて、すぐそちらに行くしかないことになりましたから。サクラ、富士、どっちも駄目ですから。東京からの汽車はまだいくらかましですが、こちらから東京へは全くひどいこみようです、寝台もあるかしら。これさえあやしいのです。全くお話の外です。
 きょうは疲れも殆どぬけて体も苦しくなく軽くなりました。来る前うんと忙しく途中ひどく、すぐつづけさまで、おまけに私の条件がわるくて、相当でした。でもきょうはもう大丈夫ですけれど。
 あなたはいかが? こちらはなかなか暑うございますが。若い二人も今夜はかえって来ます。昼日中二人でよう歩かんから夜かえるのですって。そうねえ、一本道でヤレソレとのぞくんですものね。
 十三日に立ち十四日朝おめにかかります。いろいろの用事、不便をなさいませんでしたか? こちらからの手紙これがおしまいよ、きっと島田へかえると又バタバタですから。ではお元気で。

 六月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 六月十一日  島田第四信
 寿江子から手紙で、お元気らしいというから安心いたしました。森長さんの方へ届けた書類のことも運びました由。単衣のことわからなくて又セルを入れたそうです。御免なさい。もう二日の辛棒よ。
 習俗というものは実に妙ですね。たとえば男のひとで一人前の活動をしている者なら、法事や婚礼の式がすめばその夜でも立ってゆくことに誰も不思議を感じません。ところが女だと、それ以上に忙しくても、すぐその式の後、立ってかえるなどということは、何か其事に不満でも持っているのかという風に考えて、忙しさとして決してうけとれないのね。実にこれは習俗の力だと思います。てんで忙しいということの実感がないんだもの。だから口実と思う。何て可笑しく又困ったことでしょう。
 私はきのう午後野原からかえりました。お母さん、達ちゃんが二年出征していたのに野原は只一度も慰問袋を送らなかったというお話でした、忘れかねておっしゃるお気持よくわかります、そういう場合のことですからね、何しろ。私たちが野原にいろんなことをしてやったって何にも心にこたえてはいないと仰云います、そうらしいところを今度も感じましたが、多賀子にしろ一人で身を立てることが出来る条件だけをつけてやればそれから後は自分の心がけ次第ですから、それでいいと思うの。島田の手つだいをさせられて云々というようなことがいつ迄もあってはいけませんものね。私はそこまでしたらもういいと思っている次第です。野原は或意味で心の持ちかたで底なしよ。その点、実によくない習慣です。気持にちっともしゃんとした自前のところがなくて、外の力を何とかつかうこと、それによって動くことしか考えていず、それは善意の場合でも依頼心のつよさとなって今度のように現れ、さもないときは利用するということになるのです。そういうことについて一家のカンが欠けている。お家の風のようになっている。だから頭の早い動き、というのもその間のことをクルクルと思い当るという程度になってしまってね。冨美子がましな娘であったらば、と思います。いずれにせよ、この二つの家の激しくいがみ合いつつ切れもせずというくされ縁に対して私は絶対中立ですが。
 多賀子を来年の四月頃まで世話して、この夏休みフミ子を遊ばしてやって、それで私の役目はもう十分に終ります。というようなおはなし。
    ――○――
 こちらでも切符で肥料を配給するようになってなかなか新しい事務が殖えて居ります。切符を役場へもってゆかなければなりませんし。若い二人は昨夜十一時頃旅行からかえりました。宿に電話しておいてよかった、以前とはまるでちがった人のこみかただったと達ちゃん大満足でした。花嫁も大分なれて達ちゃんにも口をきくようになりました、人の前で。今、お母さんと、肥料の切符の整理をして居ります、それをうちの帖面にひかえておいて届けるのです。いろんなそんな事務がふえて、この頃のは商売ではなくて事務だということになって来ているのがよく分ります。
 私はサッカレの「虚栄の市」をポチポチよんで第四巻までの終り。一八一二年ナポレオンの退散前後のことをかいていて、トルストイの小説を自然思い合わせ、イギリスのリアリズムというものを考えます。この「ヴァニティ・フェア」は面白い、極めてイギリスらしい小説です。こんなイギリスらしい小説の世界というものは二十世紀の初頭以後はなくなっていますね。サッカレの諷刺とゴーゴリの諷刺との性質の相異も感じます。サッカレのは諷刺においてもイギリス風よ。バーナード・ショウのつよい常識が偏見に対して一つの諷刺として存在しているように当時の英国新興ブルジョア気質、貴族崇拝に対して、サッカレの明るい眼と平静な心が、現実のものを見ていて、それが諷刺となっているというわけに思えます。
 常識というものがイギリスでは偏見に対して諷刺となり、日本の寛さんは、ショウの弟子のようなところから全く質の異った常識に立って通俗小説に行くところ(いつぞや歴史への態度でもふれましたけれど)面白いことね。老セドレとアミーリヤという娘が、株で失敗して苦しい生涯を送っていると、兄息子が印度で大した身分と金とをこさえて来て、それをひろい上げるというところもいかにもあの頃のイギリス気質ですね。ディケンズはいつも慈悲ぶかい紳士貴族を出して救いの神としたし、サッカレはもう一歩進取的で印度の役人にしてちゃんと救いの神の役を演じさせる。こういうところもいかにも面白く思います。日本の小説でこういう慈悲の神はいつも、人情としてしか登場していないことも実に意味ふこうございますね。例えば台湾で大した成功をしている長兄が云々という通俗小説の展開は余りない、人情の背景としての地理的空間は皆無であるか、或はまことに狭くて同じ国というようなところ全く面白い。日本文学の抒情性ということはこんなところにさえひっかかりをもっていて。
 きょうはよむ本が種切れなのよ、可哀想でしょう? そういうときのあなたが、お気の毒であるのと余り大きいちがいはない位可哀想でしょう?
 午後多賀子が広島からかえります、寝台券買えたかしら、あやしいものね。お母さんのおみやげに、到って世帯じみたものを頂きます、ちり紙その他。そして炭も少々送って頂きます。こちらでもお米の在りだかを毎日ききにまわってしらべて居ります。東京も一時そうでしたが。岩波文庫の広告見ていると、ディドロの「ラモーの甥」が本田喜代治訳で出ましたね、この有名な古典はどんなものでしょうね。十四日迄にあと三日ね。明後日の朝こちらを立ちます。一日のびるわけはおめにかかりまして。

 六月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 六月十二日  島田第五信
 睡い夏の午後という文句がありますけれど、本当にマア何と睡いのでしょうね。この眠さ。頭のしんがしびれるよう。余り眠いからこの手紙をかき出します。
 今、この暑いのにお母さんは徳山です。達ちゃんたちのお祝を林町から貰って是非何か何かと気をおもみになるから、ではお盆を頂いてかえりましょうと云ったら、それを買いにお出かけになりました。あしたは是非どこかまで友子さんをつれて送ると仰云るので、柳井ではとまらないし広島は遠すぎるし、さっき達ちゃんと相談して宮島までではいらっしゃって頂こうということにしました。大きい嫁、小さい嫁、両手に花(!)の思いをなさりたいのだろうと思ってなるたけ程いいところと一思案したところです。
 宮島をこしらえたのは平清盛ですが、神様は女の守神で、やきもちやきで、すきなひととは行かないところの由。だからお母さんと友ちゃんとならいいわけね。でも女の守神のくせにやきもちやきとは何と飛んだ神様でしょう。女の守りならやきもちをやかない方でよかりそうなのに、もしかしたら御亭主の浮気を割いてやるというわけでなのかしら。
 友子さんはいい子で達ちゃんも御満悦、私も同様ですけれど、今も一寸あっちの話が出て、ロッキー山脈御存じでございますか、あすこの方でロスアンジェルスには日
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