ゃん、私、山崎の小父さま、一つ車にのって、高森というところの佐伯屋という料理屋へゆきました。そこへ行ってから又一しきりいろいろの打ち合わせで、式がはじまったのは六時頃でした。達ちゃん、黒い紋服袴でなかなかよく似合いました。二階の座敷二つぶちぬいたところへ先ずこちらの一統が並んで着席。すると、控間から父親代りの人がトップを切ってお母さんお嫁さん(裾模様、つのかくし)の手をかいぞえの髪結がとってしずしずとあらわれて、向い側に着席。仲人の挨拶があって「これはお嫁さんからのお土産でございます」と大ふくさをかけたものをもち出しました。こちらでは徳山の岩本の主人がモーニング姿で出て、目録をあけて見て、又しまって、四角四面なあいさつをします。何だか私はへーんな気になって、この美しくて儀式ばっていて、しかも野蛮なようなことがらを眺めました。お嫁さんの方だけお土産というものをもって、そして来るのですものね。それからお盃があって、それがすんで座を改めてお祝いの席に代る間写真をとりましたが、達ちゃんは流汗淋漓です、私も。坐っているのが苦しくて。殆ど気がボーッとなる位です、達ちゃんポロポロ汗を流し(足のいたいのをこらえるため)眼をキラキラさせて(これはうれしさもあり)皆にあおいで貰っています。そこへ、私のところへ御面会になりたいという方が制服でモールつきで御来訪。敬意を表されたのだそうです。御婚礼の場所へまでわざわざ御苦労様とよく申しました。常識ではないことですからね。(下関、徳山間海港警備という新しいシステムが出来たのですって、本年から。万端の様子がそのために従前とはまるでちがいます)
それからこんどはお仲人の河村夫妻、写真屋さん夫妻が正座になおり、新郎新婦はそれぞれの親族の末席に坐ってお膳が出ました。この御仲人は二組の内輪のもので、並んで坐って、うちわの話みたいなことしていて、ちっとも双方の親族の間に話を仲介することなどしらないのです。河村の主人、袴を膝の下に敷きこんで坐ってだまってのんでたべて、おかみさんがスーとすましてわきからその袴をちょいとひっぱると、あわてて膝の下から大切の袴をひき出して坐り直すという好風景です。お母さんというひとの武骨な指にダイアモンドが輝いています。お盃を女中がとりもってあっちこっちへ儀礼的にうけわたしするだけ。ちっとも話をしないの。互の親族は。これは大変奇妙でした。その間にお嫁さんは立って黒の裾模様を訪問着にかえ、すこし坐っていて又立って、こんどは友禅のものにかえ、又すこし立って別の着物にかえ、そしてこちらの親族の一人一人に「不束《ふつつか》な者でございますが何卒《なにとぞ》よろしく」と挨拶してはお盃を出します。お酌をするの。(私はこれを達ちゃんの出征のときやったのよ)
お嫁さんは本当に達ちゃんには立派すぎる位です。田舎者などと云うけれど(島田では大変町方と思っているのです、自分の方を!)それどころか悧溌そうなふっくりと初々しい可愛いはっきりした娘さんです。十時すぎ一つの車にお母さんと若夫婦、かみゆい、次の車の私、河村夫妻、富ちゃんとのってかえりました。近所の人が見物に出ている。井村さん、岩本さん、徳山ゆきの十時五十何分かにのりおくれて次は二時二十五分とかで、店へ一寸ふとんをかけてごろねをし、私たちはお茶づけをたべ、たっちゃんたちは二階へ彼等の巣をかまえました。
が、巣と云っても、本当にこういう形式のお嫁とりは気の毒ね。私何だか可哀そうで、二人きりにしてやりたくて五日の日に「二人を一寸旅行に出してやったらどうかしら」と云ったの、そしたら、私がおなじみになるように「一度そんな話があったのだけれど未定ということにした」というので「そんなこと全く意味ないから是非やりましょう」と電話かけて、宿屋の交渉してやって、湯野という温泉へお里がえりからまっすぐ出かけることになりました。
七日にはお嫁さんは丸髷にゆって、又お式のときの衣類をすっかりつけて、お母さんもその通りで、組合[自注2]の家々を挨拶してまわりました。
八日に十時から、こんどはあたり前の髪と訪問着とでお里へ夫婦、母上とで出かけ、十二時何分かで戸田《へた》まで立った由です。
まあどんなに吻《ほ》っとしたでしょう、ねえ。六日の夜お式からかえって来て、達ちゃんが二階へゆくのに、はずみがなくてバツがわるいだろうと思って、「さあ、これをもって行っておやり」と私たちのおくりものの真珠の指環をもたせてあげてやりました。丁度薬指にはまりましたって、太い方のを買って、どうかしらと心配していたのによかったと思います、中指に入らず薬指だというのも可愛い。そんなにむっちりした娘さんなの。大体大変可愛いひとです、達ちゃんより頭脳は緻密です。何しろ女学校の優等生ですから。いかにもそれらしい字をかきます、お父さんはワイオミング州にいるのですって。でもやっぱり何を商売にしているのかは不明です。お式のとき私がお母さんに挨拶して「あちらは、何をおやりです。木材か何かですか」ときいたらお母さん「さア何と申しましょう」と云うきりなの。これもなかなか面白いでしょう? この辺ではアメリカへ行っていると云えば金を儲けるために行っている、でもう何もきかないで、安心しているのですって。だから私もきかないことにしました。何をしていたっていいのに、どうしておかみさんも云わず仲人も知らずで、それですんでいるか実に愉快です。姉と妹と弟で、弟は中学を出てやはり父の方へ行った由。
昨夜は大笑いよ、皆二人ずつでくつろいでいると、お母さん、岩本の小母上(これは島田の家)、私と多賀ちゃん(これは野原組)、あちらの若夫婦。やっとめいめい吻っとしているのでしょう。私はきょうはやっといつもの皮膚になりました。お式のときの着物、真新しいのが帯の下すっかりちぢんでしまった。何しろ大したお辞儀の数ですから。これでもまだ簡略の由です。あたり前だと次の日即ち七日にひるは女客、夜は男客で、ごったかえすのだそうですから。
きょうあたりはきっとお母さん何となしおねむいでしょう、さぞつかれが出たでしょう、何しろ話がきまってから十二日間というスピード婚礼ですから。お嫁さんはもう家へ来たひとという心持でいることがよくわかります。決してどうかしらとは思っていないわ。お里のお母さんには、私たちのお土産としていいパナマのハンドバッグをおくりました。
お嫁さんにその兄夫婦からおくりものをするというようなことは例のないことなのですって。ですから大変およろこびです、かいぞえの髪結さんは、これ迄何百のお嫁さんをお世話したが云々と、盛《さかん》にここの花嫁の幸運を讚えて居りました。二人とも互が気に入っているらしいから何よりです。お里がえりに出かけるとき、達ちゃんのお仕度がかりは私でね、いいネクタイもって行ってやって、林町の銀のバックルとともに大いに光彩を添えました。コードバンの靴にスフ入りの背広で、万年筆はチョッキの胸ポケットへさすものと初めて会得して、颯爽《さっそう》と出発いたしました。
この分はこれで終り、つづけてもう一つかきます。
[#ここから2字下げ]
[自注2]組合――隣組のような町内の組合。
[#ここで字下げ終わり]
六月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月九日 島田からの第二信
さて、又つづきを。
島田宛の三日づけのお手紙ありがとう、案外に早く五日ごろ頂きました。
あなたが達ちゃん宛におかきになった速達を、着いたらすぐ読ませて頂きました。本当に懇ろにいろいろおっしゃってあり、達ちゃんも様々に考えましたろう。夫妻ということについてあのひとはいろいろ、あちらにいる間も考えて来たようです。どういうことが夫婦として最大の不幸と不安であるかということも沁々とわかってかえったらしい風です。周囲で、その不安が非常に語られて居り、現実のこととしても多くあったらしく。
きっとちゃんとやってゆくでしょう、ちゃんとしたそして十分愛らしい娘さんですから。お酒のことだって、本当よ。でもあなた迄それを仰云るのは、きっと多賀ちゃんお前が喋ったからだろうって、お母さんお叱りになった由。面白いわねえ、私たちには何とどっさりのことがかくされて体裁をつくろわれて在ることでしょう、そのこと考えると、可笑《おか》しいやら妙なやら。健康のこと、結婚話がきまってから証明書のようなものを貰ったそうです、お母さんのお話。見たところも日やけ酒やけしているが、達ちゃんごく丈夫そうですからいいでしょう。
昨夜は富ちゃんとすっかり話してね。ここの家へ来て座敷へ通ったら紫檀の卓の上に、まるで七八十歳の爺さんでもいじりそうな、ろくでもない小さい茶道具がずらりと並べてあってね、私は何とも云えず物哀れを感じました。だって、昼間は土まびれで火薬だ土方だと、巻ゲートルで働いていて、うちへかえれば母と小さい妹とだけで、そしてこんな古道具屋のまねみたいなことしているのかと思ったら本当に哀れになってしまった。富ちゃんの気持もずっと二半でいたらしいのです、この頃は。
でも、この家の人たちの気分というものもなかなか一つあります。何というのかしら、小父さんがずっとああいう生活で、まともな道を日々ちゃんちゃんと踏んで生活して来ていないから、こういうことに対する一同の態度も、どこやら自主的にテキパキしないで、一つの力が常に家庭に欠けている。モティーブのはっきりしない日々なのね。だから小母さんなんか富ちゃんに対して、ハラハラハラハラしながら口では二言めには、きもやき息子と云って、しかも息子にこきつかわれていらっしゃる。いろいろの家の風は複雑ですね。本当にそう思う。
島田の家では、子供でも出来たら、子供が集注した注意で学校の勉強の出来るような場所と空気をつくってやることが必須ですし、あすこで勉強ずきの子供なんか出来っこないもの、床《ゆか》が絶えずゆすれるような落付かなさで。友子さんは今のところそういうガサガサバタバタではないし、おそらくそうはならないでしょうが。島田の方は又モティーヴが素朴単純にハッキリしすぎている――曰ク儲けにゃならぬ。このモティーヴもなかなか苛烈に人間を追いたくって居りますからね。その根の深く広いこと、実に実におどろくばかりですから。
しかし島田の商売はなかなかむずかしいようです。十ヵ村の肥料配給の元しめになったはいいが、あちこちから送りつける肥料の為替は皆島田の家で、一応切っておかねばならず、その嵩が常に何百円という嵩で猶加入している肥料店が、申込んで配給させた肥料を受けとるとか、受けとらないとかいうことも云えるらしいのですね、これは大したリスクなわけで、きのうも、どこそこがこの干天で何々という肥料は出まいから、受けないと云って来たと云ってカンカンでした。すると、その売れない肥料何百円――五百何十円か――はうちの負担になる由。マア何とかそこは又捌けるのでしょうが、この為替切りには大分お母さんフーフーです。御無理ないと思います。まして共同申込をした店がうちに対して受けないと云えるというようなのはいかにも統制のアナーキスティックなところで、意外のようです。
旱天は島田あたりは幾分ましで麦も収穫されましたが、広島のあたりはひどくて、麦が雑草みたいに立っていました。そして、お父さんのおかくれになった年は、裏の田圃であのように鳴いていた蛙が今年は全く鳴きません。丁度同じ季節に来ているのですけれど。それにこの野原の庭石の白く乾いていること! 苔の美しいのがすっかり消えてしまって雑草だけのこっていること。雨がふらなかったら本当に大変ということはよく一目に理解されます。
野原のお墓は山の奥へうつりました。今夕皆でお詣りに出かけようかと云っています。割合遠いらしい様子です。今にここが完成してしまったら、もう、いろいろの意味でおちおち来られもしないところになりそうですね。大体島田もそうです、何時にどこに行く、何日にかえるでは行ったっておちおちしなくて腹立たしい
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