ことすると、これからずっとのことですから。お嫁さんへは御木本から買ってゆきましょうか、指環でも。
 私は本が出る年でよかったとしんから思います。明日おめにかかってこのよろこばしき不意打ちをおきかせいたします。
 私はこれから十五枚ほどのものをかかなければなりません、そして、三日までは残念ながら二十四時間を手前勝手に区切ってつかわなければなりそうもありません、どうぞあしからず。
 富ちゃんの方はどうするのでしょう、「きのう家へかえった、あとふみ」という電報が来ました、家へかえったのは一人なのか二人づれなのか。こちらの方のことに関しては、おっしゃるとおりにいたしますからどうぞ御安心下さい。自分の感情でほどをはずれたことはしないつもりですし。又そのような立場でもないし。
 お母さんは全く上気《のぼ》せて眼をキラつかせていらっしゃる様子が文面に溢れて居ります。どっちにしろ多賀ちゃんをつれてゆきます。そういう忙しさで私一人では助手なしでは迚もつかれてしまいますから。多賀子もあれこれで亢奮つづきです、いろいろなことがある年ね、ではこの手紙はおしまい。本当にお大事に。

 五月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月三十日  第三十五信
 ここで一寸一休み。今かの子の「丸の内草話」というのをよんでいるところです。もう電燈がついていますが、窓外はやや曇った夕方の薄明るさ。きょうはここはすいて居てしずかで、時計の音がきこえます。六時五分すぎ。そちらからずっとまわって来て、日比谷で更科をたべてそしてここへかけて居るわけです。
『ダイヤモンド』六月二十一日とおっしゃったわね、外へ出てすぐたかちゃんに電話かけて(私のかえるのは九時ですから)たのんで、フラフラ歩き出したらおやと思って、まアまだ六月になりもしないのに、と笑えました。きっと五月二十一日のを買うでしょう、それで、『チボー家』のつづき三冊速達いたしました。
 雨が今夜降るという予報です、この風はしっ気を帯びていてそんな風です、達ちゃんの御婚礼の日も降るかしら。雨降って地かたまると縁起を祝います、それもあるけれど、水道の水がたっぷりになり苗代が出来るのは一層何よりです。苗代がこしらえられないと、梅雨になったって植つけに困りますものね、山口、岡山、大変な減収です、植えつけたん別も少くなっています。
 私は、六日にお式が終って、八日に里がえりがすんだら二三日野原へとまります。それから島田へかえって帰京いたしましょう。十三日には是非かえっていなければいけませんから、十五日として、ね。十日ほどの留守です。
 今、本から目をはなし(つまらないの)鉄柵越しに見える街路の植込みの草やそとを通る自転車やらを見ていたら風がひいやりとするせいか、何だか一寸東京を離れるのがいやなようです。淋しいというとつよすぎる表現ですが。いつもこれまでこんな気がしたかしら。余り忙しいものだからかしら。どうにもこうにも行かねばならず、でさえこれだから休みになかなか出られないわけですね。三日の朝そちらへ行きましょうね。二日夜どおししても仕事を片づけるつもりですから。たか子と二人故私は安心して居眠りつづきでもかまわないから。
 婦人のためにかいたものの内容は、そういう巻頭的なものといろいろの時評を内容とした随筆と、若い女のひとのためにもなると思うような文学的評論と合わせて五百枚一寸です。題をいろいろ考えていたのですが、『明日への精神』というのはどうでしょう、もっと柔かくとも思ったけれど、これは決して堅いというのではないでしょう? 流動性もあるでしょう、頭を擡《もた》げた味もあるように思いますがどうでしょう、これはさっきそちらのドアの外で、ベンチにかけていて、フイと思い浮んだのです、校正の出る迄に考えようと思っていたものだから。わるくないでしょう? きょうかえったら原稿紙へ書いて見てもう一度見なおしましょう。(あら、となりの女のひとも手紙かいている)小説集は『三月の第四日曜』。内に入るのはそれと、「昔の火事」「おもかげ」「広場」「築地河岸」「鏡の中の月」「夜の若葉」もう一つ。「刻々」という題でかいたのをすこし手を入れて、別の名をつけて。三百枚ばかりです、短篇の方は二千しかすらないのですって。
 もう一つの方は何部するのか。この間その係のひとが赤と紺の縞のネクタイして来て、何だか上っていて、その話しないでかえってしまいました。やっぱり同じぐらいかもしれず。短篇は松山氏にあとのは寿江子がします、私にしろというのだが、それは寿江子の方がいいわ、上手ですから。『昼夜随筆』というのも寿江子がしました。
『文芸』のつづきのは今昭和十―十二です。十二―十四と大体もう一二回で終ります、そしたら自然主義の時代のところをもうすこし直して明治初年(二十年以前)をすこしかきたして、それでまとまります。秋、本に出来ます。これはいつかいただいた題よ、『近代日本の婦人作家』ちゃんとしていていいこと。
 そういえば、私が本のうしろに捺す印を黄楊《つげ》で手紙の字からこしらえて、いつか押しておめにかけたの覚えていらっしゃるでしょうか。あれいいでしょう? 一生つかうように黄楊にしたのです、水晶ではわれますから。一番はじめ父がこしらえてくれた真円の中に百合子と図案風に入れたのはかけて、輪がかけました。
 こんどは野原へ泊りに行ってからでないと手紙かけませんでしょう、だって二階は若御夫婦の巣ですから、下にいるのだから、キャーキャーパタパタシュウシュウ(これはポンプの音よ)ですものね。お風邪めさないように。さ、又はじめます。ここの電燈はすこし暗いこと、夕飯はかえってから。では出かける迄に又。
〔欄外に〕ここにいるとお客のないことだけはたしかで、一安心ね。

 六月二日午後 〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(封書 速達)〕

 六月二日  第三十六信
 きょうはむしあついこと。その上、私は何と上気《のぼ》せていることでしょう! 世間では二兎を追うべからずと申しますが、仕事と、本を見つけることと、旅行の仕度と三兎を追っていて、到頭ネをあげて、『文芸』のつづきはのばしてしまいました。一日図書館が休業であったためにこの始末です。しかし、今夜眠らずそれをかいて、又明夜は汽車の中ですぐ御法事で、その次の夜はどうせ家じゅうそわついているというのよりは、却って今夜どっさり眠るのがよろしいでしょう。『セルパン』のも到頭なげ出しました。でもまアようございます。今印刷屋へ電話をかけて、そのこと云って、一息ついたところ。
 本のこと、実に思うにまかせません、今夜音羽へ行って、よく説明して来ます、明朝は行けないそうですから。富士見町の方は三日午後より七日迄留守の由です。
 私は十三日のうちにかえります、広島を夜中に通る特急にのって、こちらへは十三日の午後につくことになりましょう。
 きょうは、四日迄に砂糖とマッチの切符を購買組合にやらなければならず、おミヤさんではだめ故、手紙で送る手筈をし。うちは家族三人でマッチは普通の形の一包みです。砂糖は〇・六斤一人|宛《ずつ》で、一斤八です。これは別のところでは通用しない切符です。この紙の六つ切ぐらいのに、卒業証書のように東京市の印が朱で押してあって、面白いものです。こういう種類のクーポンに儀礼の様式がいかにも日本らしいところで。一ヵ月ずつ隣組でくばるのでしょうか。隣組の責任者の用事も尠《すくな》くないわけです。
 私は購買組合ですが、そういうところから物を買っていないところは、例えばふだんとっている三河屋というような店へその切符をやるのです、三河屋がその切符をまとめて、市へかえすのらしい様です。店もそういうクーポンによって配給をうけるのですから。もう島田へお砂糖もお送り出来ません。
 私が立つ迄に、お手紙がつけばいいこと、あやしいかしら。
 寿江子は七日にそちらへ上ります。私はいろいろのコンディションから、きょうは本当にくたびれていること。これからすこし横になりましょう。あした汽車にのりこんで、スーと動き出したら、どんなにヤレヤレといい心持でしょう、さぞさぞ、眠ることでしょうね。となりがたかちゃんで本当に気が楽です、体のうしろへ脚をのばさせても貰えますし。野原へ息ぬきにゆくのもたのしみです、変った町の様子や、お嫁さんの可愛さや、又こまかく申上げます。どうぞおたのしみに。

 六月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡周南町上島田より(封書)〕

 六月九日  島田第一信
 ここは野原の家の座敷の廊下です。気持のいい海辺らしい風が吹いていて、同じ廊下のところにおいてある机で冨美子が宿題をしています。すぐ庭先の鶏舎の朝鮮人の長屋で子供がヤーヤーヤーとないていて、母親が、パアパア何とかとこわいような優しいような声を出して薪をわっています。多賀子はとなりの部屋で虹ヶ浜駅へ特急券をかいにゆく仕度をしていて、富雄さんは昼寝にかえって来ているところ。
 ゆうべは初めてゆっくりたくさん眠って、きょうは何と久々にいい心持でしょう。ずっとお元気? 手紙いつ来るのかと思っていらっしゃるでしょうね。
 さて、三日に立って四日朝着いたら、駅に達ちゃんが出迎えていました。すっかり肩や胸に厚みが出て丈夫そうに艷々《つやつや》した五分苅ボーイです、背はあなたとおつかつよ。家へついて見たらもう御法事の仕度でごったかえっています。台所じゅういろいろのものを並べて。十一時からお式が始り。山崎の小父さん、富ちゃんなど、野原の小母さんも見えました。お祖母さまの十七年忌も一緒でしたのね。光井のお寺の、顎を上へつきあげたような顔をしている坊さんが、小坊主をつれて来てお経をよみました。この坊さんはこの間気がふれたのですって。畑で蛇をつかまえてそこにいるお百姓に、これを食えと云ったが、どうもそういうものはと辞退したら、そんなら俺が食うと云ってくってしまったのだって。光井の家へ来てどなって叫んだそうです(何と叫んだかは知らず)。その人がケロリとして(癒ったのですって)お経をあげました。
 それからおきまりのお膳が出ました、ああいうときのお膳の上のもの覚えていらっしゃる? 黒塗のお平《ひら》にパンが入っていたりいろいろ面白い。私もお客様というので、そこへ坐って頂きました。
 それからお墓詣り。それから光井の寺詣り。これは達ちゃんと私とが総代でやりました。
 三年回でしたから、私たちからのお供えとして、丸帯の立派なのをこわして仏壇の「打《うち》しき」をこしらえてもって行きました。お気に入った様子です。光井へゆく途中はまるで昔日の俤《おもかげ》なしとなりました。あの島田市までの途中も家が建ち、道普しんしているけれど、島田市から野原迄と云ったら全く全貌をあらためる、という言葉どおりです。工廠の門へ一直線になる十二間道路が今までの道の左へ山を切りひらいてずっとお寺の下まで通って、うちの裏山はすっかり赤い土肌を見せ、そこにクラブと官舎の建物が立ちました。トロッコ土掘り、トロの線路の踏切番、女がどっさり働いています。三つの池がひっそりと並んでいた山路のところね、あすこは山の頂に貯水場をつくるのだそうで、池はどこかへ消えてしまって、人夫がその辺蟻のように見えています。まだ形もきまらず、あっちこっちほりかえされ土肌をむき出し、荒々しい眺めです。しかし野原の一本町[#「町」に「ママ」の注記]のはずれからこっちは、やはり大した変化もなしです、まだ。しかし、この一本道の両側だけ昔からの家々がのこされて、ぐるりはすっかりこの工場の附属物でかこまれるわけです。
 魚なんか三倍ぐらい高騰していて殆ど東京なみです。もとは一匹ずつ売っていたでしょう? それが切身だって。その代り夕方でも魚が手に入るようになりました。
 四日はそれで一日バタバタで、五日は次の日の準備のために私はいろいろの包ものに字をかいたり例によって書記。
 五日は晴天で助りました。三時にお母さん、達ち
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