本の人がどっさり居りますけれど、そっちには余りいないという話まで出ているのに、「お父さん、何やっていらっしゃるの」というと、笑って答えず、というのはどういうわけでしょう。何もせんさくするのではないが、やっぱりそのことになると誰も答えない、というのは少くとも私の習慣には馴れにくいのね。その辺は農業ではなくて皆小さい商売をしている人が多いというのですが。手紙でかくと、答えないということに何かありそうにきこえるかもしれませんが、格別そうでもないのかしらないけれど、でも普通なら「店をやって居ります」とか何とか一口で一寸云えるところもあるのでしょうと思うけれど。面白いのね。誰も私のようには感じていないのだから。こっちの家もしゃんとしちょる。庭もひろい。家もいい。仕度もちゃんとせて、でOKになっているのだから、私は別に申し条もないわけですが。お里がえりのとき御覧になったら、あちらの家の机の上に木星社の文芸評論集と『婦人公論』とがちゃんとおいて飾ってありましたそうです、呵々大笑的好風景ではないこと? アメリカの父さんのこともこの式の一面なのかもしれませんね。何となくいろいろ面白い。
野原の方へどうかと云っていた広島の娘さんのこと、多賀ちゃんきのう行って見てすぐまとまるという望みはないように見て来ました。或はたかちゃんなんか口を利いたりすると、あとで大変そのひとにわるくて困ることになるかもしれません。
この間の晩あんなに細々といろいろ話して、富ちゃん大いに感謝しているらしかったが、果して現実にどう行動するのか。私にはこう云わにゃというところかもしれず。誰に対してはこう云わにゃ、彼に対してはこう云わにゃ。まるで、では自分のためにはどうしなくてはならないのかというところがフヌケとなっていて。こういうつもりがいろいろの事情でああなったというのではなくてね、土台、ああ云っちょこう、こう云っちょかにゃ、だからいやです。お気の毒とも思いますけれども、しんの腐っているという点はやはりリアルに映ります。今度のことではあの家の悪い習慣の結果が実にまざまざとあらわれて。
今多賀子は野原よ。あついところを又二人で泣いたり笑ったりしていることでしょう。可哀そうに。永い年月の間、日々の勤勉な生活からつつましく生きて来たのでないということは、或時期にこういう結果をもたらすのでしょうか。多賀子はあっちこっちのいがみ合いからぬけた気持で、人間の生活というものを考えてちゃんと成長しなければなりません。
きのうから梅雨期に入ったのにこの照りつけかたいかがでしょう。まるで逆に照りつけているようね。うちの井戸水はまだかれませんけれど大恐慌よ、あちこち。もし今年雨がよく降らなければ、と皆愁い顔です、苗代は枯れませんが、これでダーと降ったらすぐぬかないと根がくさるのですって。それ田作り、植かえと大変ね。どうかして降ればようございますが。島田の川は私が初めて見たときから岸の茂みを洗ってひろくたっぷり流れていたのに、この頃は底が見えて居ります、土州が出ている、これは水源池を工場でこしらえているからですって。下の方の田はちっとも水をうけないことになりつつあります。しかし地価は上りますから、それで満足しているそうです。土地を買い上げられた人々は、皆大きい家を建て、それを抵当にしているそうです。そこへ下宿人をおく算段である由。一円何十銭坪で手ばなしたが、今は建てるに坪当り倍の経費がかかりますから。すぐそばに勝手に土地売買しているのは五十円などと云い、村のあらましも様々ね。
さぞお母さんお汗でしょうから、今お湯をたきつけたところです。今度は吉例ユリのふろたきも只一度ですが、今年の薪はよく燃えてよ、実に見事にもえます、一年越し乾いているわけですから。雨よふれふれ。冬乾いて寒さが特別であったように、乾いた暑さは又格別のことになるでしょう、さア今日は十二日よ。あした朝九時四十二分出発よ。その汽車は東京に向って走るのよ、では。
六月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
きょうは大分体が大儀らしい御様子に見えました。どうでしょう、大変おつかれになりましたか? 珍しくハンカチーフで顔を拭いていらしたし、セルだったし、何だかすみませんでした。すこし暑すぎて猶体が気分わるくいらっしゃるのではないかしらと思って。きっとそうだったのでしょう、おなか[#「おなか」に傍点]でくたびれていらっしゃるし。ずーっと体を曲げて立っていらして。体の工合のよくないとき、いつもそうなるのね。それで私にわかります、ああきょうはどんな工合かということが。どうかよくお休み下さい。単衣もう送りましたが。
十日のお手紙かえってみたら着いていました。ありがとう。そちらへ行ってやっとすこし休まった気になって、かえって拝見して、ああ家へかえって嬉しい、嬉しいとつづけざまに云いました。ところで、どう? 島田からの第一の手紙、つきましたろうか。
四日の御法事のことや六日の御婚礼のことや、くわしくお話したいから、又もう一遍かいて見ます。もし先のがついているにしろ、きっと全部同じというのでもないからお読めになるでしょうし。
こっちを三時の「さくら」で立ってね。島田へは朝八時何分。駅に浴衣がけの達ちゃんが出ていました。体なんかすっかりがっちりしてね。出る前からみると恰幅がついたというところです。店の外へお母さんが、おお来てあったと云って出ていらっしゃり、家へ入って見ればもう河村のおかみさんその他ふじ山の婆さんなど来て御法事料理をこしらえている騒ぎです。岩本の小母さんが総指揮役。何でも二十九日ごろからずっと御出張のよしです。
十一時に式がはじまり、野原のお寺の坊さんが来ました。この坊さんはこの間気がふれて畑で蛇をつかまえて、そこにいる人に喰えといって、くわなかったら自分で食ったそうです。でも今はケロリとしているのよ、そしてお経を二通りよみました。お祖母様の十七回忌の由です、だから二つなの。あなたの大好きなお祖母様だったという方でしょうと思って、御焼香いたしました。お父上のは三回忌ですから仏壇に飾る「うちしき」というものをこしらえてゆきました。金襴《きんらん》なんかこの頃織らないのですって。ですからうちにあった丸帯のちゃんとしたふさわしいのを切ってこしらえてゆきました。立派で御満足。それから御膳を頂いて(ホラお平《ヒラ》にパンなんかのっているようなお膳)それからお墓へ詣り、それから達ちゃんと私とが代表で野原のお寺へゆきました。あの辺の道は何と変ったでしょう。お寺の下の道ね、あすこをずっと山へ切り通しをつけて拡げ、三つの池のある淋しい優しい風景だったところ、あの辺はすっかり赤土が露出していて貯水池をつくることをやっているのですって。土方、トロその間をハイヤがひどくゆすぶれながら走りました。昔、少年が自転車で通った山の道はもう思い出の道です。私でさえマアあすこがとおどろいて目を見はります。トロの踏切り番をどっかのおかみさんがやっている。女土方がどっさり居ります。
島田川は水枯れで、酒場ね、何とかいう大きい、あすこの先のとこから光井の工場へ直通の大道路ができて居り、それとは又ちがってお寺の山つづき(光井の家の裏)のクラブや官舎の方へ通じる六間道路があの家のすぐ裏のところ(お宮の下)をとおっていて。昔うちのものだったという山ね、松のある、あの山なんか支那の子供のおけしの前髪みたいに、その一部だけをチョコンとクラブの山の下の赤土のところに出して居ります。
お寺からかえって(四日)その晩は比較的早寝。五日は、いろいろ明日の準備で私は寿という字をいくつかいたでしょう。
六日は晴天で何より。おひる御飯なんか味も分らずすまして、一時すぎから支度にかかり、三時に花婿、母上、私、山崎伯父と一つ車で高森の佐伯屋という家にゆきました。達ちゃん黒い衣類に袴、羽織でなかなかよく似合いました。そのときになっても又書くものがあってね、私は私だけ単衣だけれど大汗でそれをかいて、やがて二階の広間へ上り、こちらが着席するとそこへしずしずと嫁がたの父代理母、花嫁(かいぞえの髪結に手をとられ)、他の親類があらわれます。黒い裾模様に角《つの》かくし、まるで人形のように現れて、スーと坐ると仲人である熊野さんが何か云って、これはお嫁さんのお土産でございますと何か盛り上げてふくさかけたものを出したの。そしたらこちらから岩本の息子の正敏さんがモーニング姿で出て、目録あけたり、勿体ぶって、幾久しく御参納いたしますという。美しくて、何だか野蛮です、大変妙だった、嫁の方ばっかりそんなお土産なんて。
それからお盃になり、親族の盃もまわし、その間の足の痛いこと、気が遠くなるばかりでした。それがやっとすんで、いよいよ写真をうつすとなり、そのときの達ちゃんの大汗といったら。パラパラとこぼれて玉をなしました。私は扇でパタパタあおいでやって、やっぱり脚の苦しいので玉の汗なのよ。花嫁さんと二人でとり、それから皆でとり、それからお祝の席となりました。その間に花嫁はスーと立っては着物をきかえてき、又スーとたっては着物をきかえて来て、三四度そうやって、やがて一人一人の前へ、不束なものでございますがよろしくと挨拶してお酌をしてまわるの。これもお嫁さんだけ。やっぱり気の毒よ。見ていて気の毒で可哀そうよ。それから十時すぎうちへかえりました、やっぱり髪結がついて。
やれやれという工合で下でお茶づけをたべ、達ちゃん二階へゆくのに何かばつがわるそう故、指環出してやって、これもってってあげなさいと助け舟出してやりました。
七日の朝は若い二人とも機嫌よい笑顔でようございました。お嫁さんは御飯のとき一寸下へ来るきりなの。そして夕刻から髪結が丸髷に結ってやって、又きのうの式のときそっくりの大した装をして、お母さんもそのなりをして、提灯つけて組合の家々をまわりなさいました。そしてかえって来てお嫁さんは髪を洗い、八日の里がえりの準備です。大したものでしょう? 全く飾られ、見られるための結ったり、といたり、着たりぬいだりです。ふだんだと式を家でして、そのまま夜通し客がいるのですってね。そして朝はもう女客、夜男客というのだってね。そういうお客は秋だそうです。そのときまでにお支度(キモノ、タンスその他)するのだそうです。
八日にお母さんと三人|玖珂《クガ》まで行って、そこから湯野に出かけたわけでした。
友子さんという子は可愛いひとよ。眼が三白《サンパク》っぽい(きっとそれが魅力なのよ達ちゃんに。だって婦人雑誌の口絵の女はそういう眼か、さもなくば睫毛の煙ったようなのですから)丸っぽい顔で、しなやかで、笑うときなかなかゆたかです。言葉だって何だってちっとも田舎ではありません。声もいいわ、ふくみ声の調子だけれど、ガラガラではないし。利発です、頭もこまかい。きっと大丈夫やってゆきますでしょう。ふっくりした手の指に私たちからあげた真珠の指環はめて、なかなか愛らしい花嫁です。島田のうちがヤレソレ、パタパタだからびっくりしているでしょう、せわしいんだもの。御飯たべるのも達ちゃんかげんしてゆっくりたべて上げなさい、さもないと友子さん一人のこるのだからやせちまうよ、というものだから、ちゃんとスピードおとしてゆっくりたべてあげて、達ちゃんもいい良人になろうとしているからようございます。あれなら女房は女房で、なんてことにはなりますまい。友ちゃんも達ちゃんがすきらしいわ。いいことね。
私友子さんを見て自分が別格嫁なのを痛感した次第ですし、達ちゃんのお嫁さんの必須な人なのを一層明瞭にしました。お母さんのお傍にああいう調子でものの仰云れる若いひとが出来てやっと安心しました。こうおしね、ああおし、そうだろうという風にやっていらっしゃいます、そうでなくてはね。河村夫妻、熊野夫妻、鼻高々です。この二軒へは、まあ兄として謝意を表する意味で、塗物に銀で扇面をちらしたシガレットケース一組ずつおくりました。〔中略〕
マア、そんなあんばいで
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