わかります。その方が私も安心ですから。寿江子はこの頃いろいろ勉強はじめていて目白へもあまり来ず、フーフー云ってやって居りますから、こちらは当に出来ません。多賀ちゃんがようございます。
てっちゃんにはつたえました。つとめどうなったでしょうね、初めの話のところね、あすこは駄目でした。そして別のところに話がすすんで大体出来そうの様子でしたが。
それからこの二十一日のお手紙。
二十一日のは八信で二十三日のは九信よ。ですからこの次は十通めのわけ。そちらで数を覚えていらっしゃるのめんどうくさいでしょう? いつも前には何日にかいたとかいて下されば順はわかりますから、むりに数をおひかえにならなくてもいいのじゃないかしら。
さて、体のこと。本当にそうです。私の御苦労は云わば問題ではありません。今年は冬が特別ひどかったし、本当に御苦労様でした。きっとこれからずっとましにおなりになるでしょう。そういう気がします。たのしみね。私も体には非常に気をつけて居ります。疲労を早く消すように、ということがモットーです。だからすこしへばったときは九時ごろからねてしまうの。八時すぎでもねてしまいます。そして、フロに入って。これがどうも何よりのようです。考えて見ると、この冬、すこし風[#「風」に「ママ」の注記]をひいたことはあったが、そのために臥ることはありませんでした。尤も今年は特別で、かわきで工合わるくなって床にいてしまった日はあったけれども。成績はわるくありませんでした。今に窓をあけて眠るようにしてね。でも一昨年の夏、すこし妙だったとき、よく強引にしかも合理的にああいう方法でやって下すったと思います。あのとき以来の収穫です、そして、これは何年かの間に、どんなに有益でしょう。仕事をたくさんすればするほどその効力がわかるというところがあります。
勉学の方も、どうもやはりそういうお礼をいうことになりそうですね。私はこの頃どんなに深く本当の勉強をしている人間と、そうでない人とが、相当な年になって違って来るかということを痛感しているかしれません。若い時代は何というか、特に女の作家なんかテムペラメントの流露で何とかやっているが、そろそろ本当に年を重ねて来ると、そういうものだけでは不断の新鮮さ、不断の進歩が見られなくなります。実際勉強は大切です。特に三十以後の勉強というものは、将来を何か決定します。だから、書くことでも、読むことでも、本当に真面目にやるべきです、『文芸』の仕事していて、猶そう思うのです。勉強などでも勉強して見ると猶ねうちが分るというのは面白いこと。
多賀ちゃんのこと、前便でかきましたが、追々又いろいろ別の御相談が生じそうです。多賀ちゃんの家の事情で嫁にゆくと、小学を出たぐらいの小商人か職工さんのところへせわされるのだそうです。農家の土地もちというような家の娘が中等学校出ですって。多賀ちゃんも、こちらで暮して見ると、そういう結婚は辛いらしい様子です。そのことが段々考えられて来ている風です。田舎ではその娘のもっている生活力や成長性を見ず、只学校だけでいうから、例えば徳山高女を出た娘と、虹ヶ浜のところの実科を出たのでは全く違った扱いをするのだそうです。なかなかむずかしいようです。東京、田舎、その間には或る大したちがいがあって、多賀ちゃんはピーピーしながらも明るく楽しく人間について希望をもって生きてゆく男女を見たから、十万円ある家へ何故山崎の東京にいる娘が嫁入らないか、という疑問もすこしわかったそうです、もっとも理由は又別ですが。皆がバカたれと云っているのを、そう思ってきいていたって。こんなこと、微妙で、しかも深い問題です、女の生きる上に。だから、又何ヵ月か経つといろいろの話が出るでしょう。
林町のあか子はまだまっしろけ。隆二さんが初雛を祝って、左の歌を下さいました。
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はしきやしマダム・キュリーの絵姿もともにかかげよ桃の節句に。
菱餅と五人囃とその蔭に一葉日記もおくべかりけり。(私はうれしかったから虹色の色紙にかいてあか子にやります)
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三月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十二日 第十九信
きょうこそは、よくよく面白い手紙をかかなくてはいけませんね。こんなに御無沙汰したのは珍しいことです、本当に御免下さい。
四日づけのお手紙を六日に頂きました。六日に『日本評論』の小説をかき終るところだったので、そのまま返事かかず。七日におめにかかりに行き。八日九日おめにかかり、十、十一日で二十七枚ほどの小説『改造』へかき終り。きのう夕方の六時にフーッと大きい大きい息をつきました。「三月の第三」というの、あれは「第四」に当るのでした、そしてやっぱり「三月の第四日曜」といたしました。二つめのは「昔の火事」というの。村がどんどん工場地帯になってゆきつつある近郊に、地主のよくばりと、その淋しい孫と、その土地から原始時代の竪穴が出て、そこで発掘が行われてゆくことと、そういう一つの生活の姿です。地主の猛之介は、「人間は儲けがなくてよろこんだり熱中したりは決してしないもの」という信念でいる。だから竪穴から土器が出るというと、それはきっと金目のものだろうと思うし、みんながいやにあっさりしていると、きっと甘いこんたん[#「こんたん」に傍点]をめぐらしていると思う。竪穴の発掘のとき、つきまとっているけれど、竪穴が原始の農業生活をうつしていると知ると、「ナーンダ、昔の百姓の土小屋か」とあきらめる。孫はおやじが、じいさんと財産争いで家出していて(養子)淋しいので、発掘に来ている青年になじんで、掘る手つだいなんかしている。一つの竪穴が火事を出した痕跡があって、その火事があったという生々しい身近さから竪穴の人々の生活へ実感ももち、みんなとわかれるのも淋しい。雨のふった日、ひとりで、水のたまったその竪穴のところへ行って、そーっと土のかたまりをゴム長の先でけこむ。水の底からの声をきくような眼色で。そういうような事に土地の利害のことやいろいろ。子供の心におどろきをもって見くらべられる竪穴とその附近の近代工場の煙突や、その昔の街道の大福屋や理髪やにあらわれて来る若い者の変化など。覚えていらっしゃるでしょうか、いつか竪穴のこと話していたの、あれです。火事ということから、人間の生活らしさがグーと迫って来た印象が忘られず、いつか書きたいと思っていたの。「第四日曜」とこれとは、何と云ったらいいでしょう、二枚折の屏風のような関係です。あの面、そして、この面、その二つの面が、どこかでつながっている。そういうようなもの。でも、二つつづけてかくと、同じ様式でかくのが進まず、短い方はずっと変化した形式で、話のように、(リアルな描写ですが)かきました。ああ、そしてね、この猛之介のじいさんは畦の由兵衛という仇名の男でありました。自分の畑や田から道へ出るときは、草鞋の下をこそげて出る、一かたまりの土だって汗と金のかかった土をよそへはもち出さぬという男。猛之介は、しかし、武蔵野の黒い土の厚みを二つにはいで、そこから儲を見ようという自分の智慧に満足している。一方を地下げし、一方を地盛りし、二つを売りものとする、そのために、竪穴の水平断面があらわれたのです。面白いわね。欲一点ばりの爺、人のいい発掘家、少年、その土地のいろいろの風景よ。
七、八日には、「昔の火事」をこねながら婦人のためのものを二十五枚(二十枚は口述)。
二十五日に手紙さしあげて、『文芸』の仕事(二十枚)終ったのでした。だから、二十五日からきのう迄半月、全く眼玉グルリグルリで、それでも、半徹夜は六日の晩ぐらいでした。それでもちました。朝からやって、午後休んで、夜は夕飯後から十時すぎぐらい迄ウンウンやって。一日平均十一枚小説をかいたのは未曾有です。理研のレバーがこんなにきくのでしょうか、又実によくのみましたけれども。体力がへばらなくて、それでやれたという感じは初めて。夜ふかしを余りしなくなったききめだとすると、随分あなたはおえばりになるでしょうね。多賀ちゃんの功績も甚大です。あのひとのおかげというところも多々あります。ですからきのうは原稿とどけてから銀座の方へ二人で出て、夕飯をたべ、九時すぎかえったら、あの雨の音でしょう? ゆうべのいい心持で眠ったことと云ったら。ゆうべは十時半ごろ眠って、すぐ眠って、けさは九時半まで一本の棒のように眠りました。このねぼうはあなただって下さる御褒美と思いながら、ホクホクして。
ああ、でもそういえば、私は二十五日よりあとにもう一つぐらい手紙さしあげているでしょう、「合せ鏡」という題のことかいた覚えがあるのですが。あしたうかがいましょう。何だか夢中だったのでごちゃごちゃしてしまいました。
林町へのお手紙よみました。みんなが、いかにも心持よさそうなお手紙だと云って、返事かくと云っていました。国男が、「姉さんの大変いい気持になるものをぜひ見せてあげたいから」と云って、食堂のサイドボード(覚えていらっしゃるでしょう、壁のところに高くたっていた茶色の彫りのある棚、かがみのついた)のところへひっぱってゆくから、何かと思ったらあれでした。緑茶の話が出ていて、笑ってしまいました。咲枝、動坂の家を知って居りますからね、あの二階でのまされた緑茶ということにはひどく同情して笑って居りました。でも咲枝は感心よ、のまされた人に同情するけれども、のましたものの心底もあわれと十分察して居りますもの。それはそうよ、全く。のましたものの方は、そんなにして、自分たちの新しい生活で仕事を渋滞させまいと思っていた自分の心を、満足にも思い些か残念とも思っている次第なのですもの。
太郎へのお手紙、すっかりよみましたそうです。ヤス子はまだ余り小さくてあそび相手にはならないので、私が、あすこをよんで、「でもヤスコは小さくてまだ遊べないね」と云ったら「キットモットオッキイと思ってるんだネ」と云っていました。太郎も返事をかくそうです。この頃幼稚園でぬり絵をやります、印刷した輪廓に色をぬるのですが、色感がよくて面白いので、かざったりしています、あの位の子の絵はなかなかおもしろい、小学へ入ると凡化します。太郎は今はオンチなの。歌は下手。ですから、絵を着目されている次第なのです。あか子は、大分真白がましになりましたが、余りおっとりしていて、すこし心配な由です。成程そう云えばそういう表情よ。美しいし可愛いしいいのですが、パッチリしたところなく、春風|駘蕩《たいとう》で頭の中もそうかもしれません。「はしきやし」はいそがしい最中で、とても色紙買いにゆけず、そのままです。いずれかいてやりましょう。
明日はおめにかかりにゆきます。それから多賀ちゃんの黒子の医者へつれてゆきます。一人でやると、どうも心配で。それから病人を二人見まわなければなりません。もうもう宿題なの。そうしているうちに又仕事がはじまりますから。この三四日はそんなことをして大いにのーのーとして休みます。風が激しくて、いかにも三月ですね。外へ出るのは困ること。三月の風は「第四日曜」の第一章からあらわれます。けれども、今年は大助り、多賀ちゃん、竹スダレのことお話しいたしましたろう? あれを二月十三日の分としていただいたのよ。二間一杯に下げると、光線が眩しくなくて大助りです。八月に冨美子が来れば、私は二階で一日くらしますからその用意もかねて。車がついていてね、糸でスルスルと巻き上る竹スダレの下から、まんまるなお月様が遠いむこうの屋根を眺めるという風流な姿を御想像下さい。
今多賀ちゃんが、洋裁のところをしらべてかえりました。四月五日から、月水金、いいでしょう? 私は火木土ですから大変いいわ。場所は目白の通りの左側の角の古本屋の横入った右側、下落合一ノ四三七というところで、歩いて五分とかいてある、マア七八分でしょう、でも、これならば歩いている間にバスがひっくりかえったというこわいこともなくてようございます。速成科を四ヵ月やって、あと九月一日か
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