ろう? 私はこの西田という人のベルグソンと東洋とをこね合わせた考えかたがふわけしてみたくて、誰かすっきりとやる人はないかと思っているが、哲学畑は一寸皆呪文にしばられている形で、面白いと思います。つまり日本哲学と称するものの、出来具合がほぐされたところが見たい。私の内在的なものはいろいろ嗅ぎつけて居るのですけれど。ああいう頭を小説の中の人間として扱いきれたらそれも面白いでしょうね。漱石が、先生という人物その他を扱い、あれは作者との関係では単純で、肯定のタイプですが、そう単純でなくね。現実反射の形としてね。阿部知二も知性というなら、せめてその位のり出せばよいのに。哲学の領域で不可能なら、小説の領域で、と云い切れたら愉快でしょうね。あの哲学の「無」なんて、随分国産のモチ(竿につける)よ。横へおしてゆくと出るところは、谷崎、永井あたりです。この頃の武者にも通じたところがある。
 明月にひらかれた詩集のはなし。ね、この文章に対して私は何ということが出来るでしょう。その詩が、一度よりは二度と味いを増しつつ朗々と吟誦されたとき感歎に声もなしという風だった、そのような状態が私にさながらそのままにかえっ
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