Rノトコロハ三拝九拝シテアル部分」は2日〜10日の下に縦中横]
以上のような有様。今日からうんと出来るだけ早く、九時台にねます。又二十日前後から九時のうちにねることは出来にくくなるから。
それでも、この程度で小説一つ、例のつづき。出来上ったのは25[#「25」は縦中横]枚でしたが、はじめ四十枚もかいて、すっかり技術上の問題で書き直し、若い婦人のためのもの三十五枚ほどかいたのは落第の成績ではないでしょう。
「一日から十日休んで、あたり前さ」と、却ってにらまれるでしょうか。このブランクは十七日前後までに、追いつけ、追いこせでやるのです。
稲ちゃんは今箱根の湯本温泉へものをかきに行って居ります。大変珍しく、新鮮な心持でいるらしい手紙です。何しろ毎日が毎日だから、たまにはいいでしょう。一日じゅうの時間が気がつかずにすぎるときがない、とびっくりしている。これは私と逆ね。気がつかずすぎる時間が欲しいと思うのと。いろいろの境遇は面白いと思います。いつか書いた『文芸』の小説の話、あれで、却ってあのひとは河の中流へ舟を出した様で、ようございました。
私の連載のものはやはりつづくのだそうです。だから来月二十枚ぐらいのせます。婦人作家の新しい質の現れて来るところです。何という題にしましょうね。「新しい砂洲」とでもしましょうか。わるくないでしょう。砂洲はいけないかしら。でも東京だってデルタでしたからね。それから『新潮』の新年に短篇をかきます。十一月十日で新年の号をしめきるのです、とはおどろきました。
石炭がないので王子製紙の生産が下って、各雑誌又紙がずっと減り、又四割五分とか。そうすると、皆うすくなる、うすくなると頁がへる、頁がへると作家は生存難になる。きょう山田菊子というパリ住居の女のひとが中心になったお茶の会があり、そこで鉄兵さんの話でした。
この夫人をかこむ婦人作家の座談会が明日午後あります(『読売』)。直子夫人大いに日本の婦人作家のレベルのこと知らしてやらねばと力んでいられる由。作家として扱うのは誤っている。旦那さんスウィス人。成程と思いました。スウィスは絶対中立ですからね。そういうことも面白かった。絵をかきます、全くタレントなしです。ポスターはかけるでしょう。
お母さんがフランス人で鎌倉に住んでいるのだそうです。だからすこしは日常の日本もわかっているでしょう。日本へ来てお客、パリでお客、どちらでもエトランゼ。一つの女の生活ね、こういう女のひとのタイプと鹿子木夫人の生きる一生対比されて、女がかくべき女の生涯と思います。ドイツで員信博士になるにはこの哲学専攻の夫人、実に内助の功あったのでしょう、今別になって員信先生は精動で活動です。夫人はポーランドに父、ドイツに兄、その二人のところを旅行している娘をもっている。そして自分は語学教師として働いて暮している、もう老年のひとです。是也の細君のようなのは新しいタイプですが。特殊な環境での。家族的な条件に於ても。菊子夫人というのを見ていろいろ感じました。単純な世話女房風の気質の人なのにね、それ以上つっこんだ気質でもないらしいのにね。それからこれは大変可笑しい感想ですが、どうしてフランスと日本の間の女のひとは大きい鼻なのでしょう、不思議と思った、まず鼻が目に入る。佐藤美子というソプラノ、このひともハナのお美《ヨシ》という名あり、関屋敏子しかり。本野の夫人しかり、そしてこの夫人もそうです。骨格の関係で目立つのね、関係上。それだけ大きいのでもないだろうのに。
私の小説は題が見つからないで閉口して「杉垣」としました。同じ杉垣の家ながら、なかでの生きる心持は時代により人によりちがいます、その意味で。慎一という男、妻は峯子、照子という女の子一人。小さい勤め人。今日の生活の不安な感情。しかし、いろいろに時代的に動こうとは思わない。妻も、よく理屈は云えないが、其の心持でいる。夏、西の方に一間の窓がひらいていて、そこから消防の物見など見える家。夜、峯子がふと目がさめる。しゅりゅん、しゅりゅんという、いかにも的確な迅い鉄のバネの音をきく。良人の生々としてよく眠っている暖い肉体を自分の頬の下に感じつつ、切ない心持でそれをじっときいている。幾晩もそうして目がさめ、こうしてきいている。しかし良人にはそのことが云えない。感情が余り切実だから。表現が分らない。その音が或夜やんでいる。やんでいる。峯子は涙が出て、良人に唇をもってゆく。よく眠っている慎一は、少年ぽくむにゃむにゃで応える。峯子思わず笑う。そんな経験は慎一がいつ留守になるかもしれないという条件とともに二三年のうちに峯子の生活感情をかえた。十年計画で月三十円の月賦で、集合住宅をたてるというような友人の誘いをうけるが、峯子にはそういう生活の感情が実感にとおい。峯子の兄が慎一を今流に動かそうとする。慎一もそういう風に今を生きたくはない。夫婦とも捨てみで生きる方を選んでいる感情で、終るという次第です。今日生活にあらわれる、若さ誠実さの一つの形としてのそういうもの、それは東京だけで何十万というサラリーマンの胸底にあるものでしょう。それは文学の中で、まともにあつかわれなければいけないものでしょう。軽井沢の秋の高原のそぞろあるきのうちに衰弱するのは、康成その他でたくさんですから。
『新潮』のは何をかくかまだ分りません。とにかく私は独言的小説はいやです。それがどんなに珍しい一つの才能であるにしろ、それはそれで自分は、人間が熱く埃っぽく、たゆみなく絡り合って生きているそういう姿を描き出したい。彫刻的にかきたい。立体的にね。その方向へ本気で船を漕ごうと思う次第です。自分はそういう風な内のしくみに出来ている。それを痛感します。短篇でもひろい音の響きのあるものがかきたい。タイプではなくてね。チェホフは傑出した作家ですが、人生というものをあの時代らしく類型化して描き、そのことではメリメやモウパッサンのように、テーマ短篇とはちがった世界を描きました。文学に短篇の新しい世界を拓《ひら》いた。けれども、これから先の短篇はそういうものからも又おのずから歩み出しているわけですから。生活の物音の複雑さがね。複雑怪奇という新造語の流行される今日ですから。
長篇小説とワイワイ云っていたかと思うと、曰ク「短篇時代来る!」これは冗談でない原因で、紙のこともあるわけです。しかし日本の作家は何というのでしょうね。長篇小説が云わば一つもろくなの出ないうちに、もうそういうわけです。つまりロマンなど生むに耐えない文化性におかれているのです。その点では、こちこち勉強しかないわけです。しかしコチコチ勉強だけでは実際上困る(Oh! 又早ね、早おき※[#疑問符感嘆符、1−8−77])。勿論冗談ですが。作家が益※[#二の字点、1−2−22]世俗的生活面の単純化(質的のね)の正当性を知らなければ、本当には成長的に生きてゆけなくなって来ています。衣類七割八分、食費四割以上、その他あがっているのだから。面白いことね。文学のジェネレーションのことを考えると実に面白いことね。来月からお米全国七分|搗《づき》です。太郎の御飯なみです。太郎は体の条件でそれと普通のとまぜていたが。まぜず。
御注文の本お送りいたします。もう一つ問い合わせの返事はまだですが、いずれこの次までには。
ユリは目玉パチクリです。炭が炭やになくなったから。愈※[#二の字点、1−2−22]衛生的生活ね、この冬は。余り炭火がすきでないから助かりますね。ではどうぞお元気で。あした太郎イモ掘りなのに雨で可哀そうに、お流れでしょう。今九時打ちました。さアさア、では。
十月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十四日 第九十五信
何という目ざめの心地だったでしょう。ここの門のわきに一本木犀の木があって、これまで花をつけたことがなかったのに、ゆうべ見たら黄色の濃い花を葉がくれにつけていて、かすかな秋の花の匂いを漂わしていました。S子さんが「あら、いいことがあるわ、何か」と云いました。その一枝を小さく折って来て、机の上の壺にさしてあります。匂いというほどの匂いはないのだけれど。きょうはいいお天気。髪を洗います。橙《だいだい》のつゆをしぼって髪をゆすぐ水に入れます。ベッドの日向にはあなたの着物やかけぶとんやがほしてある。きょうは、もう一つと美味しがっていうのに、ああいいよと答えられているなかから明けました。その声は、いまどっち向いても聴えます。何というまざまざさでしょう。ああいいよ、そうお? ああいいよ、そうお? そうお? その声について行くと森の中にひとりでに入ります。小さい草原があります。その柔かい草の上に顔をふせると、いかにも芳ばしい。じっと顔をふせている。草の芳ばしさは、若々しい樫《かし》の樹かげをうけて、益※[#二の字点、1−2−22]たかく恍惚とさせるばかりです。樫の樹は無心です。でも、それは、我知らない悦びにあふれていてね。雲の愛撫のなかにたっています。雲と軽風とはそういう美しい樹を見つけたうれしさに耐えがたいという風に、そっと幹を吹きめぐり、雲はやさしく梢を捲き、離れ、また戻って来て変化をつくして流れています。そこには微妙きわまる音楽があって、二つの声のリフレインが響いています。あたりは金色の日光です。
私はその金色の光をあなたに上げようと思い、両手のなかに掬って、大切に、いそいでゆきます。いくらかは指の間からこぼれて、道の上に金色の滴《しずく》をおとしているようです。でもそれは致しかたないわ、ね。あなたには、私がいそいで、しかしこぼさないように、自分の掌のなかを一心に見ながら、すり足のような小走りでいそいでいるのが、おわかりになるでしょう。
この間の手紙(この前の分)でかくのを忘れましたから一こと。おめにかかったとき、私がすこし熊坂長範めいたことを云ったら、あなたは、そんな風に云々と笑っていらした、覚えていらっしゃるでしょう。あのこと。予定なんかをはみ出すのは云わばあたり前みたいなことであろうと思って居ります。いつか、ユリが病気したりしたときのために、と云っていらした方ね。あれが畧《ほぼ》この間書いてお送りした謄写代のトータルほど(すこしすくないが)あって、それを役立てるから大丈夫です。なんだ、そんな、とお思いになるようなことはしません。本末顛倒したようなことがあれば、勿論あなたは、そんなこと希望しておいでにならないのは十分十分わかりきっているのだから。もし、どう考えているか。小さいダイナモ、どうまわすつもりか、と思っていらっしゃるとわるいから。そして、もしかしたら、どこかに礼を云わなければならないような人がいるのではないかと、お思いになるといけないから。これで明瞭でいいでしょう? だから島田へ送った三倍はあるわけです。けれども、これから先の分の部数のことだけはやはり一考を要しましょうね、きっと。出来ればそれの内で納めたいところもあるわけですから。
今年は十七日の顔ぶれもいくらか変化しました。栄さんたちにも相談しましたが、S夫妻は又別にします。それについて、この間御相談しようと思っていてつい忘れてしまって。やはりその方がはたも自然ですしね。いつも困った気持になります。
あなたにお祝い何さしあげましょう。吉例にしたがって限定版の詩集一冊。それはもうきまっていますけれど。今年のは表紙が非常に軟かで、つよい鞣革《なめしがわ》で玉虫色の象嵌《ぞうがん》があります。装幀も年々に含蓄を加えます。
それからリアリスティックなものとして、岩波の『哲学年表』、それは今お忙しいがきっと面白くお思いになるでしょう。折々ひっくりかえしてみて。それをお送りいたします。
あなたのお誕生日が祭日なのは面白いけれども、私としては本当に不便ね。しみじみそう思います。仕方がないから松たけでも入れて、すきやきを一同でたべましょう。ああそれから、お酒なしよ。
きょうの様子だと晴天でしょうね。あなたのところへは二日もおくれて菊の花がゆくで
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