獄中への手紙
一九三九年(昭和十四年)
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)臥《ね》ながら

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二万七千|哩《マイル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ちょ[#「ょ」に「ママ」の注記]/\

〓:欠字 底本で不明の文字
(例)久々の出〓
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 一月一日 〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 四谷区西信濃町慶応義塾大学病院内い号の下より(封書)〕

 一月一日  第一信。
 あけましてお目出とう。今年もまたいい一年を暮しましょうね。
 ずっと順調で熱もきのうきょうは朝五・九分位、夜六・八どまりの有様です。このようになおりかかって来ると傷口の大小が決定的に影響して、一寸足らずの傷であるありがた味がよくわかります。傷そのものの不便さはもう殆ど感じません。ただ腹帯をたっぷりかたくまいているのでおなか[#「おなか」に傍点]がかたくって、曲りかがみに大不便です。上体を一寸捩るような形はまだ妙に筋がつれて出来ませんがベッドから下りたり上ったりすっかり自分の力でやれます。きょうから少々歩き初めです。一日に三四度往復十間位のところを歩くようになりました。これで三四日して入浴出来るようになって、もっと足がしっかりしたら全快ですね。傷が大きいと、表面だけ癒ったようで内部はよくついていないことがあり、退院後に又深いところで苦情が生じたりする危険があるそうですがこう小さい傷だと、内からちゃんとまとまり易いから大助り。
 今は椅子にかけ、小テーブルに向ってこの手紙を書いて居るところです。咲枝がお年玉にこしらえてくれた黄色いミカンのようなドテラを着て、きのう稲子さんがもって来てくれた綺麗な綺麗なチューリップの植込みを眺めつつ。しかもこのテーブル(枕頭台から引出すようになったの)の上にはお供えが一つあってね、丸く二つ重った形を、そして、上のところに、ちょいと松竹梅の飾りをつけた形を臥《ね》ながら横から見ると、まるで私のようなの。随分似ている、似ている、と笑っていたらけさになって榊原さんが、そのお供えの、丁度おなかのでっぱりのところに、小さい絆創膏を十文字に貼りつけました。上出来の傷のお祝に。そしたら、お供えは俄然生色を帯びて、まるで生きもののように表情的になって、うれしいようなきまりわるいような様子をして、お盆の上にのって居ります。こんなところらしい冗談があるものね、感心しました。
 先生たちは元旦でも出て来て、明日入浴してよいということになりました。初めて普通の御飯をおひるにたべて、実に外科の仕事は、バイキンさえ入らず、体質異状がないと早いものですね。
 あなたの名、私の名、新しい筆で大晦日の夜お祝箸の袋の上にかいて、先ずあなたのから食べ初《ぞ》めいたしました。ちょうど十九日に自分で買って来てありました。島田の方でもこういうのを使うでしょうか。[#図1、祝い箸の絵]模様は羽根に手まりに梅の花。金色と赤の水引の色。模様が大変女の子らしいので、あなたのお名前は何だかいかにも、マアお正月だから仲間に入って遊んでやろうというようです。
 明日壺井さん夫妻が見えるそうです。そして四日には繁治さんが久しぶりでそちらにゆく由です。
 目白はおひささんが二十六日にかえりました。二十八日までという約束で行ったのですが、急なことだし、他のことともちがうので速達出してかえって来て貰いました。寿江子がとまっています。但三ヵ日の間は寿江子林町でワアワア云いたいらしいので、本間さんのチャコちゃんと云う女の子、高等科二年、をたのんで滞在して貰う手筈にきめました。自分は閑散な正月であるわけですがはたの連中に何とか正月らしくしてやるために、やはりそれぞれ心くばりがあるものです。
 手塚さんのところ二十八日だったか女の赤ちゃんが生れました。八百匁以上でよかったが、生れるとき赤坊が廻転して出て来るとき自然にへその緒が解ける方向にまわるべきところ、逆回転だったのでカン子《し》(頭にかけて赤ちゃんをひき出す道具)をつかって仮死で出た由。人工呼吸でそれでも母子ともにもう安全だそうです。なかなか危険なところでした。赤ちゃんの喉がへその緒で次第次第にしまることになるのですから、逆まわりになると。てっちゃん、びっくりしたし、うれしいし、様々なのだろうのにキョトンとして、ホーと云っているには大笑いでした。名はやす子とする由。妻君の母上の名の由。なかなかいいお婆ちゃんで、てっちゃん好きなのですって。手塚やす子という娘さんの父親なのよ今年から。確にホーでしょうね。
 中野さんのところはまだ正月が半分しか来ないようですって。お産が一月かですから、それが無事終了までは宿題を夫婦でかかえているようなもの故本当にほっとはしないのでしょう。ふた子でも生めばいいのに。ふたごは面白くて、可愛いでしょう、私たちは皆ふたごって面白くて好きです。勿論どっちも丈夫な場合だけれども。独特にうれしいところがあるにきまっているから。
 体全体のつかれかたも追々ましになって居るから御安心下さい。きのう坂井夫妻見えたとき私にゆっくりかまえるようにとのおことづけありがとう。私は全くゆっくりかまえて居ります。ただ外科の進みかたは内科と全然ちがったテムポをもっているだけです。
 でも本当にこうやってのんきなこと話して生きていて、妙ね。何日ごろになるか、初めてお目にかかるとき私は手をとってほしい気持です。お辞儀をして、さアユリは死なずに来てよと、そういう気持です。〔中略〕この間入院する前は、二階の勉強机でない方に、ベッドとの間においてある椅子にかけて、いくつもの手紙かきながら、もしかしたら死ぬときになっていたのかと考えた。だって、私としたら珍しく万端すんでいて、あなたにあんなに連作の手紙もかき、心持はしーんとしてしまって滓《かす》のないような工合だし、着物はすっかり新調して上げてしまってあるし、お金のことまで打ち合わせたりしてあったし、いやに準備ととのっている。よく偶然そういうことがあるものだから、成程こんな工合のこともあるのかと考えて居りました。そのために却って手術の間も心持は平静でした。〔中略〕然し、ハラキリはこたえるものですね。〔中略〕
 明日入浴出来たら七草《ななくさ》までにかえれるのではないかしら。
 二十八日にちゃんとお顔を見てつたえることが出来なかったので気になっていますが、そちらの元旦はいかがな工合でしょう。臥ていて、余り安らかなおだやかな、底によろこびの流れているような心持のとき、きっとやさしい親切な心で思われているのだと感じます。本年の正月は、計らずいろいろの大掃除があって、又珍しい新らしさがあります。年々の正月を思いかえすと何と多彩でしょう。歴史が何と色つよくかがやいているでしょう。この二三日すこし気分がしゃんとしてものをよみたい気も起って来て居ります、ではお話し初めをこれでおしまい。呉々も御元気に。

 一月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 慶応大学病院より(封書)〕

 一月二日  第二信
 きょうから雨か雪という天気予報でしたが、今は空が晴れて、僅かな白雲が東の方に見えます。きょうは、午前十時頃、初めて入浴しました、実にいい心持。傷口は軟膏と絆創膏を貼って。しかも、これは私があぶながってむき出しではこわがるので、おまじないのようにつけてくれたものの由です。むき出しで入浴してもういいのですって。
 出て来てから一時間ばかり眠り、先生が見えて、手当をするとき鏡をとって眺めたら、おなかのよこに薄赤く十字がついていて、[#図2、「十」の下に小さい「○」の絵]この下のところにごく小さい穴が見えました。それは表面だけでもう深さはないとのこと。黄色い薬のついたガーゼをあててバンソー膏をつけて上から湿布してあるだけです。熱は朝五・九。入浴直後六・八、午《ひる》は六・一分です。順調でしょう? いそぐならもう程なくかえってよい由、あとから通えば。私は傷の小さい穴がすっかりふさがって、毎日湿布をしたりしなくてよくなる迄いるつもりです。目白から省線で立ったりして通って来るのはいやだから。それにしてももう僅かのことでしょう。多分もう一週間以内だろうと思います。午後は大体ずっと椅子におきて居ります。両足の踵と左脚のふくらはぎとが、体の不自由だったとき何か筋の無理をしていたと見え、しこってしこってひどくくたびれているだけで、歩くのも傷のところがつれる感じはごく微かです。これがすっかり直って、すっかり軽くなったらどんないい心持でしょう。どんなに軽々といい心持だろうと思うと、私は一つの夜の光景を何故か思い出します、屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》思い出します。茶色の外套をきてベレーをかぶって、夜の道を急に崖下に家の見えるような坂道にかかったときのことを。すべりそうでこわかったとき、つかまっていいよと云われたときのことを。すこし勢がついて足が迅《はや》まると崖から屋根屋根をとび越してゆきそうな気がしたときのことを。不思議にこわくて、不思議にうれしかったときのことを。
 ふらふら読書の道すがらアメリア・イヤハートの「最後の飛行」をよみました。一九三二年頃単独で大西洋横断飛行をしたり、多くの輝かしいレコードをつくっていた彼女が太平洋を横切って世界一周飛行の途中、ニューギニアのレイと赤道直下の小島ハウランド島の間、彼女自身によって「全コース二万七千|哩《マイル》の中最も距離長く難コースと思われる」地点で消息を断ってしまった。この一周飛行に当って、彼女はジャナリスムに寄稿する契約をもって居り、飛行の間のノートその他を土台に相当書いた、レイを出るときまで。それを良人であるプトナムが編輯したものです。写真を見ると、いかにもさっぱりした快い風貌の女のひとです。飛行機に対する熱愛とともに、彼女が女の生活能力の拡大について常に熱意をもっているところ(アメリカにおいてさえも!)自身の仕事をもその一実例としての責任感で当っているところ、又飛行機に関して、現代の機械の進歩は、各細部の性能の特殊化の方向にばかり向けられて居り、速力を増すことにのみ向けられている。僅か四|呎《フィート》ぐらい(四方)の操縦室に見たり整えたりしなければならないものが百以上あって、これは飛行士をつからせる、もっと単純化すのが一歩の進歩ではなかろうかと云っているところなかなか面白く感じました。安全率を高めるための配慮がもっとされなければならないとも云っている。忙しい操縦の間に十何時間も食事なしでとびながら、自然を観察したり何か、こまかく活動的な頭脳であることがよくわかる。良人が、驚くべき性格と魅力とを惜しんでいるのも尤もです。いつか私も命をおとすときがあるでしょう、そう云って、夫婦がそれを理解し、理解していることから一層互に楽しく結び合い愉快に暮した生涯というものも、味があります。
 リンディーの夫人のアンがやはり本をかく由。今度のは「聴け! 風を」という題の由。女性の生活と広い意味での文学は、こういう方面にもひろがって行っているのですね。
 私は飛行機は駄目です。パリとロンドンとの間を翔《と》んだけれど。普通に酔うのではなくて、脳の貧血がおこります。頭がしめつけられるようになって来てボーとなって、長時間の後にはそのまま死ぬという厄介な酔いかたをするから。みっともなくガーガーやるのは、いくらやっても大丈夫なのですって。
 文学的な形にはまとまっていませんが、三八年の九月のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から三人の婦人飛行家(モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]と南露の方を無着陸飛行したレコード保持者たち)がバイカルのこちらのコムソモーリスカヤ辺へ無着陸飛
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