閧ワしたろうか。語呂は下手に出来ていても心持はなかなか活々した小さい話でしょう。この天候がしずまるともうすっかり秋めくことでしょうね。そして、そろそろ浴衣素足の女姿も来年まで初冬仕度のうちにかくれるわけです。泰子はすこし消化不良の由。すこし牛乳がいるので。私のようなゲルンジー娘(牛の名)は、やっぱりそうだったのでしょうか。では今度は本当に。明日。
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[自注29]森長氏――森長英三郎氏。数年間にわたる顕治の公判、大審院への上告などに関する煩雑な実務を最も正確に行なわれた。
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九月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十一日 第八十七信
きょうは、それでも三日の手紙不着のことがはっきりして、わけがわかってようございましたね。
電報四時すぎつきました。あれからお考え直しになったの? 早速つたえましたところ、明日午前中に行ける由です。それから岡林氏の方はなるたけ水曜日にゆきたいが、一つ法廷がある由です。それがすむ時間によって、或は金曜日になるかもしれぬとのことです。そうだとするとユリの次の日よりあとになりますから、一寸手紙でお知らせしておこうと思って。
きょうも暑いこと。きょうはかえりに又図書館へ行こうかと思っていたのですが、昨夜は半通夜で床についたのが二時半ごろだったので、眠りたらず体がくるしかったから真直かえって来ました。この頃平常は夜十時半前後、朝六・半前後です。本月今までのところ出勤は二日一日きり(これから先には二十日すぎにありますが)。三日にかきはじめようとしたら緑郎のことなど気になって、自分の心にある都会の景色が甦って大分亢奮してね、書くような心持にならず。四日、五、六日とかかって、「分流」大正八年頃迄三十五枚書きました。読書は出勤のあった頃は夜が多く、今は午後をつかいます。そういう風にして暮すこと、その暮しぶりに意味を感じて本気なわけです。こんなことが一方では図書館へ出かけて、ねばりもするような面もこしらえているのだから面白いものです。何しろ図書館をいかに活かすかということについて大先輩に親シャしているわけですから。婦人の工場監督官が新設されなければ(今日)ならないという意見が、あちこちに出て来て居ます。しかし、本のなかで見えているような活動を、なし得る人が果して何人あるでしょうね。土台の問題があるのだから。住宅のこともなかなかです。三畳に三人雑居でやり切れなくて女郎屋から工場へかよっている若い労働者がいる(『中央公論』)そうです。間代の高さより家がないのね。川崎辺のことです。目白の家は今ではやすい、いい家ということになったわけです。去年十月の家賃地代より高くは出来ないことになったからようございますが。目白の家賃はずっと同じです。只、今度の改正税率で私たちの職業、弁護士、いずれも自由職業に入って、一千円(控除ナシ)だとこれまで 2.70 の四倍だったのが年に四十六円となりました。ざっと四倍ですね。
きょう云っていらした、家にいて貰うひとの給料のこと。ひさの頃は決してわるくはなかったのです。この頃は大抵 15.00 です。新しくたのめば。しかし、それよりも困るのは人のないことです。看護婦もなかなかいない。八十八歳の大叔父さんは、ですから看護婦もなしで永い生涯を終りました。私たちの家持ちも、そういうような条件では大困難いたしますね。一人っきりだから、いて貰う人にも又おのずから条件があって、例えば今林町に十五の可愛い子がいますが、そんなのは一人で留守も出来ずね。
それでもお母さんの方は、多賀ちゃんがこの頃は落付いて来たから何よりです。野原に兄さんもかえって来たし、気分に落付いたところも出来て来たのでしょう。お母さんからはさっきお手紙です。あなたからお手紙が来た、そしたらユリのもついた、本当にうれしかったというわけです。今年はあまり雨がなくて暑すぎたので体を注意して、夏は余り外出もなさらなかった由です。浴衣がけのお写真が入って来ました。河村さんの息子が姉婿のところで修業中、それがとったのですって。すこしぼんやりしている。でも、いつか林町でおとりになったのは、よそですし、すこし気がしまっていらっしゃいますが、こっちはいかにも裏庭でのお顔です。裏庭には、今年菊が咲くとのことです。お写真お目にかけましょうか。ペラリとしたのよ、一枚の。
『文芸』につづけているものも、はじめの『中央公論』のから数えると、「人の姿」20[#「20」は縦中横]、「藪の鶯このかた」20[#「20」は縦中横]、「短い翼」25[#「25」は縦中横]、「入り乱れた羽搏き」32[#「32」は縦中横]、「分流」35[#「35」は縦中横]、となりました。一三二枚ですね。この次のが「渦潮」です。「渦潮」で大正年代は終ります。このあたりから、なかなか面白くしかし書きかたがむずかしくなります。それから昭和を七年ずつに分けて二回。百枚越すでしょうね。すべてで二百二、三十枚。「人の姿」、「藪の鶯」、二つはどっちかというと随筆風に書いているけれども「短い翼」からは視野もひろいところから見ています。「渦潮」が十一月、あと二回として来年一月で昭和十四年までが終るわけです。昭和の後半は何しろ森田たま、豊田正子、その他まことに時代的な人々が多いから簡単でないし、そこをこそ念入りに書きたくて歴史をさかのぼったわけですから。本月はこの「渦潮」をこの三四日うちに書いて、それから『中央公論』の小説をかきます。九月号というのをのばして貰っていたのです。九月号のために八月初旬送らねばならず、七月中にかいていなくては駄目で、それは出来なかったから。
九月一日のパイパアの「海外新刊書案内」のなかに22[#「22」は縦中横]頁 Utley. F. という人(女の人です。経済、『日本の粘土の足』という著書あり)の『戦う支那』という本が出て居ります。『タイムス』の紹介で、その科学的な公平な態度を称讚して居ります。もし入荷予定があれば、ほしいと思って(いつか「思う迄のテンポは一致しているが」と仰云ったわね)、而してハガキ出しておきました。もし入荷予定があったら一冊是非欲しいからと云って。
六芸社から出ている『文芸評論』が参考書としてとり出されています。この装幀をした画家は小堀稜威雄という人ですが、今ふっと思うのだけれど、この人が杏奴さんの御良人ではないのでしょうか(ちがうかしら。いつか小堀鞆音の子息だということ、福田君からきかされた気がしもする。そうです、そうです。鞆音の息子さんです)。この本やさん、この頃は妙な本を出版しています、小説ですが。「ジンギスカンは義経ナリ」という木村鷹太郎製の伝説が流行して、去年川端龍子がラクダに甲冑をつけてのっている義経を描きましたが、何だかそういうような傾向の小説なんか出しています。この『文芸評論』の「過渡時代の道標」は今私のかいている部分のために必読のものです。
芥川龍之介についての座談会で久米の云っているところなどでは、彼は、人のよむものは何でもよんでおけというような負けん気で古典[#「古典」に傍点]もよんだりしたらしい風ですね。
平林初之輔が、自然科学に入口の知識をもっていて、評論家にそういう知識をもっている人の例は尠ないと云って賞《ほ》めている人があるけれども、彼の人間生活の有機的な働き掛けの力を見えなかった欠点はなまじっか彼の科学性[#「科学性」に傍点]にあったわけです。そう云えば晨ちゃん[自注30]が病気再発で満二年絶対安静を云いわたされたそうです。中央公論は月給を払うそうですが。見舞の手紙を出しておきました。可哀想に。考えかたは現実にまけて妙な風だけれども病気は可哀そうね。国男今夜は袴羽織で坐っているわけです。では又。どうぞお大切に。
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[自注30]晨ちゃん――片上晨太郎。片上伸の長男。左翼的活動にも関係していたが、肺結核で戦争中信州追分にて死去。
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九月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十七日(十一日づけの次です) 第八十九信
机の上のタデの花は、部屋の空気でむされてしおれてしまって居りますが、私はパッチリやで上機嫌です。そのわけは、十月初旬迄の忙しい間も林町へはゆかず、ここにいられることになったからです。おミヤさんが、本田の家からこっちへかえって来て、ともかくその間いるように協定がつきましたから、林町と。午後来ました。おミヤさんというのは生来の愚善に、庶民のすれと消極とを身につけたひとで、可哀そうな老女ですが、一緒にいるのは平常の心持ではなかなか辛いのです。けれども今はそんなことにかまっては居られず、よろこんでいるという勝手な次第です。しかし私は、ここでともかく一人の人がいて、勉強出来てどの位うれしいかしれません。
土曜日には、いろいろと濃やかに心づかいして下すってありがとう。大変にうれしい心持でした。それに、読書のことも。
何となし休まってたっぷりした心持になって、ふと気がついて、ああほんとに、これが幸福という気持、と思いました。
御注文の本のこと、二三日うちに揃いましょう。合本にしている方がもしかしたらおそくなるかもしれませんね。達ちゃん、隆ちゃんには荷造りしました。きょうが日曜だったので明日出します。お菓子とおかずを入れてやりました。本のほかに。隆ちゃん、又「銃後の皆さまのお志」という手紙くれるかしら。グラフィックなどで馬の口をとって河を歩渉しているようなところを見ると、特別な心持がいたします。それはトラックだって同じです。人が降りてえらい目も見る。けれども馬は、馬も人もなかなかでね。
きょう忘れた頃になって浜松夫人から返事でした。瘍《かさ》が背中に出来た由です。体も無理でした由。何の病気かしら。やはり胸でしょう。それだけのことが、お習字のような丁寧な字で書かれていたきりです。
晨ちゃんのところからは細君がハガキくれました。よい方に向っているが、ゆっくりかまえていると、それはそうでしょう。
只今書いているのは「渦潮」、『種蒔く人』の時代から大正の終りまでです。この時代は一年一年が実に内容的ですね。おどろかれます。そして当時の端初的な理論の中で不明瞭にされていた(まだ歯がたたなくて)芸術性の問題は、以来十何年間やはり摩擦のモメントとなって来ているというわけです。だが、このモメントは結局、芸術の生まれる胎がちがう間は消えるものではないのです。あの菊池寛でも、一定不変の芸術の本体というようなことを云ったから面白いと思います。その点ではこの現実家にしてやはり観念化するところ。康成に言わせれば、そこに芸術の鬼が住む、とでも申すべし。
有島武郎の「宣言一つ」の本質を、今度はじめて当時の文芸の解釈との関係で理解しました。藤森の「犠牲」は、人道的苦悶の面のみをとりあげて、考えかたの誤りを見ていない。又、本月号の何かの雑誌で宇野と青野季吉の文学対談で、有島の苦しみは芥川より単純だと云っている。それもわかりますが、それかと云ってこの二人は有島の破滅のバックグラウンドを十分鮮明にしているのでもありません。婦人作家はこの時代に宇野千代、網野菊、三宅やす、ささきふさ、林芙美子等で、とにかく一方に前田河や何か出ているのに、婦人の方はおくれているところも意味ふかいと思います。「キャラメル工場」などは一九二八年・昭和三年ですから。
この作家が先々月『文芸春秋』に「分身」という日支混血児の女の心持をかきました。本月「昨日と今日」という、そのつづきが『文芸』に出ています。よんでみて、深く感じました。混血児が母や自分の血やに感じている愛憎|交々《こもごも》の心持、その間で消耗してゆく心持、それは、混血ということに仮托されているが、作者の内面に意識されている不幸感の描出です。その内容おわかりになるでしょう? 私は読後そのことをむきつけに感じ、作家的努力でこういう形へあてはめて描き出そうとして
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