ニ云っていたところ何が突発したのでしょうね。所謂事件[#「事件」に傍点]をたのまれたという程度でない直接さです。今夜はほっとして(咲枝かえったので)大早寝をいたします。この万年筆、割合書きなれましたね、そうお思いになるでしょう? 明後日おめにかかります、それまで。
八月二十六日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二十六日 第八十二信
こういう紙は林町でなければありませんですね。速達を夕刻。日比谷からかえって来てお湯をあびたところへ頂きました。栗林氏は、きょう日比谷へ見えませんでしたから、帰途宅へまわりおことづけをして来たところでしたから、八時すぎ電話で、速達の用向きを改めて追加してつたえておきました。
金曜日の用向き、皆その日に果し、伊勢氏にもつたえました。医典も速達いたしました。芝の方には、今朝面会いたし快諾を得ました。そのことはお目にかかりまして。昭和十年、九年の『毎日年鑑』の古い方の分はうちにないと思います。九年版が返送された頃は落合でしたろうが、あの家は私の知らないときたたまれたのでしたし。十年の分はやっぱり私がいず、おそらくきたない机の上であなたの本に貼るペイパアを手紙がわりにと思って、二三年分書きためていた時分ですし。困ったことだと思います。思案して居ります。
速達への御返事として、アメリカの本やへの問合わせ、すぐいたします。それからスノウの本は駄目でした。第六章、一章加ったのですね。本当に同じ本やのですから(統一への道)と、そのこともきいて見ましょう。これは明日は一日仕事にかかりますから、すこし御容赦ねがいます。
ユリの新薬のきき工合、おわかりになりますって、そうでしょうねえ。この頃の顔色、いいでしょう。深い桜色になるところ、私がおかげさまというのも尤《もっとも》とお思いになるでしょう。非常に工合ようございます。
それから詩の話も大変お気に入ったって。大変気に入った、という表現、何とうれしいでしょう。私が、仔猫のようによろこんで、大変、気に入った? 大変、気に入った? と、その玉にころがりかかって遊ぶようにうれしい心持、髣髴《ほうふつ》なすって下さい。よろこばれるというのは、本当に本当にうれしいと思います。
あしたの朝(日曜日)国男さん、太郎をつれて開成山へ行きます、来月三日ぐらいまでいるそうです。
咲枝、すこし早めに退院して来て、うちのことをいろいろ気づかうのはすこし疲れすぎますから、ようございます。
泰子見せてあげたいこと。実に啼かない児でね。生れて間もないのに手脚のびのびのばしてよく眠ることと云ったら。そして時々お釜の吹き出すような泣きかたをして、そのときはポンポがすいているのです。可愛い娘です。女の子の可愛ゆさは又一しお。きっとあなたも御覧になったらそうお思いになるでしょう。顔立ちは倉知系統です。水泳と何かテニスのようなスポーツよくやらして明るくて、落付いて苦労はしても所謂不幸にはならない娘にしようね、と咲枝と話します。咲枝ちゃんも、いろいろ見ているので、人間が困難をさけて生活は出来ないこと、しかし困難即不幸ではないように生きられることをいく分は知っていますから。でもあなたが、真に咲くようにと祝福して下すった通り、女の子が、そのように生きられるということの条件は複雑でね。本当に、真に咲き実った女の生涯を送らせてやりとうございますね。赤ちゃんでも、女の児には、女の児の生理があるのです、ちゃんと、もう。或る特徴が現れて、それはこの小さい桃色の体の内に、欠けるところなく女性が蔵されていることを告げるもので、昔の人は完全な女の子のよろこびにお赤飯をたいたのですって。大変にいじらしく思います。無心に眠っているのにね。私は、女の子は人生が受け身だから男の子の方がいいと思っていたけれども、こうしていろいろ見ていると、そういう点もやはり愛憐をひきおこします。可愛さにかわります。この点は大変面白い心持です。男の子に、私はやはり凜々《りり》しい資質、英気を求めていて、太郎にそれが欠けていると腹立たしい。可愛さの逆の面で。女の子に(赤坊だからだけれど)は初めからちがったところがあって。それだけ女の生きる道が嶮しいわけです。
泰子のお喋りをこんなにして。二人の子供たちをつれて小旅行にでも出られる年になること(二人の子が)たのしみです。覇気のある男はある。英気というものは少いものですね。
では月曜日に。早く参ります。どんなお天気かしら。大雨風だったらユリは、龍になるかもしれず。女は大雨のときは龍になるのですから、昔から。ではお大切に。
九月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月一日 第八十四信?
二三日又相当あつい日がつづきました。大体三〇度以上。御気分いかが? お疲れになりはしまいかとすこし気がかりですが。このところ致しかたありませんね。それにしても、どうぞ益※[#二の字点、1−2−22]お大切に。
昨日は、朝、日比谷へゆきがけに、お話の弁護士のところを訪ねました。承諾いたしました。それについてはお目にかかりまして。小さい男の子がポロポロとこぼれるように玄関に出て来て、ニコニコして面白うございました。三十五六歳の人です。或はもう少し若いか。
それから日比谷へ行く途中、気象台の下のところ、竹橋の角で、大体あすこは事故の多いところですが、木材をしこたま積んだトラックが、自転車にのった人ぐるみすっかり轢《ひ》いてしまって菰《こも》をかけてあるのを見て通ったら、段々妙な気分になって、手の平《ひら》が白くなって、フラフラしました。脳貧血がおこったのね。朝日がさしている広い往来の両側にどっさり自動車が止って、皆黙って見ている。白服がどっさり来ている。白オートバイ(ケイ視庁の)が来ている。それでいて、あたりは森《し》ーんとしているのです。そこを通る車はひとりでにすっかり速力をおとして、殆ど止る位にして通る。いかにも大きい都会の出来事の感じです。
日比谷では午後四時まで。きげんよい笑顔でした。さっぱりした物云いでした。かえり電車で来たらひどい混みようで、立っている脚に汗が流れました。窓の横棒に制帽の庇《ひさし》をすりつけながら居眠りしていて、時々片脚をびくりとさせ、今にもこけそうになっているどこかの給仕のような少年もいました。五時頃の市電はそういう乗客を満載です。
太郎が先週の日曜日に急に父さんにつれられて開成山に行ったの御話しいたしましたろうか。この頃はいろいろ事務の用事が多くて、家の連中のことちっともお話ししないでいますね。太郎、大変食堂車に乗りたいのですって。ニュース映画で見て以来。それで開成山に行くとき、昼になったので、食堂車へ行こうとお父さんが云ったら、相当てれた顔をした由。そんなところなかなか面白い。そこでランチをたべた由です。今頃は盛にどろこんこになって、あっちの友達と遊んでいるでしょう。水曜日に寿江子が行きました。一同は九月の三日ごろかえって来る由です。眠り病が四年来の流行です。十歳以下の男の児をおそいます。とんぼとりや何かで害をする由です。太郎に手紙かいて、片カナで、遊ぶとき帽子忘れるなと、けんめいです(私が代筆よ)。
泰子は相変らず一日じゅうよく眠り、のんでは眼をパッチリやって、又眠って。実に可愛い様子です。私たちからのお祝のほろ蚊帳が出来て、それは大きい赤い金魚がついていてね。その中に眠っている泰子はまことに奇麗です。女の子は妙に可愛いことね。汗が出るのでポツポツのおできが少し出来て、そのために目下入浴中止。大したことはないそうです。この娘はきっと大きい女になるでしょう。小さい足の先は細長いし(円くなくて)指の節ものびて居りますから。だから大いに笑うのです。咲枝たちよっぽどうまく粒の揃った子を生まないと、中條の方は皆ずんぐりですから。大きい子、円まっちいチビ、と並ぶと女の子なんか悲観するでしょうから。
私は今特効ある持薬のほかにオリザニンをのんで居ります。オリザニンは夏の疲労には大変よいそうです。強《あなが》ち脚気はなくとも。そしてそのようです。くたびれがくたびれるにしても軽いのです。次の朝には癒っているという程度です。もう一つの薬は、何と血行をよくするでしょう。神経にもよい作用を及ぼします。のんでいるときや、すぐその後は、体のなかが暖くなるような感じで。オリザニンもそうです。こっちはアルコールが入っているから。
木曜日、芝のひと面会に行きましたか。土曜日と間違えたのは、午後に行ってもよいということから何か話があの場でこんぐらかったのね(私がお話していたときのことよ)。
『家庭医学大典』もう届いていましょうが、如何でしょう。『医典』の方駄目ときまれば、南江堂の予約をとり消したいと思います。どういうものでしょうね。
今、前の高村さんで、子供のためのレコードをかけています。太郎のレコードと同じように妙な音を出している。段々のろのろとなって、フーウと低くなって、又あわてて甲高い音になったりして。目白の方はよその家、子供がいないというのでもないのに、こういう音はどのうちでも余りさせません。その点いろいろ面白い。私はいつ頃目白にかえるか、一寸不明です。十日までこちらにいることは確実ですが。全く身元不明の派出婦をおくことは、別な面から考えはじめました。それやこれやで。ひさが手紙をよこし、年の若い娘で或は来るこがあるかもしれないと云って来たので、早速そちらへたのみました。いずれにせよ、誰かあれば大助りです。たとえお離れへ住むにしろ(これは大抵実現せず、寿江子の方をいろいろ考えなければならないから)。
本年の冬は瓦斯なしデーというようなものが出来そうな風です。電力の配給についての自発的節約も、もうはじまっています。林町では、電気時計が一時間に二分―十分おくれるのでおやめにして居ります。
きょうから又目玉ぐりぐりです。せいぜい、丁を出さないようにしてやるつもりですが。六日までに二日、五日と一刻千金が二日ぬけますから。でも凌ぎよくなりましたね。風には秋がおとずれています。今月はどっさり仕事があって、どうかうまくどれもやりとげたいと思います。弁護士のことなど、まあ大体目鼻がついたところがあって、些か安心です。又大分謄写も出来上りましたし。
本のこと、アメリカへの訊き合わせ出しました。それからいつぞや「化粧」というソネットのこと(八月二十日ごろ)かきましたね。あすこと同じ発行所から『ビウェア・オヴ・ユア・バック』という詩が出ているのですが、どういう内容かしらと興味があります。「ユア・バック」というような字は訳す場合むずかしいことね。単純にうしろもあり次の世代を意味することもあり。とかく詩人は気取った題をつけますね。
『タイムス』を見ると、このごろ女の人の生活をかいた本が幾冊か出て居ります。所謂有名婦人のメモアルなどではなく、例えば病弱者としての生活や何か。
咲枝もう大体よくなって、昨夜は十三日以来はじめて風呂を浴びてホクホクして居りました。
この間うちの颱風警報は皆の心持に作用して居りましたね。菊五郎が甲子園で野外劇をやった折も、そのために五万の人出が三万になった由。ユリは嵐が来たら龍になるとかいたりしましたが、あながち嵐なしでも龍になれそうですね。では月曜日に。どうかお大切にね。
九月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月三日 第八十五信
速達をありがとうございました。弁護士氏行きませんでしたって? じゃ私のみならず、さきでも何かごちゃまぜにした感じで間違えたのかしら。土曜日にでも行ったのではなかったでしょうか。御話の趣、よくわかりました。こちらからは何も申さずにおきましょう。夫人へきいてやること、手紙もう出しました。近々返事がありますでしょう。上京は十月に入ってからだそうですね。大体のところ。
月刊の合本のこと承知いたしました。今度はすこし手間をとるかもしれませんが。
本のこと、こういうヨ
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