ナあるけれども、方法論的のこまかいことがまだ詳《つまびら》かでないから、先に期待すると云うのです。それはそうでしょう。まだ本当の形で作品の内容は示されていず、その変形のフィクションだけ出ているのですから。だから本当の作品の内容にふれたら、主題もその技法もうなずけることは明かでしょう。主題の深い歴史性、それを活かそうとする作者の献身、そこには実に人生的な感動すべきものがあるのだから。私はこれから「藪の鶯このかた」のつづきをかきます。『朝日』の月評で、武麟など婦人作家のことについて妙な、いい気なこと云っています。多分明日は上野、図書館。ではお大切に。女中さん二十円は出しきれませんね、さっき一寸来た人の話。

 一寸思い出してひとり笑いつつ。
『朝日』夕刊に、吉川英治「宮本武蔵」をかいている。そこに本位田の祖先に当る婆様が出て来るのですが、今日の本位田先生のお覚えのこともあって、この鬼のような婆さんはやがて改心して仏心にかえる。武蔵を愛して居り、武蔵も愛している娘でお通というのがあります。昨夜、仕事の途中でおなかすかして台所でものの煮えるのを待ちながら夕刊ひろげたら、佐々木巖流というのと武蔵が仕合に出てゆく海辺で、やっと辛苦の末武蔵にめぐり会ったお通がその訣れの刹那、武蔵に胸にすがりたいのを人目にこらえつつ、涙の中から「ただ一言……ただ一言」云々と妻と云ってくれとたのむと、武蔵が「わかっているものを口に出しては味がないのう」とか、吉川張りで云うのです。が、そこを読んで私はひとりの台所で、一種の感情を覚えました。そして、何となしにやりとした、大衆作家のとらえどころというものを。ただ一言、云ってほしい言葉というものをもっているのはお通だけでしょうか、そう思って。体じゅうにその言葉は響いていてそのなかに自分の心臓の鼓動をも感じているほどであるのに、やっぱりきいて、きいて聴き入りたい一ことというものはあるのね。ここのところが面白い。
 芸術の上でのマンネリズムの発生という過程はなかなか、だから、微妙です。そういう心が人間にないのではない。しかし、ひと通りのものを、それぞれ具体的な条件ぬきに、場合に当てはめるところに常套が生じるのでしょう。但、こんな大衆作家論のかけらが云いたかったのでないことは、お推察にまかします。
 ね、こうして私たち二人きりで暮している。この暮しのなかにはしみ入るようなものがあります。あなたは今、このテーブルのわきのアーム・チェアのところにおいででです。おや、そろそろ蚊いぶしがいりますね。

 七月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月六日  第五十八信
 六日も御無沙汰いたしました。水曜日は、優しい小さい花をいくつも大事に抱えてかえったので、うちのなかは何とも云えず賑やかになってね。仕事の間に疲れて寝台に横になっていても心の中に灯のついた提灯がおまつりのようにいくつもの木の間がくれに赤くみえるようでした。くたびれると、その木の下へ行って、目をつぶって顔をおしつけて休んで、そして『文芸』の二つのもの、一つは「藪の鶯このかた」のつづきで明治三十年代と婦人作家「短い翼」、もう一つは今日の文学に求められているもの、或は求められている文学について「人生の共感」、両方で三十四五枚かき終りました。それからすっかり家の大掃除いたしました。手拭かぶって。風呂の火をもしつけておいて、掃除して、御飯炊いて、そして丁度わいたお湯でザァザァといい心持に体洗って、折から雨の降って来た庭の眺めも満足して御飯たべたというわけです。そうして坐っていると、たのしい、くつろいだ空気の中に、おのずから浮んでくるのは優しい花模様の提灯の灯かげです。それは何と近々とあるでしょう。その中にとけこんで、自分もさながらその灯かげとなるような恍惚と戦慄とがあることでしょう。しばらく、しばらく坐っておりました。〔中略〕
 まあ、もうあのボーは五時? 何とこの手紙に時間がかかったのでしょう。でも、それはそうね。あたりまえでもあります。きょうは私たち一仕事すませた日なのですものね。
 唐突なようですが、私がまるでアルコール分に弱いというのは不便のようで、つまらないようで、でも、私のためになっているでしょう。もし平気だったら、私はきっときょうなど円い水晶の小さい盃で琥珀色をして重くとろりとしていたキュラソーをのむでしょう。その色と匂と味いのうちに、あらゆるものを再現させるでしょう。そしてきっと泣くでしょうね。悲しみというのではなく、ね。この円い美しい盃に、二輪の撫子の花をさして、その盃もくだけそうな視線で眺めて、涙をおさえられなくても、やっぱり私は正気でいて、あなたと二人、そういう心持をも眺めているようなところ。本当に不思議と思う。この盃、この透明で円くて、何一つ余計な飾りのない無垢なこの盃。わたしの宝の中には不思議なものがあるでしょう。小さい木魚だの、片方のカフスボタンだの、くずかと思うようなものもある。考えたら何だか笑えてきました。親愛な滑稽さで。私たち人間の心というものの。
 御注文の本、明日ぐらいに揃います。刑法切れているらしい様子ですが。〔中略〕
 体温計のこと、土曜日におめにかかって。私が慶応に入院していた時のことを考えてみると、一分計は余りつかわれていず、平形の五分計でした。それを六、七分はかけたと覚えます。十分ではなかったと思います。〔中略〕
 それから、一つ気味のわるいお話。新聞に出ているには、蜂須賀侯爵令姉年子という女のひとが(ひとりものの)、邸内に工場をたて、二十人の女工さんをつかって人間の髪の毛で混織毛織をつくる研究をしている由、国策。それはいいとして、このひとは、人間の髪の毛から調味料(?)をとるのですって。その上、何とかして髪の毛をコンニャクのようにして食べる法を発見したのですって。曰く、「それは美味しゅうございますのよ」、これには女の鈍感さがあふれていて、実にぞっとなります。髪から人間を食いはじめるということ、感じないのでしょうか。おそろしい想像がそこからのばされる、そのこと感じないのでしょうか。そういう研究[#「研究」に傍点]にひどくアブノーマルなものがかくされている。この人は少し変で、これまで妙な手芸品を出していましたが。ひどい世の中ですね。しみじみそう思った。理髪店から刈った髪買いあげてやっているのだって。きっとそのうちの女中さんたち、年子様[#「年子様」に傍点]の髪の毛のコンニャクたべさせられるのね。
 予定どおり八日に林町へゆきます。こっちへはおみやさんという(金色夜叉のような名ね)お婆さんが泊ります。私は太郎と朝一緒に出て、図書館へ行って、近いから調べるものしらべて、例の婦人作家の歴史書いてしまいたいと思います、咲枝二十一日間はいるかもしれませんから、病院に。土曜日、そちらへ行って、それから。そしてその後も、そちらのかえりにはきっとよるようにしましょう。家、閉めないでよくなったので大安心です。

 七月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月七日  第五十九信
 けさ五日づけのお手紙をありがとう。九月の風邪はそういうわけだったのですね。それは全く仰云る通りです、私も同じに同じところで何だかすこし冷えるわね、というわけですもの。冬夜具をお置きになるというのは一工夫ですけれども、先頃の夜着をおいておおきになって。掛布団の方は近々又もってかえりましょう。そしてよく乾して手入れしようと思います、いかがでしょう、そして麻の軽い掛布団がよかろうと思っているのですが。今こしらえさせているところです。冬のかけ布団十月ではおそいこと? 去年の秋の夜具不足もそのせいでしたか? それとも一枚厚いのがあればいいかしら。
 私の冷水マサツ、そんなに絶大の効果を感じたとおっしゃると、でも私やらないわ、と云う理由がなくて、困ったような気になります。窓はすぐレイ行出来るけれど。でもマサツもやりましょう。起きぬけに汗ばんだ体どうせふくのだから。そのときすこし念を入れて本式に。とにかく病気はしまいと思います。こうやって暮していて、体が苦しくないからおのずから会得する感じもあって楽しいところも感じて居りますが、もし先のようだったら、お茶わんすこし洗ったってフーというほどだったのですもの。この切ない体の持つ気持思うと、よくやっていたと感じます。だから、大事、大事。
 ドイツ語の作品のこと、年代記がわかるかどうかまだ不明ですが、心がけておきます。健康が十分になったらなんとやりたい語学や勉強が多いことだろう! と仰云る心持、本当によくわかります。そうねえ。あなたが今日の健康の条件を保っていらっしゃるということは、それだけが既に一つの云いがたい努力の成果だから、決して決しておいそぎになる必要はありません。高く評価される点では、作品そのものの切りはなせぬ一部をなす(である)と思われます。
 それにしても、生活というものは何と味いつきぬものでしょう、この頃又一しおそう感じて居ます。いつか、ユリが本来ならひとなんかおかないでやって行くべきだとおっしゃったことがありましたね、そのとき、私はなかなかそう行かなくてと云っていたと思います。しかし今こうやっている。そのことについて深く考えます。境遇というものに負けるいろいろの形がある、そう考えます。居る人があるとひとをおいて、いなくてはやれないと思う気持で暮している。しかし現実にいなくなって、しかし暮して行かなければならず、では、どう暮して行くかとなれば、やはり生活の一番本質のところを一層はっきりさせてそれを中心に押して暮す。自分としての生活の重点がキチンと並んだお皿の上にないことは、一目瞭然となり、でもひとがいれば、いる以上はと、そんなことを生活につきそったこととして暮している。そういうこまかいところから細かくない何かで会得されて来て、ユリが本来はひとなんかおかないで、と云っていらしたことが、どういうことかわかりかかって来ます、これはなかなか興味ふかいでしょう? きっちり暮している、そういうことで却って境遇にまけていることさえある、本当の芸術家としては。だから味い深いと思います。私たちには私たちの家庭生活があり、その形がある、そうわかっていても、何か世俗の標準型が忍びこむところがあったりして。いろいろ大変感興があります。ひさのお嫁入りもなかなか悪くない結果と思われます。一応困る明暮を、困らないでゆく、そこに質が変化されます、暮しの内容についての感覚が。書生暮しもいろいろの段階があるものと思います。大いに味ってやっているというわけです。ユリが金持でないことも、仕合わせね。
 私は自分が俗っぽくない、俗っぽいところが全くないような出来のいい人間と思っていないから、そういうことも感じます。生活からむけてゆくということ、それは一言には云えないで、むけようによっては人間がわるくなるが、むけかたによっては、やっぱり実に大切なことです。何か非常に大切なことがひそめられている。本質にふれたことがひそめられています。生活というもの、そして生きかたというもの何と微妙でしょう。そして芸術を創って行く人間の心は。広い、歴史の意味での芸術をつくろうとして人間が生活に積極的に当ってゆき、その芸術によって再び生活がひらかれてゆく、そのダイナミックな関係の切実さ。
 あなたが生活の中から身につけていらっしゃるいろいろなことということについても、考えられます。ユリは大変おくれてポツリポツリその要点をわかって、そこへ来つつある、そういう工合ですね。生活全体がジリジリ、せり上るのだから時間がかかること。それを見ている方は辛棒が大変ですね。
 勉強、十月十七日までには大冊完了でしょう、まさか。七月はがんばります。七八月中に大冊完了というの不可能でなく思えます、夏私は比較的勉強は出来るのですから。多忙の中で、ますます只のやりてやしっかりものになるまいと思います。敏活で、しかも一粒ずつがたっぷり実った葡萄のようにつゆもゆたかに重みある、
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