サういう刻々の心で働きたいことね。働いているそのさやぎのなかに、人間のよろこびのあるそういう活動性。『道理の感覚』はありません、どういう本なのかしらと思って居りました。買いましょう。徳さんは大変目がわるくて、その他のことからいつ立てるかしれない由。同情を感じます。ハガキ書くも辛いほど目がわるい、細君に代筆させない、させられない、そういう日々の雰囲気は目というような患いと感覚の上で一層切なく結びつくでしょうね。これから外出いたします。お母さん、なかなか当意即妙でいらっしゃいます。

 七月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月八日  第六十信
 きょうは午後一時半ごろになって、お目にかかれないわけがつたえられました[自注17]。けれども、全くつかれとは引替えにならないから、わけがわかって却ってさっぱりして笑ってかえりましたから、どうぞ御心配なく。日曜日に又行ってみましょう。どんな都合になるか。十一日から一日おきに、七月一杯外出の都合となりました。その方がやはりよいそうですから[自注18]。
 七八月は、大体大変外出が多くなります。七月中は日曜月曜とつづいた休日があるだけで、火木土、火木土と八時―四時頃まで出ます[自注19]。そちらへは、火木土のうち、火の出がけによってそれからあっちへゆくようにしようと考えますが、どうでしょう。土はどっちもせわしいからなるたけやめて。八時といっても九時以後になるでしょうから。すこしおくれればそれでよいし、又、つづき工合でおくれて困れば、別の水、金にしてようございますし、ね。そういう出勤つづきだから、いよいよもって私の書きつづけようとする仕事はむいています[自注20]。とても小説は駄目ですから。時間のみならず。一日おきずつ印象深いものの間を通るわけでしょうから。強い二つの世界に同時に住むことはできないから。私としてはこういう出勤珍しいことですが、よく注意して疲れすぎないよう、早ねも守り、マサツもやって気をつけますから御心配ないように。八月に入れば目白で暮せます。八月は派出婦でも雇います。そして、私の留守の間、あなたの冬物の仕立をすっかりして貰います。これはよいプランです[自注21]。〔中略〕きまった人は見つかりません。けれども八月はそれできっと工合よく行けましょう。目下のところ、それから先のプランなし。〔中略〕
 漱石の例をひいてはふさわしくないが、しかし、一人のものをかく人が四十位になってからものをかきはじめるというのは微妙な関係をもちますね。一通りは自分のものが人生的にも出来ている。だからすぐ一通り認めさせる。その同じレベルで或る期間はやってゆく。だが、という大矛盾が「明暗」に出ているようなものです。若くて書きはじめた者は、自身の未熟さ、しぶさ、すっぱさみんなかくもののうちに露出しつつ風浪のなかで、育つものなら育って来るから、一つの完成の線に止っていられなくてその点ではなかなか荒くのびて来ます。なかなかこの関係はおもしろい。今日の文壇というところ、新人が旧人です。これは何故だろう。世智辛いのね、世智辛いところが旧人をつくり、出来上ったところでなくては認めさせず、認めたと思うともう成長のないことを云々する。その典型は芥川賞。これはそういう両面を可笑しく映し出しています。常に。〔中略〕

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[自注17]つたえられました――朝から面会にいって、待っていて、午後になってから、顕治は、体が疲れていて面会したくないと云っているからという理由で看守から面会をことわられた。
[自注18]その方がやはりよいそうですから――この頃から公判がはじまった。顕治は、公判準備のため、各被告の予審調書をよんだり過労して、公判に出廷したため喀血をした。そのため暫く出廷できないまま、逸見重雄、秋笹正之輔、袴田里見、木島隆明、西沢隆二の公判がはじまった。スパイ大泉兼蔵の公判は分離して十月三日からはじまった。顕治が出廷できないために、せめて百合子が傍聴しておいた方がよいということになって、この頃からずっと連続傍聴した。
[自注19]七月中は日曜月曜とつづいた休日があるだけで、火木土、火木土と八時―四時頃まで出ます――公判の日どりと、時間わり。
[自注20]仕事はむいています――現代文学における婦人作家の研究。『文芸』に連載。九年後一九四八年『婦人と文学』として単行本にまとめられた。
[自注21]よいプランです――獄中の顕治のために厚く綿のはいった着物だの羽織だの、どてら[#「どてら」に傍点]が入用なのに、普通の仕立物をするとこは、東京では綿入れをしませんから、とことわられ、いつも困っていた。
[#ここで字下げ終わり]

 七月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月十日  第六十一信
 朝のうちは涼しいようだったのに午《ひる》頃から大分むしましたね、御気分いかがでしょう。フムと云って例のようにお笑いになる、まあ、そんなところね。どうぞ呉々お大事に。
 きょうは午すこし過までそちらで、かえりました。かえりに弁護士会館へまわって、いつぞやの人の方すっかり話がつきました。自分から届けを下げるそうです。自分でも、公判通知が来たので思い出したという範囲の由です。足労に対しては十分のこといたしますから御安心下さい。それがもう二時すぎ。おなか大ぺこで、日比谷の中の更科でおそばかきこみ。そこから林町へ電話かけました、昨日が予定日でしたから。もしか来て欲しくなっているのにいどころがわからないなど云ってさわいでいると可哀想故。そしたら、すこし何だか工合がふだんとちがって国ちゃんおそくなるというので、一旦家へかえり五時頃出直して、只今は林町の食堂。ここはこの頃皆腰かけです。もと、この食堂で手紙かいた時分は坐って居りましたが、今は腰かけ、きょうなどほんの二時間余、うちで座ったきり故何だか脚が重いようだこと。
 電気時計が音をたてて廻っていて、二階の雨戸しめる音がして居ます。太郎今ねたところ。
 明日は一日日比谷です。そして明後日そちらへ行って見ましょう。あなたのお体に感じられているいろいろの必要よくわかりますから、私の行くことについての御心づかいはいりません。只どうかなるべく体の条件に適したように、やっていらっしゃれるようになるといいと心から思っているばかりです。
 きょう、大分エレン・ケイをよみました、初めて。明治四十年代の日本の知識婦人たちには影響を与えていた人という意味で。興味深くよみました、その混雑ぶりを。ケイは三十歳ぐらいのとき、あの有名な婦人数学者だったソーニャ・コ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]レフスカヤやその親友で彼女の伝をかいている婦人作家(彌生子訳)たちに死なれ、大分寂寥を感じた由。二十年も(一八八〇年以後)ストックホルムの民衆大学でスエデン文明史の講義をしていた由です。彼女がものを書きはじめたのは一九〇三年なのですね。それまでのドイツなどの婦人運動が単純に「男と同権」の女だけ考えて来たのにケイは男とはちがう婦人の権利を諒解しはじめたという点では、ヘヴロック・エリスの云っているとおり価値があるでしょう。トルストイの恋愛や結婚、女というものの性に対する考えかたとの対比においても或健全の要素をもっているけれども、それにしても「恋愛は婦人問題の核心に位する」というその位しかたが、どうも今日から見ると架空で、上の言葉と「大いなる恋愛は勿論、世間的な諸方面の知識を理解するについては子供らしい欠陥を曝露するであろうが、併《しか》し謎と問題とにみちた自身の領域に於ては神の如きエイ智であり聖紀の宝賜でありまた奇蹟を行うの力である」云々ということばを対比して、それが、明治四十年代初期という年代の日本と、ニイチェのロマンティシズムの中で息をしている成瀬仁蔵のフェミニスムと天才主義にそだったらいてうその他を考えると、実にその矛盾においてよく青鞜というものがわかります。その意味でなかなか面白い。
 キリスト教の習俗の結婚が神聖であると思われていることに対する不満、箇人の選択による恋愛と結婚とが一致すべきものであるとの要求、又婦人が性についてリアリストになる必要を云っているところ、よい恋愛と結婚のよろこびが心と体のものであることを云っている点、旧いものからの婦人の目ざめは感じられますが、ここでは恋愛が至上であるから、貧しい人々にも恋愛をよろこぶ資格のある人にはその権利をみとめ、富んでいてもその資格ないものには認めないという、そういうフォカスが当てられているところ、これも成瀬門下の考えかた――つまり彼女たちの境遇からの感じかたとぴったりしていたのでしょう。
 下巻までよむと、恋愛における箇人選択の主張と、子供というものの公共性とが、どういう調和においてみられるのか分るでしょう。上巻の半まででは分裂があるだけです。母系時代のような子供の認めかたを主張するらしい。そして、どういう女が恋愛と結婚との新しい世界での勝者であるかというと、「イヴとジョコンダとデリラとを一身に具えている婦人」である由。些かあなたもおてれになるだろうと思われます。こんなきまりわるいこと云いながらケイ女史は真の恋愛の共感の微妙さは感覚的な真実にふれて云っているのに! そして、愛のひろさ深さ純一さのみが貞潔を生じさせると云っているのに、妙ね。こういう頭。非常に小市民風の思想家ですね。デリラで何を表現しているのかと思うと、ケイ女史の「焔の美しさ」云々も二元的なものと思う。サムソンを殿堂の下じきにしたようなものが、何か人間らしいプラスの力でしょうか。女のある及ぼす力を、一面からはそういうようなものとして見るのですね。この人は文明史を講義していたというのに、フリイドリヒの「家族の歴史」など本気に一度もよんではいないらしい。この人などきっとヨーロッパの伝統の中では、所謂自由思想家というタイプの典型なのね、きっと。今よんでいるのは「恋愛と結婚」原名「生命線」です。この次「児童の世紀」をよみ、それでケイ女史は終り。
 日本の三十年代には「短い翼」で書いた時代には、平民社の活動があって、いろいろ読まれているのに、そういうものが一般の中には成育しなくて、ひどく文学的に「みだれ髪」になったり、四十年代の青鞜になったりして行ったことにもよく女の生活の一般のありようが反映して居りますね、文化の土台が。
 いろいろと書いていて考える一つのことは、これまでの一寸した文学史では、例えば自然主義にしろ、花袋が明治三十九年かに「露骨なる描写」と云ったということはかき、四十何年かに「フトン」を書いたとは書いているが、四十四年頃から自分の態度に疑問を抱きはじめて、何年か後には妙な宗教的みたいな境地に入ってしまった、その文学の過程について歩いて見て、日本の自然主義というものを見きわめていません。自然主義をとなえた、そしてこういう代表作を出した。それっきりね、大抵。こういう消長の見かたにも、文学史の脆弱さは出ている。私は一葉のこと書いてそう思いました。一葉は文才と彼女の歴史の限界としての常識性と境遇の必要から、明治三十年後に生きていたら、所謂家庭小説(大正以後の大衆小説)に行ったでしょう、彼女が形式は新しい試みとして書いている「この子」という短篇に、そういう要素(家庭小説の)が実にくっきり出ています。本来的な問題をとびこえて、子は鎹《かすがい》という思想を支持していて。何か始めた、それも歴史的です。だが始めたことがどうなって行ったか、そして終りはどのような形に進展したか。この過程にこそ歴史の諸相剋が映されているのです、実に痛烈に映っている。ですから私は青鞜の時代を扱っても、その人々の今日の女としてのありようにふれずにはいられません。らいてうが大本教にこったということも一つの笑話ではないのですから。
 ケイは十八歳のときイプセンの作品をよんだ由。後に影響をうけたのはミルやスペンサー、ラスキン、こういう方向に行っている、再び彼女の自由思想家である所以、ね。明日はど
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