~的なのだから、一層はげしく女としての愛の渇望をも自覚し、しかもその現実での姿に適合したものがなくて、もし彼女が真に勇気と人間らしさをもっているなら、終に一つの巨大な母性へまで自分の女性の諸感情をひろめてしまわなければ、まともに生きぬけられないでしょう。これは実に悲痛なる女性の羽搏きです。女の生涯の深刻なテーマです。これまでの何人かのチャンピオンたちは彼女たちのいろいろのよい資質にもかかわらず、この女の愛の転質の苦しい過程で挫折して居ります、松井スマ子にしろ。彼女は、そして又多くの女は、現実の中で日常性で、謂わば動物的な自然の力から、彼女の母性をふくらがしてゆく子供をもっていなかったため、自分の人間性の要素の展開を自力でしきれなかった。それだけの精神の多様さ、自由な想像力、普遍性で自分一ヶの存在を感覚し得なかったのであると思います。
ユリが、一人の女、そして深く深く愛されている妻として、こういう風に考えるに到って来ているということ、私たちの生活にある様々の条件に即して観た場合、なかなか味は一通りでないと思われます。何年間かの生活で、随分苦しいいくつかのモメントを経て居り、又日々に新たなそういう飢渇のモメントをもちつつ生活して居る。そして思えば思うほどかけがえなき愛が自身に向けられていることを感じるとき、飢渇的な面に止っていることに満足されなくて、どうしたら、この愛が、よりひろい響きを発し、花開くかと思いめぐらすようになります。これは、すべての内的過程がそうであるとおり、いくつもの、年を重ねるさし潮、ひき潮があって、段々に海岸線がひろげられてゆき、少しずつ、美しい景観がひらけて来るというようなものです。非常に遅々ともして居ります。怒濤もあれば、気味わるい干潟の見えるときもある。そういう時は、私はまだいくじがないから、あなたのそばへよって、じーっと怒った眼付で、それを見つめます、その度ごとにいつも一つの情景を思い出しながら。或夜、春のようだねと云っていらした冬の晩、お茶の水の手前歩いていて、その辺は暗いところへ、左手からサーとヘッドライト照して自動車がカーブして来た、そのとき、私がびっくりして立ちどまりつつ、実際体であなたに近よったのは一寸か二寸のことですが、心ではすっかりつかまっていた、その心を自分で、自動車にびっくりしたよりも深く愕《おどろ》いた、そういう景色と心持とを常に思い出しながら。
ああ。この部屋にいると何と青葉の風が私の皮膚の上に青くうつるようでしょう。
二十二日
きょうは雨。いい日にふり出したと思います、すっかり干すもの干してしまって、きょうは私一日小説をかいているから、丁度二階が眩しくなくて。この小説はきょうとあしたとで書きあげます。一寸したの。しかし前からかきたかったもの。書いてしまったら申します、いつか話していた姉弟の話、あれはすこし大きすぎるのです、場所に合わして。あれはあれとして、別にかきます。
御気分はいかがでしょう。割合照りつづけましたから、きょうの雨はやはり悪くないでしょうか。
マツ、あしたの朝そちらへ行ってかえる迄いてくれます。それで大助り。月末には越後の方から女中さん、見つかるかもしれません。本間さんの知っている手づるから。誰でもよい、いる人さえあれば。そして年よりのひとでなければ。どうかあなたも御安心下さい。越後のひとは、辛棒づよくそしてお金ためるのが上手の由。私の世帯も、もしその子が来たらまかしてお金持! にしてもらいましょうか。但、それが裏がえしに作用されたら相当閉口いたしましょうね。大笑い。
ね、私は心からねがっています、あした工合がわるくなくて、代理ではなくお会い出来るように、と。あしたはどんな花にしましょうか。青々としてたっぷりした鉢植えがあればようございますが。いつぞやの藤、お引越しのときお出しになってしまったでしょう。今小説の中では、一人の女が、雑司ヶ谷の雑木林のところを歩いて居ます。
六月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月二十三日 第五十五信
ようこそ! ようこそ! けさはうれしいおくりもの。ありがとう。「ポストを見ておいでよ」とマツに云って、これが来たので、思わず目玉ひとまわりさせ、髪をとかしかけのままよみました。
勿論私は、達ちゃんたちにやきもちはやきません。いろいろそうやって本をよんだ心持など書くとは、達ちゃんも結構です。あなたのいろいろの御親切もそうやって通じて、うれしいと思います。同じ一年或は二年が彼の一生にとって何とちがう内容でしょう。
藤の話、そうだったの! きょうの寄植というのはいかがでしょうね。きれいで、匂いも心持よければいいけれど。
「ミケルアンジェロ」、環境の説明の点、たしかにそういうところありました。しかし、新書の読者のためには謂わば、ああいう説明そのものさえ有益でしょうから。仮名づかいはやっぱり腑におちかねるところが、或正しいカンでもあるのね。この頃は一般に、大変漢字をすこし使う文章をかきます、皆が。数年前の方向とは逆の方からのはやりとして。或種の思想家[#「思想家」に傍点]は特にそれを特徴とさえしている。
起床、就床。これはもうやや(ケンソンして)癖になりかかりました。体の調子が、ちがうのですものね。早ね、早おきがずっとされていると。仰云るようにして見ましょう。勉強、これは余りえばれません、十日以後は。今からおふくみおき願いますが。座談会の話、十分によくわかりました。そういう点では無頓着にしていないのですから、これからも猶気をつけましょう。
「はたらく一家」のこと、あれだけでも、きょう云われていることの意味は分っていました。わざわざありがとう。私は笑われるかもしれないが、こういうことに関しては、どんなに省略的にかかれていても恐らくよみちがえていうことは決してしないのです。よみちがえるというより、省略が即ちピシリという感じで来るときだけ、云わば読みちがいでもない、何というか、とにかく、変に強く感じて、汗を出したりするだけです。家庭物語や思い出というものがそういう意味で緑の原となるのは、やはり作者が、そこに流れている歴史の波と人との関係をはっきり把えているときだけであると思います。そういう点でしっかりつかまえて云うことが出来れば、こういうものも面白いものです。必要でさえあると思います。
「マリイの仕事場」などはそんな点からも面白うございます。これはなかなかいい小説の一つです、近くお送りしましょう。隆二さんの詩の話、(きょうお話した)すぐ思い出して下さってようございました、いつかからお話ししようとしていたことでしたから。その詩性についての私の解釈の誤っていなかったことも確実となって。
重治さん、『改造』に詩をかきました、バーンズとハイネの諧謔詩をまぜ合わせたような詩です。高すぎる本を買ってしょげたが、息子にその本をつたえよう、孫にその本をつたえよう、息子がおやじがおれにくれた本と云って孫につたえる、そういうような詩。極めて詩的でない云いかたで紹介して、わるいけれど、マアそんな風です。
さて、きょうは私はホクホクデイなわけです。朝こんなおくりものを頂き、そして、お代りではないあなたに会えもしたのだから。あの節の話、承知しました。そのように計らいましょう。
私は本当に御機嫌はいいのですが、気分はわるいという板挾みの有様です。カゼ。昨夜も八時すぎ床に入ったのですが、どうもはっきりしない、これは、こんなときカゼ引くとぬけないという条件もあるのですが、夏の風はこまること。益※[#二の字点、1−2−22]もって、目がちらついて来るようです。きょうはもう横になってしまおうかしら、思い切って。いくらか仕入れることの出来たこの薬を、大切に二粒ばかり口へふくんで臥てしまおうかしら。臥て、詩集でも眺めていたらこのカゼぬけてしまうかしら。御意見はいかがですか。小さき騎士の逍遙というのをよもうかと思います。すこしものういところのある騎士が、しずかな森の間や泉のほとりをそぞろ歩きしている、その姿はなかなかよく描かれていますから。立派な男の自然の気品、優雅さ、騎士の身にそなわる、それらの美しさをよむのが私は実にすきです。真に男らしい男の優雅さ十分の力や智力が湛えられているところから生じる優美さは、何と深い深い味でしょうね。そこから目をはなせない魅力でしょう。女でそういうだけの優雅の域に達している人はごくまれです。弱さ、しなやかさ、それは或魅力かもしれないけれども、十分足りているみのつまった、力のこもった美とは云えない。男の人間らしいそういう美を表現する可能をもっているのは音楽家ではベートウヴェンです。ワグナアは俗っぽくて、ヌメのようと形容した、かがやきの清らかさは表現し得ない。現代作曲家たちは、知的に肉体的に自身の男性を歪曲されているのが多くて、殆ど問題にならない。私はこの頃心づいておどろいているのですけれど、病気というようなもので肉体が或弱りをあらわすとき、いわば、耀《かが》よい出すという風にややつかれた肉体の上にあやとなって出る精神のつや、微妙な知慧のつやというようなものは、実に見おとすことの出来ない、真の人間らしい一つの花です。深い尊敬と愛とで見られるべき。では、三十日に又。
六月二十六日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月二十六日 第五十六信
さて、ひと息したところで二階へあがって来て、今度はゆっくり私たちのお喋り。小説ね、思ったより手間がかかって、今日送り出したところです。たった二十二枚ですけれども。それから夕飯の仕度して寿江子とたべて、寿江子出かけ。私はひとり実にたのしく、久々の風呂に入り、さっぱりとしたところなのです。もと、「小祝の一家」という小説、覚えていらっしゃるでしょうか。乙女という女主人公覚えていて下さるでしょうか、お菊とも云った。乙女がひろ子という女の生活の視野から去ってしまう前後の一寸した出来ごとと、そのひろ子という女が、小包をひらいて干している毛布に良人の重吉という男の髪の毛を見つけ出して、それをすてることが出来ず一つ一つひろって小さい髪の毛たばを指の間にしっかりともちつつ、晴れわたった初夏の日光の下に立っているときの心持、そういうもののくみあわさった、小さい作品です。ある雑誌のカットを見ていたら、そこに乙女の裸体が描かれている粗描を見出し、それをかいた男が、乙女のなくなった良人である勉の友人の一人ではあったがデカダンスの故にきらっていたその男であるのを見て、ひろ子が非常に切なく感じる、乙女もあるときは善意で生きたそれに対してもくるしく思う、そういう場面もあります。情感的であって、一味貫いたものがある味いですから、サラサラサッと簡単にはかけなかった。小粒ながら、実はつまった小説。そして小さくても書いた味は小説は小説。小説はつくづくすきだと思います。
本月は、間というものがなくてずっと次から次へ仕事がつまっていて、しかも一人三役で、本当に本当に盲腸がなくて何と楽でしょう。きょう女中さんのこと、心がけていてくれたもとの私の先生の女のひと、わざわざことわって来たからと云って知らせに来て下さいました。その女は、田舎のひとで、亭主曰ク「おやが貰えと云ったから貰ったまでで、俺にはとっくから好きな女がほかにある。俺の女房じゃない、親の嫁なんだからそのつもりでいろ。」そして、一ヵ月もしたらほっぽり出して妾のところへ行ってしまった。そしたらその女いたたまらないで東京へ働きに出たのですが、身重になっていることが段々わかって来て、今かえっているのだそうです。毎日泣いています。けれどもどう身のふりかたがきまるか分りません由。籍を、嫁入先の家でかえしてよこさぬ由。親が気に入っているから、と。そういうのもあるのですね、女の境遇は受け身だから、不思議と思うほどのことがよくあります。
女中さんのことは何とかやってゆきますが、七月中旬から折々一日おきの留守がはじまるようになりそうだと思
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