謔カりました。
ね、あなたはあなたのまるいついたてをどこへお立てになります? こんな風? それとも、こう? いっそのこと、邪魔っけな枠をみんなとってしまいましょうか。
そこで私は近く近くとなるにつれて段々小さく小さくなって行って、しまいに、私の黒子《ほくろ》に消えこんで、それで安心して、笑って、キラキラ光る涙をこぼして、それでおしまい。
先達って「ミケルアンジェロ伝」の中で、著者はなかなか芸術についても良識的な感覚をもって語っていていいと思いましたが、ただ一つ、ああまだこの著者には描きつくせぬところがあると、思いました。それは、芸術の態度、特に自然についての部分。覚えていらっしゃるでしょう。あすこに云われている過去の日本の芸術の伝統が自然に向って来たことについては、全く正当です。そして、あすこでとりあげられているのは読者のために有益です。しかし、あの著者は、まだ、人間が或場合、最も科学的でありリアリスティックであるがためにこそ、却って、青い青い月の光りのなかに満腔の思いをこめて、表現しなければならない場合のあること、そういう余儀なさについてはふれていません。ふれ得ないのだと思う。自然に対する東洋的態度というものそのものについても、もうすこし深くながめると、そのよって来るところは、自然へ逃避するという、一方逃避せざるを得ないものがどのくらいひろく存在していたかということであると思います。
支那の生活はあの位歴史的に波瀾多く、苦窮の底は深く生命は浪費せられていた、そういう支那に仙人や仙境が流行ったようにね。私はあの本のあの箇所をよんだとき、科学性に堪えぬものに恥あれ、と痛感した次第でした。つまり、月の光を語らせるものに。現実は何と微妙でしょう。ときによっては「不思議な国のアリス」の物語だって、決して非科学的ではないというような意味で、ここにまで及んで書きわけられる筆というものは、学問ではありませんから。
さっき隆ちゃんから手紙来ました。この間送った小包のついた知らせです、出発のときもたせてやった防塵目ガネ、やはり大いにたすかるそうです。ひどい砂風の由。日中百三十度ぐらいだそうです。周南町(市《いち》の方らしい)出身の人が二人いるそうです。隆ちゃんもやはりめきめきはっきりした手紙かくようになってまいりますね。書きなれて、字も自分なりにまとまって来るからおもしろいものです。隆ちゃんのは、いつも本当に簡単。便箋一枚。でもふれるところへはみなふれて、気持がわかりますから、心持よい手紙です。すぐ返事をやりましょう、これのつづきに書いて。では又明日。きょうは暑いけれど昨日のようにむしませんね。よくおやすみ下さい。
六月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月二十一日 第五十三信
そうかしら、四信ではないかしら。
それでもすこしはゆったりしたところならいくらかましでしょうとこちらの息もやや楽な感じです。かえったら南江堂の本届いて居ましたから着物と二包速達しました。今度の紺ガスリとある方は、本当にひとにお会いになるとき用です。今ねまきになすった方は、どうでもようございますが。紺ガスリ例によってそちらの洗濯にお出しにならないよう。お送り下さい。
きのうは、かえってからマツがなかなかアクティヴなので、すっかり夜具干しして、風呂敷につつんでしまって、きょうはマツ縫いなおす分のほどきものをして居ります。夜具がしめっぽくなりそうなまま戸棚につくねてあったりすると気になってしかたがなかったからいい心持です。でも痛し痒しで私は苦笑している、というわけは、マツは二日ばかりここへ来て大掃除手つだって上げてと云われて来ているので、活気溢らしていて、些か私の方がつかわれている工合です。私は布団もほしたいが、すこし落付いて書きたいものもあるわけなのですから。いろいろと滑稽ですね。でも、今快晴がつづくのは助ります。もうすこし経つと咲枝パンクで入院ですから人手たりなくなるし、私が留守いをしてやらなければならなくなるから。予定日は九日だそうです。咲は、太郎のためのみならず、ちゃんとした人がいてほしいのです。それがよくわかるし、ほかならぬお産のことですから、私も我マンしていてやります。国男はお産のときそばについていてやれないのですって。そわそわしてお酒のんで、ちっとも酔わないで、ウロウロしているのですって。全く古風です。お産をするおかみさんの手を握っていてやれないなんて、ね。
この間、法政の新聞に『ミケルアンジェロ』のブックレビューをかきました。そしたら五郎氏からミケルアンジェロの「奴隷」のエハガキに細々とかいたお礼頂きました。ノートとっては勉強する人の字はこんなにこまかく書く癖がついているのでしょうか、蠅の目玉よ。殆どエハガキの下の細かい印刷文字と等しい。よむのさえ大変。よくよく目がよくなくてはかけまいと笑ってしまうほど。私と私の愛するかたの健康と幸福とを祈るとあります。私の愛するかたと云えば、つたえるべきかたは一人しかないからおつたえ致します。この著者には前に福沢諭吉、新井白石の伝がありますね、大教育家叢書とかいうなかで。
一昨日は、この間うちからもうすこしでまとまるところになっていた開成山図書館へ送ってやる本の選択完結。『シートンの動物記』それからイーリンの時計や本の歴史、などそろえ林町へわたして、一安心いたしました。シートンが動物の生活を見ている見かたは、ファブルの昆虫より遙かに平明で、平日的です。ファブルの南方フランス気質の誇張やドラマティックな身ぶりはない。ややキプリングの「ジャングル・ブック」に似ています。やはりアングロサクソンの気風がある。しかし鳥のハドソンには劣りますね。こういう動物生活の研究者たちは何故しっかり科学の上に立ちきれないのでしょう。そして、チンダルがアルプスの氷河や旅について書くようにかけないのでしょうね。変にロマンティックになってしまう。シートンが、バルザックの「沙漠の情熱」アラビアの守備兵のフランス人が沙漠で一匹の牝豹と一つ穴にくらし牝豹が彼を恋す。逃げ出そうとすると豹が怒る、友軍に出会ったときのがれるために豹を射ち、その体を抱いて泣く。その豹の眼の色が恋した女のに似ていたから云々というような下らぬ話をそれなり筋だけとって書いたりしている、ことわりはチャンとつけていますが。これは動物の生活の研究者の書く話ではありません。シートンは画家でもあって、細君と二人天幕をもって何年もロッキー山脈のあなたこなたを旅して暮したのですって。書くものはともかく、そういう暮しはわるくあるまいと思いました。この人の顔の表情はすこしファブルに似て居ります。それでもやはり面白いものは面白く、今度寄贈のためにあつめた本の代金として国男の払ったのは五十円位ですが、大抵七割八割での本で、実質に到ってはなかなか優秀です。太郎が毎夏開成山に暮します。いつかはそれらの文庫をよむでしょう。「三年に一度ぐらいずつおやりよ」とすすめて居ります。こうして本のいいのが集ったら手元におきたい心持が実にする由。「だからうちでも一つちゃんとした本棚をおつくりよ」と云って居ります。揃って居るとよむ、そういうのですね。食堂のファイアプレイスのよこの棚をそういう本の棚にすればよいと云って居ります。さがしてよむのは本ずき、手近にあるのでよむ、それが普通。本のない家庭というのはいけません。太郎のためにそろそろ心がけなければ。
二十三日に工合が格別でなくておめにかかれればうれしいと思います。先月は八日以後は三度でしたが、本月きのうまでで三度でしたね。二十三日の後もう一度月末ぐらいという割合でしょうか。もしかすると遠いから無理でしょうか。無理かもしれませんね、用がさし迫らなければ、私は辛棒いたしましょうか。
夏のかぜというのは妙なものですね。ぬけにくいということはきいて居りますが、本当にぬけにくいこと。汗をかく、ゾーとする、クシャミスル、ハナが出ル。そういうことがくりかえされるのです。こうだからとそちらの大変さがわかるようです。
市内の赤痢は相当です。物価があがったから原料など惜しみます。そこからも原因がある。いろいろの世事。葦平が若松市の高額納税の第六位で一万何千とかをおさめるとか。古谷綱武という評論家(でしょうか)は独特な人ですね、『丹羽文雄選集』の編輯者となって、一巻毎に解説年表その他古典に対すると同じことをやっている。トーチカ心臓の世渡り二人組。林芙美でさえ、歎じて曰ク「男のかたは皆いいお友達をおもちだから」云々と。それは横光=秀雄などというコンビネーションについての場合だそうですが。
私は人の心のすがすがしさを求めます。誠意の安らかさと、つきぬ深さとをもとめます。そして、この渇望が、この頁の第一行めに結ばれるのです。はげしく、激しく。こうかくと、自分がまだどんなに光の源泉、安らいと励しの泉というようなたのもしい人物からは遠いかがしみじみとわかりますね。求めることにおけるアクティヴ。これはいろいろに考えられますから。考えの糸はまだつながって居りますが、一応これで。お大切に、どうぞ大切にね、
六月二十二日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月二十一日 第五十四信
この手紙は、さっきの手紙を書き終ってから下の四畳半へ引こしをして、旅行からかえって来た足につぎのあったカリンの四角い台をおいてそしてかき出しました。ここは右手に窓があってそこから光線が入るものだから、書く手元にうすい手とペンの影が落ちて、何だかシュールリアリストの「手紙」という題のような感じを紙面に与える。スダレがいりますね、これでは駄目だから。大分こちらは涼しく、光線が直接でないから落付きもします。たまには坐って見るのもわるくない。長時間は駄目ですけれども。
『セルパン』が来て、その中に女性の叡智、感覚、女性の知識と愛情などというものをいろんな人が書いています。知識と愛情というのは外国の女の人がかいているのですが、男は自我がつよいものであって、どんな愛情もその自我には抵触させない。自分の自我がおさえられそうな女は愛さない。女は、結局、知識をも、それによって魅力をより豊かにするように心がけよ、というような意味を云っていて、それは勿論どんな女にだって分ることだと思います、それだけ切りはなして云えばね、でも、現実はそう単純ではないから、そして今日の世界は決してそんな清浄界ではないから、男の自我そのものに女の人間としての歴史的な疑問も当然向くのであって、すべて女のもちものを、今日あるままの男の水準で魅力と思われる範囲に止めておく方が所謂仕合わせであるというところに大なる女の不幸があるのではないでしょうか。そして、大局には、やはり男の不幸が。パール・バックのこの誇らかな心では男にとって魅力以上であり、しかも女らしさに溢れる女の苦しみを語っているということをよんで面白く且つ非常にふかく印象づけられているので、なおそう思います。稲ちゃんの生活についてだって十分それが云えるのですから。だから女が従来のカテゴリイでの女らしさを殊更らしく云々したり、情痴的な要素にしか女の愛らしさを見なかったり、そして女も男も低いところで絡んでしまうのだと思います。ねえ、自分が可愛い女であることをのぞまない女が一人だってあるでしょうか。女のリディキュラスな面はそこから出ているとさえ云える位です。今日までの歴史のなかで、女が愛されることをもとめずに、愛して行くよろこびに生きようと覚悟のきまる迄にはどの位の悪戦苦闘がいることでしょうね。何故なら、女のなかにこれまでの歴史の跡はきつくつけられているのですから、やはり愛されたいという受身の望みが激しくあります。それにもかかわらず一方では、女の生活そのものが、その或ものをよりひろい世界に押し出していて、所謂手ごろな女の域はこえてしまっている。そういう場合、そういう歴史的な裂け目に立つ女は、いずれ、なみの女よりも情熱的であり或は意
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