黷ヘちがいます。目白の家で、寿江子が三つとってくれましたが(お母さんと私)まっくろで(シャッタアがこわれていておまけにフィルムの質が低下しているから)かすかに見えるだけ。それでもお送りして見ます。(島田へ)きっとやっぱり珍しくお思いになるでしょう。
 お送りする写真には何という題をつけましょうか、母上京記念写真と平凡につけましょう。どうぞそのおつもりで。隆ちゃんには見本として出来て来たとき真先に送りました。達ちゃんには本と一緒にこれから。隆ちゃんのところへはきっと永くかかるでしょうし、一日も早く、お元気なお母さんのお顔見たく思って居るでしょうから。
 図書館通いが、胸のバタバタでおくれてしまいました。きょうはまだ外出せず。『ミケルアンジェロ』をよもうと思います、書くもののために。若い人々は一冊でもよい本を知らねばならず、そのよみようも知らなければなりませんから。そして、「時間は人間成長の室である」という言葉のおどろくべき豊富な内容にふれることが大切ですから。
 今朝『朝日』に、室生犀星が、豊田正子の近く書いた「おせっかい」というのをよんで、「正子に詩がない、詩をもたずに生れた少女の運命」というようなことを云って居ます。詩をもつ少女とは、では何でしょう。
 彼女にあって問題なのは詩の有無以前のことです。ものを書くのは、元来、この毎日の生活のうちにある自分の心に何か語らずにいられないものを感じて、生命の声として書き出すのに彼女は作文を今日のジャーナリズムに煽られ、そのままフワフワと来ている。本をよむという、よりひろい世界を知りたいという欲望さえ持たない少女。目の先耳のはたの声をそのまま片はじからメカニックに模写するものとして。テムプル以下でしょう。問題は、文化の低下状態、文学の低下とむすびついているわけです。その低下と一部の人の妙な純粋性への偏向がああいうジャーナリズムの産物を存在させている。詩。室生さんも人造悪の小説かいて、まだこういう範囲で云っている。人造悪をも詩の一種と感じるほど、彼の日常は常識市民の雰囲気であるのでしょう。
 図書館に行ってすこし読んで書きたいのは、明治初年に日本でややかたまって出た婦人作家というものの存在について。彼女たちが、小説をかく、そしてそれを発表し得たこと。そこには、明治の開化、女子教育、男女同権と云われた時代の空気が反映しているけれども、ではその作品の内容というものは果してどういうものであったろうか。『中央公論』の感想に一葉のことをかき、それにつづいて、彼女の場合でも、やはりそれを感じました。当時、二葉亭などの書いた文学と彼女の文学、その相互的な関係を見ると、歴史的に、彼女は、女が書くということに於ては新しい時代を具現し、かかれる内容、文体、そういうものでは古いものの最後の星とでもいうような、輝きかたではなかったろうかと思うのです。
 自然主義文学の永い時代、一どはかたまって出た婦人作家の一人も、謂わば働きとおさなかった、それは何故か、野上彌生などは『ホトトギス』からですから。写生文時代以後です。やっぱり、明治の初頭に現れた彼女らの現れかたによっていると思われます。それらのことは、今日、女の作家というものが現れているそのことのありようにも関連していろいろ考えさせ、引いては豊田正子のような人造もの書きに到ります。それらのことを書きたいと思います。男の子に正子がない、あり得ないことについて、ね。岡本かの子の巫女ぶりと正子とは、文学と婦人とのいきさつのピンとキリを示している感です。
 明日おめにかかれば、又書くことが出来るのは分っているけれども、これはこれとして出します。
 ひさがここにいるのももう一週間足らずです。ああ、筧さんの奥さんの話ね、あれは先方の家庭の工合、考えようで駄目だそうです。これから十一月迄農繁期ですからどうせなかなかないでしょう。繁治さん、きのうの日曜日にはユニフォームを着て野球に出かけたそうです、服装一切会社から出て。体位向上なのね、きっと。本当に明日はどんな御様子を見ることが出来るでしょう。呉々もお大事に。こんなこと云わずものことという感じ、云っても云っても云い切れぬ感じ。いつも二つがぶつかった心持で、この字をかきます。

 五月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月三十一日  第四十三信
 余り久しぶりだと、前の晩眠らなかったりして、折角きれいな血色を見て頂こうと思うのに。
 気分大してましでもおありにならないのに、私の薬のことありがとう。本当にありがとう。どうかゆっくりと願います。すべてのことはあなたの体の工合をもととして行くのですから。きのう自分で気がついたのですけれど、お目にかかった最初の一目、私何とも云えないきついような眼付するでしょう。一目で御様子を知りたい心持、どうかしらという心持、その故ですね、どうぞあしからず。夜具使っていらっしゃること知って一安心です。ひさも、「マアようございましたこと」とよろこんで居ります。
 きのうはあれから一度家へかえって、電話かけて、仰云っていた弁護人のひとたちのところを訪ね、用向きを果し、それから新宿までまわってひさのお祝いにやる帯の仕立てのことをたのみ、島田へお送りするお菓子を中村屋で発送注文をして六時すぎ、へとへとになってかえりました。きれいな干菓子お送りしたいと思ったらこわれるから送れませんて。そこで、懐中しること古代もちとをお送りしました。
 かえって見たら、そちらから小包が二つ来ている。一つは写真、一番古いのから。段々見くらべて、最近御上京のときまでのを見ると、そこには何と生活の様々の推移が示されているでしょう。達ちゃんの出征のときのはまだそちらね。
 もう一つのをあけて見たら、古くからの手紙類。一束一束見てゆき、ああと体の中を暖い、いい心持のものが流れわたるようなうれしさで、くたびれだの、眠られなかったことだの、すーと忘れるようでした。そこにおかれてあるのね。そこにおかれてある。そこにある。これは感覚に訴えてさえ来ます、一日のうちには幾度か、その視線の下にあり、そして折々ひろげられ、互の生活の全身を響かせるのであると思う。よろこびの感情や幸福感は、何と急に、思いがけない包の中などから立ちのぼるでしょう。適薬のききめとこのうれしさでゆうべは実にぐっすり眠りました。枕へ頭おっつけて、挨拶をしてあげて、自分のおでこのあたりに、紺大島の紺の匂いを感じながら。
 書類についてのことは、きっと今日話があると思いますが、よくわかりました。すっかり全部とるということが徹底しましたから。昨夜速達で大泉という人の写し上中下三冊送られました。あとは出来しだい、片はじから金を払って、片はじからお送りすることにしてありますから。
『ミケルアンジェロ』は近頃での感銘ふかい本です。もうすこしで終ります、きのうは電車の中までもって歩いて。感心した点は、およみになって居るからくりかえさず。私はメレジェコフスキーがルネッサンスを書いた(レオナルドを中心として)小説を昔よんでいて濃い印象をのこされているので、その根本的な現実の姿として面白い。ブリューゲルの絵を、ベルリンの画廊で見て、あの時代の画家の中では目について離れない、その画家が語られているのも親密です。ブリューゲルの絵は、つかみかたがいかにも生活的で、色も落付いた美しさに充ちていて、上質の散文のような美です。レムブラントを詩とし、ルーベンスをゴブラン織として。
 この著者は文章にも一方ならぬ苦心と注意とを払っているのがわかりますが、文章の仮名づかいのこと(音表式でゆく)どうお思いになったでしょう。作家の保守的なこのみからでなく、よんで行ってどうお思いになったでしょう、例えば「わ」という字、「は」の代りにつかう。「はなわ」、「はなわ」どっちが「花輪」か「花は」か、勿論前後のつづきでわかると云えるけれど。音表で、は、わ。へ、え。を、お、等統一されることはローマ字への便利のため、子供のため、いいと思われますが。ぶつかるようで初めよみづらかった。これは単なる習慣でしょうか。変ってしまえば、それでなれる、そう考えてしかるべきでしょうか。
 今日の国語、国字の改良問題運動の中には卑俗なものその他がどっさり混りこんでいるのは実際ですが、たとえば子供|読《よみ》ものの再吟味で、講談社が氾濫させ、子供の注意を散マン低下させた粗悪な漫画がいくらか減ったのなど、やはりよいことの一つとして作用しているようなものです。
 女学校に英語はいらないという声があって、県によっては早速やめたりしたそうですが、今度必修課目の一つと決定。これはきわめて当然のことです。英語が何も立派だとか高級だとかいうために必要なのではないのですものね。カンは指では切れない、カン切りがいる、その謂であるのですもの。語学そのものをかつぐのはタカホ夫人板垣ぐらいのものです。
 きょうは、『ミケルアンジェロ』を読み終ってそれについての感想、かかなければなりません。メレジェコフスキーのレオナルド、それから新書でやはり出る児島喜久雄の『レオナルド伝』へも連関させ、書くの、たのしみです。
 イギリスにマリ・ストウプス夫人という性に関する科学研究家があります。妻、母としての生活の面からいろいろの研究をしていて、一つの本では、自然というものの洞察において非常に優秀と感じたことあり。日本では婦人の医者で、両性の生活を語る人は、最も低い科学性(自然の美への感動や愛や人間感応の微妙さへ十分ゆきわたらない)に立ちやすくて、所謂単なる生理において語っている、それは、いつも、そういう知識があるだけ美しさも味もその人からへっているという感じを与えるのですが、ストウプスは科学的著述でもごく人間の全面から扱っていて、無知から生じる不幸をふせごうとして居る感じを与えます。そしたら、この人は詩をかく人でした。ハイネマンから『若き愛人たちのための愛の歌』という詩集が出ました。バーナード・ショウが、著者の科学的基礎は、愛の詩に箇人的でないものを与え、これは全く新しいことであり又、稀に見るテーマの厳粛性を与えていて、興味がある、と云って居ります。どうも深尾女史の「葡萄の葉」を凌駕すること数段であるらしい。人体解剖に人間への感動なしに向うのは間違っているというのが当っているとおり、人間の愛や愛の表現へのおどろき、真面目な献身ぬきに両性のことを語るのは間違いだから、日本にも、所謂ふちなし眼鏡チラリという式でない婦人の科学者が出ればいいと思います。同時に科学の希望である筈の未知の領域に向うと、直ちに原始的になって宗教をとなえ出さないような。わからないことは、今にわかることのたのしさとして見るような健全な。科学者が妙なところで足をすべらせるのは、考えれば、やっぱりごく箇人的に見ているからですね。自分の一生でわからない、するともう人間に分らないと思い、人間の力に限りがあるという風に云う。自分中心に見ると、そう見れば見るほど宇宙は縮小するから滑稽ね。
 ストウプスの詩集というのは欲しいと思って居ります。少くとも会うよろこび、やがての倦怠、秋の木の葉の散るころは、あの公園も今は思い出という離別と、あくびの出る定型ではないでしょうから。私は、すこしは、凜々と鳴るようなそういう詩もよみたいと思います、本当に。私たちの詩集のほかに、一冊ぐらいそういうものを現代がもっていてもいいでしょう、ねえ。
 現代文学は、世界のありようを反映し、文学を生み出す人々のその中でのありようを反映して、皆どの国でも(例外はぬき)愛は壮厳の域迄達せず、せいぜいがペソスですね。それにコルベール(女優、「夢見る唇」をやった)風の悧巧さが加味されたような。日本では又独特にちがっているが。
 あしたから又、毎朝、すこしずつでも手紙書いて出すことにいたします。一つの手紙の中に、一日ずつかきためてゆくのでなく。十三日まではまた半月。こんな機械ないでしょうか。あなたはお動きなさらないでも、私がそこのどこかまで行って、
前へ 次へ
全77ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング