「るし、日本の観衆にとって大したことなく思えるこの作品も、きっとそういうアメリカでは、アメリカ的楽天性に入ったヒビに対する膏薬なのでしょうね。金貨ジャラジャラやって哄笑していた顔が、ペソスのある笑いの漂う口元になる、その道しるべとでも云うのでしょうか。
十八日
『婦人公論』の短いものを書いているところへ電報。書くことにふれて自分たちの生活を考えていたところへ。短い用事の文言ながら、何と生々しい声の響が感じられるでしょう。くりかえし、くりかえし。手から離れず。
短い時間で書き終ると思っていたら、何だか、書くことから心が遙か溢れてしまって。
ペンクラブで、ポーランドから来た人の招待会があります、六時から。
十九日
今日を待って待っていて、こちらでは大変番号がとぶのを気にして居り、その気持でお顔みたら気分わるそうで、何だかいろいろなものが一時に重ったような気分でした。お大切に。どうかおたいせつに。三十日ごろにはきっと大分ましにおなりになるに相異ありません。ね、私は自分のこの心配を現しようがないからね、毎日を猶一生懸命に暮そうと思います。書く仕事としては『婦公』と『改造』と『三田新聞』とほかに一つ。『婦公』は座談会が二十日にあり、それと二つになる。どれもこまごましてはいますが。『文芸春秋』の六月に、小説代りにと一寸した感想のっています。
きょうはあれからすぐ東京堂へまわりました。ヘラルド社の本は和英対訳で、部分訳であり、元出た本のように只訳したのではなくて、もっと本の筆者の側から紹介したり何かしている本です。金原書店その他の医学書は一つもなし。南江堂へすぐたのみました。
それから文房堂へよったら、店員がすぐ「もうヒンクスウェルスはなくなりました」と。例のペンのことです。「もう?」とおどろきました。バタもなくなるに近い程度に減る由。これは組合の話。ここへは、私の女学校時代の先生だった夫人のお嬢さんが結婚するについてのお祝をさがしに。梅原龍三郎のバラの複写。あたりさわりなく華やかなところもあり、それを縁ごと買って届けて貰い、おひるたべてからそれを持参。
かえったら南江堂から本が届きましたが、全部は揃わず。産業医学のは品切れ、半月程のうちに出来ます由。金原のは二十、九十五となくて、これは二三日中に持って来ます。そしたらすぐお届けいたします。
これらの本、それから座談会の用意のためによんだ本、いろいろ深い感想を湧かせて居ります。体の事情がいろいろの段階を通り、それが一つとして単な[#「な」に「ママ」の注記]反覆ではない通り、心配という、こういう心持もやはり、今日のように新しい経験にふれて行くのは微妙です。(この心持は又いつか)どうかお元気で。代筆でも代弁でも辛棒しますから。そちらへ行かないからと云って、私がのーのーと宵いっぱりして、のーのーと朝ねしていられないこと分ったことではあっても、でも又表かきましょうね。私は一つもあなたに心配をかけたくないの、ですから。頁のことも。特別土産のこと(お母さんの)伺ってようございました。
ああ、それから達ちゃん隆ちゃん、其々新しいポケット型の支那便覧をつけて送りましたから。
五月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十日 第四十信
ふと思い出したのですが、枕ね、やっぱり元のをつかっていらっしゃるのでしょう、ようございますか? 空気枕は、やはり空気をすこし入れて、何かの上において使わないとポンポンして落着きませんでしょうね。
ゴムがなくて、これから出来るのはこわれやすいから一つ買っておこうと思います、いずれ御入用でしょうから。
うちの母方の従妹で、和歌をやり、ラグーザお玉さんの大ひいきである古田中[自注16]という奥さんの息子、だから私の又いとこ、が八日に赤坂に入営しました。召集です。挨拶が来ました。その家は男の子三人、女の子一人。男の子の最初です。すこしこちらにいて、出かける由です。
二十一日
さて、昨夕は数寄屋橋外のニューグランドで『婦人公論』が一つの座談会をやりました。岡山に国立の癩療院があって、そこの院長光田という先生は、日本で明治三十年代に初めて癩の国家施設をつくったその当時からの専門家であり、四十五年間の努力をつくしている方。もう一人は昭和に入ってから大学を出て博士をとって熊本の同様のところで活動している林という少壮。その二人を主として、大谷藤子(作家)平井恒子(婦人運動の方?)私とがきき役で、いろいろの話をきいたわけです。光田さんは歴史そのものであるから話は尽きない。大変面白うございました。或点から私たち外部のものに語られない面の多くあることも判りましたが、しかし、一つ深く感銘したことは、『婦公』の思惑では、小川正子の「小島の春」が出たりして一般の関心がたかまっているから、かくれた婦人の献身者の話などきき、女のサアという声を発しさせようというところにあった。ところが光田さんにしろ林さんにしろ、特に老年の光田さんという人の心持は、スケールが大きくて、そういうこせついた一箇人箇人の一寸した插話というような網にかかって来ないのです。だから結果として実話[#「実話」に傍点]的なものからは遠くなったのですが、私はしみじみその点敬服しました。その人は救癩と減癩そのことについてなら、いくらでも話します。しかし自身のこと、又箇人のこと、決してヒロイックに語らない。クリスチャンですが。本気でそれにかかっている人の没我、それはあながちクリスチャンだから謙遜だというようなものでもないのです。私には他の例で実にそういう没我の確乎性を実感せしめられているわけですから、その人の内面のありようが血液の流れの幅として感得されました。そういう意味で愉快でした。クリスチャン・ドクターですね、しかし話の間にそういうものが根本に作用しているという風には決して話さない。そういうところにも永い経験の結果があらわれているわけでしょう。病理から入ったのだそうです。病理解剖から。二十年後日本は無癩としたいという目標の由。広東省辺に非常に多い由。インドにも多いよし。伝染だから隔離がなければひろがります。光田氏反応と云って菌を一遍煮たのを注射すると、ひどく腫れてうんで菌を押し出す作用が健康人にはある、それを注射してふくれないのは、見たところ何ともなくてもあぶない、保菌ということになる由。これが経験せられてから、病の有無などの鑑別に世界的貢献をしている由。そういうことはともかく(読んでわかることですが)あの光田という人の話しかた、生きかたとジャーナリズムというものの対比は実に感銘深かった。一事をなしとげるとはどういうことかということを示していてね。日本全体で三万足らずの患者の由(台湾、朝鮮のことは出ませんでした、そう云えば。貰った表にもなかったと思う)。
一寸別の話ですが、北條民雄が川端氏に推されて小説など発表するようになったら、癩文学というような語がつくられたことに北條は非常に不満を示しています。生理的の病気で文学の性質をわける、特殊に見る愚劣さについて。これは、かねがね私が北條の文学で川端さんが命の力をやたら感歎することについて、ある憤りさえ感じていたのと、或る共通をもちます、逆な方向から。私はあの当時よくそう思った。そこらの文士どもは、何と日頃命の緊張その意味、それを持ち又すてることの人間性の内容を感じることなくいるのだろう。ああいう特殊な病との闘いの形でだけそれを見たように思っておどろく、何の精神ぞや、と思っていた。何と動物的に無自覚に命をもっているのだろう(そういう病でハッとするのだって、動物性から大いに作用している。トルストイのイ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ン・イリイッチの描写を見れば彼の方が遙かに鋭い。トルストイは動物性を自分の人間としての日夜の中にはっきり自覚していたのだから。彼の解釈と批評の当否は又次の問題として)。
きのうは出かける前、人生のフェア・プレイのことについて短いもの『婦公』にかきました。
二十二日
きのうは何という風でしたろう。大森や芝に大火事がありました。あの風の中を、昼から帝大の医学博物館見物にゆきました。案内してくれる人があって。
もと、いろいろなところにちらばって置いてあったもの(法医学教室や何かに)を、赤門の銀杏並木をずっと入った正面つき当り、藤棚(池の上)の右手に新しく出来た法医、病理、解剖などの教室の三階全部にまとめたもの。この間荒木文相が帝大に行ったので、そのためにもいそいで並べた由。珍しいし、いろいろ面白く、四ヵ月の胎児の骨格というのを見て感動しました。それは実に小さくてね、而もまるで精緻な象牙細工のように、細かく細かく全部の骨格がすっかり出来ているのです。肋骨にしろ、肢の指の尖《さき》まで、骨ぐみは妻楊子のようであるが出来ているのです。その小さい小さいものがそれだけ完備しているのさえおどろくのに、この小さいものが、全体で、ずーっと大きいものに迄成長するというのは、何と感服するでしょう。命の力の含蓄の深さ。ね。私ぐらい複雑な感動で見たものはなかったでしょう、心からの good wishes を自癒力にかけつつ。寿江子も行ったので林町にまわり夕飯をたべ、国ちゃん珍しく送って来てくれました。呉々よろしくを申しました。アボチンからも、アッコオバチャンのオジチャンに「よろしくって云ってね」の由。太郎この頃お弁当もちです。二十四日に生れてはじめての遠足に日吉台へ行って苺とる由。咲のおぽんぽ大分雄大です。太郎「赤《アカ》こちゃんの顔が早く見たいや」と云って居ります。太郎がいい子でお兄ちゃんになれそうならいまに赤こちゃんをくれるという話です。鴻の鳥なんかという面倒はないので自然で結構です。「オレ御用のときは赤こちゃんおいていくんだよ」と自分が御用[#「御用」に傍点]で絶体窮命したことを思い出しているから大いに笑いました。
『三田新聞』に今日の風俗というものについて六枚かき。『中央公論』の嶋中社長が二十万円出し、あと年五万円ずつの費用で財団法人国民学術協会が生れました。現在の顔ぶれは学界、思想界、文学界の権威二十五名で、文学の側からは正宗、藤村二人で桑木、三木、西田。小倉金之助、石原純。津田左右吉、穂積、和辻、如是閑、小泉信三、阿部賢一、末弘、杉森、笠、松本蒸治、東畑精一等の諸氏。会員は四十名を限定する由。又洋書の欠を補う「西洋事情研究会」というのが出来、これは独伊を中心の由。又国語協会主催で子供読物懇談会というのがあったとき、皆小さい活字やルビの害を一掃しようとしたら吉屋信子が、「私を小説家にしてくれたのはルビのおかげです」と反対論をとなえ、大いにわき立って、二日でも三日でも議論しようという人が出て、女史は「いずれ文章で」と会場を退去したというようなこともあった様子です。何だか笑ってしまった。女史はいつか小林秀雄が日日の会で、当時『日日』にかいていた女史がいるのに、「吉屋さんの小説なんてなっていない」と云ったまではよかったが、いきなり立って、「サアどこがなっていない」とつめよられ、あとグーとなってその大芝居は女史の勝だったということあり、その例を反覆したのでしょうが、今度の対手は、性質のちがう人々だったので気合いが通らず。ああいう人々の経験主義が露骨に出ている。
ひさ、追々かえる時が近づくので、代りにたのんであった友達とはっきりした話したところ、どうもグラグラで駄目。先方の奥さんにうらまれることがあっては私も閉口故、やめと決定しました。改めて、誰か一緒に暮す人を考え中です。映画批評をやっていた筧さんという人が結婚して一年ほどで死なれ、その細君、赤ちゃんつれて今筧さんの親のところに(日本橋辺)います。細君は戸塚の家に暮していたことのあるひと、一緒に。もしかその人が来てもよいことになれば、うちに子供もいていいかもしれません。今日稲ちゃんに相談いたします。女中さんとしてではなく。一緒にいてくれる人として。
お工合はいかが
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