ハの豊富さに目がくらんで、ちっとも評価がないから。そのよりどころがないから。学んで来るには、先ず、何が学ぶべきものであるかを見きわめなければなりませんものね。
    ――○――
 うちに雨もりがします。風呂場と四畳半。これはきっとうちで屋根やでも呼ばなければ改良されないかもしれない、もう二度も大家さんの屋根やが来たのですが、瓦を買わないのよ、だから不足の分があってそのままだから、いつも洩るのです。家賃をあげない。そのことを[#「を」に「ママ」の注記]じっと腹にあるにちがいないから、きっとなかなか屋根や呼ばないでしょう。
    ――○――
 これから、一つの交友録をかきます。半島の人々との交友録。誰という人を中心としてかくことは出来ません。昔知っていた詩をかく龍済さんにしろ、今はどうなっているやら、あっちへかえるときから妙なこと云っていたから。特に半島の人々との交友という点に着目したりするところに或不自然があると思います。そんなことを書こうと思います。
 それを書いたら本読み。もう少々で第一巻終り。分業というようなことでも大ざっぱに考えているだけであったのに、いろいろわかり面白うございます。それに又文学的と笑われるかもしれないが、この本の構成の立派さが実に屡※[#二の字点、1−2−22]感歎をひきおこします。文学作品の構成というものは、つきつめると、一人の作者が、その現実の諸関係をどう見ているかということの反映であることが、こういう違った例で一層確められます。その展開の方法、掘り下げの方法、そして又再び発展してゆく動的な思索。偉いものですね。一口に云えない美しさ畏《おそろ》しさがあります。分業についてもプラトーンなどが「人が才能に応じて、適当の時期に、他の仕事に妨げられることなく一つの仕事だけをすれば、一切のものはより豊富に美しくつくられる」という点について肯定しているのと、科学として存在しはじめたばかりの経済学が、当時の分業の性質の上に立って、どこまでも量と交換の場合の価値からだけ問題を見たということ。いろいろ面白い。プラトーンなどが、作られるものの、質のより優良という点からだけ分業の価値を見たこととの対比が。昔々、プラトーンの「リパブリック」など哲学としてよんだ時代からぼんやり盲目窓のように立っていたものが、こういう現実的な光りでパッと開いたような面白さ。
 五月十五日
 家のぐるりの若葉の緑が一層濃さをましました。同じこの界隈でも、私たちのこの一隅は特別に木立が多くて新緑の美しいのは目っけものです。
 平林彪吾という名でものを書いていた松元実が先日急になくなりました。何かの中毒から。
 きのうは、おきまりの読書も七十頁ほどやり、又、別の小説一冊よみ。一日読み暮し。小説というのは上田広の「建設戦記」というので、これまでのものとちがって、鉄道部隊の活動に即して何日間かの経験を書いたものです。汽車という一つのものが中心となっているところ、おのずから他の場合の小説を思いおこさせました。そして、様々の危急や苦難に対して、肉体と精神の力をつくしてそれを克服してゆく努力そのものの姿。それはそれだけとして見れば最善のモーティヴによる生命力の発揮の場合やはりそうであるから、深い感想をさそい、一片の感傷ならぬ永い哀れを感じさせました。いつぞやの書簡集(新書の)あの読後感に相通じます。作者はいろんな小説を読んで来ている人ですが、これを書きつつ、それらをどう思い出し思いくらべていたかと考えると、分らないところがのこります。作者の内面のありようについて、ね。そこに、文学の本質的なテーマがあるのだが。そこからさす光はない。
 疲れ幾分ようございますか? よくお眠りになるでしょうか。可笑しい夢を見て、東京市内遊覧でモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の博物館の前を通ってこんなに雑作なく遊覧なら来られるのにと思って自分をのせているパリの自動車運転手の黒い皮の丸帽を眺めました。思い出していたことがこんがらかったのね、可笑しいこと。まだやっと月曜日。どうか呉々もお大切に。

 五月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月十六日  第三十九信
 きょうは珍しい小一時間をすごしました。庭で土いじりをして。きのう、栄さんのところへ一寸行って、東中野のところで萩を三株買って来ました、六七寸の芽の出たのを。白二本赤一本と。それを一昨年朝顔をからました濡縁の柱の横に植え、去年栄さんが上落合の記念と云って、元の家の門の入口にあった大きいアカーシアの樹の実が落ちて自然に生えた芽をくれた、それを鉢からおろして戸袋の前の日当りのよいところにうつし、そうしているうちにひさも出て来て、久しゅうほっぽりぱなしになっていた空の植木鉢のゴタゴタを片づけたり、ポチがこしらえた縁下の穴をうずめて平らにしたり、のめり出して芽立っている青木の枝をとりまとめたり。何と珍しいでしょう。大分きれいになりました。が、つくづく眺めて嘆じて曰く「よくよくつまらない庭だねえ。」情緒のない庭です。大家さんの気質が反映して居り、庭をいじったりしている暇のない私たちの生活も現れている。何とかもうすこし、奥ゆきをつけたいものだと眺めました。
 私にもしそんな暇や金があれば楓の多い、小径のある庭をつくります。芝生に灌木の茂みがあって、その下に並んでねころぶによい静かなかげをつくります。冬になると、濃い濃い紅梅がチラリチラリと咲き出せば申し分はありません。ずっと昔、エチオピアに、今ロンドンにいる王が暮していた時分、日本人のクックが行っていて、その話に、エチオピアでは人のたけほどの紫の菖蒲が咲くのですって。その紫の花が咲き連っている間を、色の黒い高貴な面立ちの王が、黄金色の日傘をさして散歩されるのは、美しい眺めだったと話していたのを憶い出します。さぞ、と思われますね。その王様の娘さんはロンドンの或病院で看護婦として働いていられます。王妃はこの間、大層悲しそうにハンカチーフを手にしてロンドンから去ってどこかへ行きました。
 栄さんの庭には、どくだみをいくらむしっても生える由。鶴さんたちの庭は変化なくこの頃は鳥かごの並ぶこと十三。『中公』から評論集が出る、その目次と原稿の一部を渡さねばならない、髭をそらなければならない、シャボンの泡をなすりつけながらお金とりに来た鳥やの爺さんを長火鉢の前に据えて、「ホーからケキョまでが短いね」と云っている。鶯のこと。「通せばいいと思うんですがね」「通すって何のことです」と私がきく。とやにつく六月―九月をしのげばよい、という意味とのこと。ほー。マアそんな工合です。中野さんのところの庭には、西洋間の前に藤棚があったのが去年の二百十日でふっとんで、それでもさすがは世田ヶ谷ですから牡丹だの何だのと名のつく芽があって、南一杯日もさす。手っちゃんのところはいい大きい沈丁花もあり、木蓮もあり、百合その他季節の花が植っているが、どうも植っているというのに止っている様子です。
 御気分はいかが? この頃は皆体の工合よくないと云っています。
 十七日
 きのうは、午後から評論家協会の催しで、駐日弁事処長とかいう仕事をしている人で趙滉という人の芸術に現れた日支民族性という話をききに出かけました。所謂士大夫の教養としての文化、古典的文化、支那趣味として日本の諸賢に接触されている範囲の支那文化の特長と日本の文化の特長を対比的に話し、「芸術というものは決して大衆に判るもんじゃありませんよ」(日本語でこの通りに)と云われる考えでの話ですが、特質の或対比は、はっきりつかんでいてなかなか面白かった。支那の芸術は、すべて要素の複雑さ豊富さの融合渾然を愛し、総合的関係の間に生じる調和を愛すが、日本の人は簡素を愛し、一目瞭然を愛し、何にでも中心を見つけたがる。支那人にそれはない。茶も華も支那から来たものだが、それが日本に来ると茶道となり華道となる。道《ドー》がすき。そして形式化し、例えば茶道で茶わんを評価するのに五つの要点があってどうでもそれにかなわなければならない。本家の支那にそれがない。こまかい、いろいろのこと、面白かった。底の深さが。只古典的見地の基準で対比されているだけの話ですが。非常に内包するものの大さを感銘しました。そういう座談会で、日本の大家は、盆栽《ぼんさい》はどこが本家でしょうという問いを出し、人間生活には偶然ちがった場所で同じようなことが始められることはよくあって、そういう場合は、文献によるというが、文献が早く出来たところが本家というようになるので、云々。その問いも答えもやっぱり性格的で、なかなか見ものでした。この人の話は清朝どまりです。下村海南という御老人の老いても益《ますます》なるジャーナリストとしての注意力のあらわれ方を興味をもって眺めました。何か一寸した漫談随筆のトピックとなるような箇有名詞や画論など、或は書の筆法のことなどは、チャント万年筆出してノート出して書きつけている。やがて居睡り。「ところで支那の料理を例にひきますと、例えばフカのひれの料理」と云ったら、パッとして又ノートをとりあげました。実に面白いわね。パッとさせるコツを実によくつかんでいる。日本に永くいた人の由。日本の或種の人々の支那趣味というようなものをよくつかんでいる。実業家との接触が多いからですね。皮肉につかんでいます。
 今、てっちゃんがよってくれました。呉々よろしくと。そしていつ頃行ったらよいかと。金曜日に伺いましょうね。石川千代松の本を面白くよんだ由。そうでしょう。勝海舟とこの人の父とは友達であり晩年の海舟は知っていた由。別の話ですが、明治文学について宮島新三郎さんの書いた本を一寸見たら、明治七年に日本で殆どはじめて明六社雑誌というのが出て、その同人に西周、加藤弘之、森有礼その他のうち、西村茂樹が加って居るのを見て面白く思いました。てっちゃんのお祖父さんという学者が佐倉藩に身をよせたとき、やはりこの茂樹がいろいろ世話をした由。孫が目白で顔をつき合わしてホウと云っているとは、いかな先生たちでも思い及ばぬところでしたろう。茂樹という人の顔は知りません。祖母の話で、女の繻珍《シチン》の丸帯をほどいて洋服のズボンにして着たとか、英語の字引を祖母も手つだって手写したとか、小判を腰につけて堀田の使いで不忍池の畔を歩いていたら、女の体では足が一歩一歩やっと出すような重さであったとか、土蔵にこもって上野の山の鉄砲の玉をさけていたら窓から流弾が入って、一人息子の一彰の背中にとまって、それを母である祖母がぬいてやったとか、いろいろの話。
 おきまりの読書、その中で、南北戦争がイギリスの木綿製造の機械を改良させた速力のおそろしい勢であることが書かれて居ります。「風と共に」の作者はそういうことをどのように知っているでしょう。アメリカが一九二九年の恐慌から後、ヨーロッパ大戦以後持続していた繁昌を失って、文化の面でもその影響はつよく、人々は(アメリカの)失われた繁昌、くみかえられてゆく社会層の現実をまざまざと見せられるような作品をすきになれない(そういう意味ではセンチメンタリストであり、甘やかされた子供であるから)。そのためにアメリカ文学の現状は、現在のありように切りこんだ作品よりもミッチェルのような古い伝統の手法で、ごくあり来りの題材を描いたものが売れる。これは『文芸』に出ていたアメリカ人の評ですが、なかなか語るところをもって居ると思われます。
「我が家の楽園」というアメリカのアカデミー賞をもらった映画が日本にも来ています。原名は You can not take it with you で、金のことです。事業事業でやって来た男と、植物学をやっていたい息子、一種の変りもので切手を集めてその鑑定でくっている老人、その孫のタイピスト、いきさつは、人生の楽しさは金にはないということを云っているのですが、日本に来ると、これが優秀作かと思われる。死んで持って行かれやしまいし、と金について考える考えかたは日本に行きわたって
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