ノしかやりません。前のときから見ると、吹き手も上達しました、幅が出て。
 おおひどい風だこと。ガラス戸が鳴って、ゴーと風の音がします。こんな風の中にあれはプロペラの音でしょうか。オートバイではないようです、翔《と》べるものかしら。
 夜かえって見たら、島田からお手紙が来ておりました。久しぶりであなたの優しい温顔に接し、親切にうちのこともいろいろ相談してくれたので、上京したらはずみがついて元気になったと云っておよこしになりました。ようございました。私が何度か島田に行っていて、こまごましたお母さんのお暮しの好みを知ったのも好都合でした。例えば、すのものをあっちでは実によくあがる習慣やお風呂のことや。お風呂にでも、芝居などすこし改った気分で出かけなさる前にはお風呂にお入りになりたいことなど。小さいことですが、やはりそのつぼが合うことは快適ですから。酢のもの、私はすっぱいから余り自分ではたべません。そんなこともね。今度は私もたんのうして居ります。あなたも随分御苦労様でしたが、その心持は同じでいらっしゃると思います。あなたにも手紙書くがとあり、二人の息子に上京日記をこまかく知らしてやりますともあり、若々しいお手紙でした。
 いつぞや月給二百五十とかで赴任した人からも手紙が来ました。あっちには糧棧《リャンザン》という農作物の特殊な中間媒介業があって、いろんな点でお百姓の生活に深く入って居り、この高利貸風な商売人は統制のため、小さいのはつぶれ、大きいのは益※[#二の字点、1−2−22]強大化しているそうです。
 私がシベリア鉄道での途中、一寸降りた長春の夜の町をぼんやり思い出しますが、今は特殊市という日本人だけの新設区があるのですって。住宅難で旅館暮し。勿論日本風。そこで臥起《ねおき》して、勤めに出て、勿論日本風、デパートに買物して、勿論日本風。お茶をのみに喫茶店に入って日本の女の人と喋って日本ダンサアとダンスでもすれば、ぴんからきりまで日本にいると大して変りませんそうです。一歩外へ出ればチンプンカンプン。満語のお稽古に着手の由。書籍定価の一割高。印刷費、名刺など倍。物価総体三割ぐらい高の由。支那街での支那料理とタバコだけやすい由。畳一枚五円―七円の家賃の由、それでもないそうです。
 東京では十万戸の家が不足しているそうです。稲ちゃんたちの家がないわけですね。国ちゃんが離れをかす気になるわけですね、一畳 1.50―2.00 が今日の普通だそうです。離れ40[#「40」は縦中横]で、借りてがおがむ由。おそろしいようなものです。尤も畳数にすればやすいわけですから、標準より。
 寿夫さんも、専門の農業に腰を入れてとりかからざるを得なくなって結構です。科学的研究は未開拓だそうです。社会が複雑でしかもおくれた方法でやられているから。地方的に又民族的に、様々の微妙な錯綜があるそうです。
 いつか「孤児マリイ」という小説御覧になりましたね、あの作者オオドゥウの「マリイの仕事場」というのが、又堀口さんの訳で出ました。
 巻末に、「孤児マリイ」にふれて私の書いたブックレビューが長い全部のっけてある。孤児マリイの広告兼紹介の意味でしょう。これからよむところ。「光ほのか」よりはいいそうです、これはフランス語でよんだ網野菊さんの意見。「光ほのか」は、作者が所謂文学的に意識して、簡明に描き出せば十分面白いところを妙な心理描写、夢幻にしているから駄目でした。作家が、自分の持ち味を自覚しなければならず、しかも自覚された刹那既にそこからの脱皮が努められなければならないということは、容易でないことですね。常にそれは或螺旋形を描くものですから。短い直線で、あっちへぶつかりこっちへぶつかりというのではないから。根よく持続してしかもキリキリと巻き上らなければならない。主観のうちでは、精一杯ねじをしめて、巻き下げを試みることが、真の質的な巻き上りであるというところもありますし。
 このこととくっつかないようで、私の心持では非常に何か関連のあることなのですが、お母さんが御上京になって、毎日手をつないで歩いて、私には初めて島田の家の人々というものの真髄が分ったところがあり、それはやはりこの世における一つの愛すべきものの発見で、ありがたいと思うところがあるのです。父上はじめ皆に共通である真率さ。あれは島田の宝です。いつかのお手紙で、お母さんから父上のお話もよく承るようにと仰云っていましたが、話は相当伺いました。箇々の場合の、ね。でも、それを一貫した気風とでも云うようなもの、精髄的なもの、つまりテーマは今度の略《ほぼ》一ヵ月の間にしっかりと私の感情の上に映され、それを愛すようになり、テーマとして懐姙したわけです。こういう過程は微妙ですね。そしてやっぱり、精一杯の接触をしなければ生じないところ、おろそかならぬものと思われます。私は何年か前から、謂わば大層遠大な志の上に立って島田にはあなたもこうなさるに違いないと思うよう、細々と心をつかって来ましたが、それは、今日の理解や共感に到達するための段階のようなものでもありました。これは、現実的には、お互いっこの効果をもたらしているわけですが。お母さんの側としても、やはり、その段々がおいりになったのですけれども。
 ひどい波瀾の世俗の波をかぶりつつ、一家が今日に到って見れば一つも暗くなく、歪んでいず、在り得るのは、結局皆がちっとも斜《はす》っかいになったところのない心持でそれを生き通して来ているからであり、精悍なそしてやさしい美しさがあります。あなたがうちの人たちについて、やさしく常にお考えになるわけね。お父さんとお母さんとについて、変らざるねぎらいをお持ちになっているわけですね、実にわかりました。島田の人々を益※[#二の字点、1−2−22]わかることで、深く気の合うところがあることで、私のましなところが豊かにされてゆく、そういう人間関係はありがたいことね。
 隆ちゃんと皆がとった写真、この手紙と同時にお送りいたします。裏へ「弟隆治渡支記念写真」と書きましたから、どうぞ。左のひとは今何という名か一寸思い出せない。あの島田のうちのとなりの馬車をひいている物知り癖のひとの息子さんという人です。横になっていらっしゃるのに、さっぱりしない気温でよくないこと。風の音をきいていらっしゃる、眼が[#「が」に「ママ」の注記]見えます。

 五月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき)〕

 梅雨のさきぶれのようなお天気です。御気分いかがでしょう。夜着只今出来て来ました。十九日の金曜日に持って参りますから、どうかそちらの方そのようお手配下さい。
 私のくたびれ大分直りましたから御安心下さい。手紙は別に。
  五月十四日

 五月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月十三日  第三十九信
 大分降ったら空気がかわって楽になりました、すこしつめたくもなって。御気分いかが? きょうのような日は横になっていらしてもしのぎよいでしょうね。すこしずって頂きたいんだけれども。よくて? 窮屈かしら。
 さて、静かな声で、ゆっくり私たちは話しましょうね。
 きのう一寸お話の出た、お母さんの特別土産の御注文のこと。すぐ私が思いつきませんでした、その程度であったのです、うちでのお話でも。それはもとより珍しく東京に出ていらっしゃるのですから、もしやという希望も万更《まんざら》もたないわけではおありなさらなかったでしょうし、もってかえれるものならば、というぼんやりした願いだっておありになったでしょうが、それが目的とはっきりしていたのではなかったし、それぬきで十二分の御満足です。お手紙もよくそのお気持を現して居ります。それだけ御満足の行くように、又つとめもしたのですもの。だからあなたの此上の御心くばりはいりません。安心なすって大丈夫です。東京迄行ったのにというようなお気持は決して決してありません。やっぱり行ってよかった、元気が出た、そういうありさまですから。
 きっと島田からのお手紙がついて今頃は同じことがおわかりになっていると思います。
 きのうと今日で「マリイの仕事場」を読み終りました。なかなか面白いし落着いた作品です。パリの女仕立屋の生涯と縫女の様々な生きかたと雰囲気とが、女仕立屋という仕事のひどさと一緒によく描かれて居ます。「光ほのか」これは最後の作らしいが、それよりずっとようございます。しかし訳者はこの小説をいました、でした調で書いて居り、仰云いましたと迄は行かないが、云われましたという風な敬語をつかって、マリイの人柄を出そうとしています。すこしこれが疑問です。甘いと思われる。含蓄というようなものは、人柄の篤さというようなものは、そういう云いまわしにはないと思われますし、原文に敬語がつかわれていたとも思われません。
 女のやさしさ、或は心やさしい人というものを、敬語のつかい方で現わそうとするところ、何か今日の雰囲気と合わせて却って俗っぽい。女のひとの作品が、文化のより高い方へという意味で評価されるのではなくて、よりつみがないというようなところより文学専心というような面で見られている現在のありようとも、対応している訳者のジャーナリスティックな神経があるようで。
 この小説は、パリのありふれた町のどこかを思い出させます。歩道に向って、下は雑貨屋というようなひろいガラス窓の店。その二階か三階かの羽目に、横長く黒地で金文字の何々裁縫店という看板が出ている。のぼってゆく階段は、下の店の入口とは別の横についていてね。歩道の向う側から見ると、型人形が立っていたり、ミシンを踏んでいる女の肩から上のところが見えたり。二三軒先に小さいカフエがあって、鉄脚の白い小テーブルと碧《みどり》と黄とでぬった小椅子が往来に出ているというような街すじ。歩道には新聞紙の屑が落ちてもいる。木曜日とか金曜日とかに市が立って、女の魚売りがゴム引布の大前掛をかけ、肱までのブラウスで、片手を腰に当て、片手をのばして大きくひらいたり握ってふったりしながら、ケンカのようないい威勢であきないしている。そんなような街。
 アパートにしろ、パリの古いアパートは階段が暗くて狭くてぐるぐるまわっていて、何百年前に建ったときから日の目は見なかったというのがどっさりあります。
 ソルボンヌのそばあたりには古い建物が非常に多くて、その便所が、水洗には改良されているが、コンクリートの踏石(レンガ位の大さ)が左右にあって、あとは流し口のついた凹みだけというのを見たことがありました。随分びっくりしたのを思い出す。パリの真中の、こういう長い長い歴史。コウカサスの山の中でやっぱりこれと同じ仕組みのを見ました。但こっちのは絶壁に向ったさしかけにこしらえられていて、こわかった。
 親たちはペリエール並木道というところのアパートに滞在していてね、そこは、地下電車が真中を通っているが、その上は公園のような植込みになっていて、電車も車道もなく、従って道幅は大変ひろい。向う側のカフエの赤と白との日覆と青塗の植木の鉢とがやっと見えるような街でした。そこの表通りに面した五階か三階でした。台処の通用口は玄関とまるで関係なく建物の横手から全階に通じていて、雇人たちの住むのは建物の頂上の半屋根うらの一階ときまっている。(雇人なんかうちの連中にはなかったけれども)
 日本の御飯を母がたべたがって折々私が台処をしました。カロリン米をたいて青豆を入れたりして。
 そのアパートに近藤柏次郎という人がいました。どんな生活をしているのか分らなかったが、ピアノの名手であったそうです。この人は母堂が急死したら、家産を親戚に横領され、急に帰って来たが、その状態がわかったら、お嫁貰ったりしたのに芸者と死んでしまいました。ピアノで立派に生活出来たのに。パリパリで、妙になってしまったのでしょう。こういう、文化の素朴な伝統の中から、ああいう底なしの壺にうちこまれると、キリキリまいをしているうちに、ズルズルと沈んでゆく。非常にそういう例は多うございますね。多様さや外
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