ノなったのは今度初めてと申せます。私の張りきりかたもわかるでしょう。初めてのとき、お母さんは「もうどこも見たくなんかない」と仰云る。それを私がひっぱり出してね。「東京へいらしたのによそを見もしないでおかえりになるなんて、そんな負けた気ではどうなりましょう」と無理やり江井でおつれした。そんな工合でしたもの。今度は本当に御自分も御自分の目で見ていらっしゃれて、うれしいし張りあいがあるし、共通の話の種が殖えてようございます。島田で、東京へ行こうと思うとおっしゃったとき、私は飾りなく云えば、さてと困ったの。実に困ったの。おいでになり、第一日第二日まだお気持がきまらず、それがわかりましたが、もう今日では、あなたのお心もよくのみこめたから、いっそせんない思いをさせることは云うまい、云うたとてどうなろうか、というところに落付いて、こんなに皆が大切にしてくれるのもあなたのおかげ、と思っていらっしゃる。大変結構です。御上京になって甲斐があったと申すものです。あなたのやさしい笑顔や、その上でお母さんがどんなに足をとどろかせなすっても、ゆったりと持ちこたえる気持の豊かさ(ゆたらかというのね、あっちでは)にふれて、しこっていたものがとけたようなお気持と見られます。よかったことね。二日のお手紙の、奥の手のお望み[自注15]というところ、大変ユーモラスに「ハアよう知っちょりやる」と笑っていらっしゃるという工合です。これらはすべて望み得る最上です。私の心くばり、いろいろのお伴、皆甲斐あった、本当にうれしゅうございます。あなたも気がおくつろぎでしょう。それにつけても母上の愛情の本能的な聰明さには深く敬意を感じます。あなたとさし向いでいらっしゃるお話の内容は存じませんが、全体としてね。可愛いものの求めているものが、勘でわかるというのは、やはりその愛が主我的でないからこそです。
私たちの生活の雰囲気、例えば、私が鏡台というようなものもなく書生流に暮している、そんな些細なことでも御自分で御覧になって、やはりようございます。二人で手をとって、東京の街や日光の杉の間を歩き、「私は一人二役だから、どうしてもお母さんには半分息子のようでしょう?」などと喋りもいたします。お母さんも何年も何年も前の召物をきていらっしゃる。私も。「私はこれでなかなか宮本家の家風には合ったお嫁ね」と大笑いしたり。冗談のようだが実際ですね。三つ指式であったら、私は自分が熊の仔にでもなったように工合わるくて迚ももちませんでしたろうから。仕合わせと思います、嫁さんとしても私はやっぱり仕合わせ者ね。
お母さんは改まると普通の標準的応対になっておしまいですが、話をくつろいで私となさるときびっくりするように表現的です。即物的です。例えば、お父さんが、挽回しようとして益※[#二の字点、1−2−22]益※[#二の字点、1−2−22]積極におやりになる、「そのまぶしさちゅうたら、ハアどないな活動写真にもありません」こういう表現。実にヴィヴィッドでしょう。田舎の活動写真なるものの感覚を通して全生活が集約されて居ります。どんな文学の才能だって捏造不可能ですね。
いろいろお母さんとお話していて、お父さんのことに及ぶと、お母さんがどの位お父さんの性格の真髄をつかんでいらしたか、そしていとしく思い愛していらしたか、まざまざとわかり、私に二重にわかって(お父さんの良人としての魅力とでも云うべきものが、極めてデリケートな点ですが)自分の胸に潮のさし迫る感じです。一昨日や昨日、私のかわきは激しくて、胸のふたがとれてしまって、風がじかに吹くようで本当に苦しかった。そしてやきもちをやきました。自分で笑いながら、目に涙をためながら。
夕刻、お母さんお出かけのすこし前軍事郵便着。隆ちゃんです。四月二十六日出。無事○○に上陸、直に宿舎に入り風呂に入り今手紙を書いています。お母様は東京へ御一緒ですかと、あなたによろしくをつたえて居ります。夜は寒い由。隆ちゃんも支那大陸の広さにおどろきの第一印象を語って居るのは面白い。日用品何でもあり、やすい(内地より)支那人苦力が沢山いて色は真黒です等。短いけれどもよくわかるたよりで、二十一日に出立して二十六日手紙書ければ順調に行けたというわけで何よりでした。宛名は
北支派遣沼田部隊気付及川支隊江藤隊
です。こういう字を見ると、達ちゃんとはちがって手紙や小包、時間がかかりそうに思われますね。早速手紙書きましょう。お母さんも芝居にお出かけの前一安心でようございました。
林町の二人お送りしてかえって来ました。菊五郎の「藤娘」なかなか見事であった由。特に音曲がよかったと、お母さんは素養がおありになるから大満足。明朝そちらのかえり写真(一家で)とる手筈になりましたから、追って御目にかけましょう。目白の家だといいのですが、太郎がはしかのなおりかけで外出出来ないから。
宇野浩二が『読売』に、「この頃は作家が片っぱしから流行作家になる、わるい心がけだ」と云っている由。全文よまないからわかりませんが、それだけのことさえ云う作家がすくないから目につきます。久坂栄二郎「神聖家族」という劇、役所のスイセン劇になったそうです。こういう題はパロディーの題ですが、作者ぐるみというのはやはり独特でしょうね。月曜日は九日ね。十日におめにかかります。もう袷におなりになりましたか?
[#ここから2字下げ]
[自注15]奥の手のお望み――転向せよ、という母の希望。
[#ここで字下げ終わり]
五月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月九日 第三十六信
きょうの空は何と青いでしょう。その青空の下に青葉がいかにも爽やかです。ところがその青葉と青空との上に、王子あたりの見当に濛々《もうもう》と煙が立ちのぼっていて、まだ小爆発の音が折々して居ます。夏の白雲のような煙が北に当ってひろがって居ります。飛行機の音がします。つよい風です。
さて、御気分はいかがでしょう。先日うちから気にかかって居り、土曜日のときには実に懸念でした。様々の気くばりやら何やらで本当に御苦労さまでした。私も随分へたばったけれども、そちらは又独特と思われますから。どうか当分大いに悠々と御休養下さい。今は体の苦しいときです。そして気候も大してよくありませんし、手紙なんかどうかお気の向いたとき一筆下されば結構ですから。友人たちにはよくわかるように話しておきましたから、その方も何の心配もありません。お話の電報出しました。あなたの仰云った通りの文言の下にお名を入れ、つづけて「ゴアンチャクニテアンシンツカレオタイセツニ ユリコ」として出しました。「アンチャク・ゴコウイシャス」という電報がそちらからかえったら来て居りましたから。
お母さん、しんから御満足でおかえりになったのは何よりでした。誰の目にもその満足ぶりは明らかであったようです。あなたのお心づかいも決して無駄ではなかったから、うれしいと思います。かえりの汽車の窓で、顔を赤くして涙をこぼしてはハンケチで拭いていらっしゃるのを見たらお可哀そうでした。丁度すぐとなりの窓で出征軍人が盛に「死んでかえれとはげまされ」と歌われているので、猶々感傷であったのです。御一緒にどこかまで行けばと思いましたが、特急でそれは出来ませんでした。でもそれは半分はうれしい涙、満足していなければ溢れぬ涙でしたから、きっともう今日あたりは、さぞやさぞ陽明門や何かのお話で賑やかなことでしょう。私たちは相当大役を果した感じですね。
昨日は大森の奥さんと落ち合ったので一緒に家へ来て本の送り出しをやって、それから雨降りの中を大日本印刷まで出かけ(『改造』の)お話していたテーマでは困ること話し、文学についての感想十五枚ぐらい来月に書くことにきめてかえりました。そしたら栄さんや稲ちゃん、お母さん一日ぐらいおのばしになるだろうと思ったと云って来ました。惜しかった。皆の忙しい時期でしたから。二十六日―七日は。栄さん、お母さんにあげるつもりだったと、いいセルの前かけをもって来てくれていました。島田へ送る由。皆いろいろ心くばりしてくれます、そして、呉々もあなたにお大切にということでした。
去月十三日以来、しず心なかったから、こうして机に向うのもうれしい。うんと本がよみたい。お母さんのおかげで、体の工合もどの程度もつか、相当もつことが確められたのでうれしく、盲腸切ったこと、早ね早おきのこと、やはり大した効果と感じます。そして更に、しんから頭をつかうのでない疲れは、肉体にも何と一時的疲労としてしか及ぼさないかということもおどろかれました。足でのつかれ、のりものでのつかれ、グーと朝までねて馬鹿のような単純な頭で、ケロリとしてしまう。書いているときそのつかれ、緊張、全くそれとはちがいます。
これから当分火・金であるとすれば、こうしましょうではないの。朝おきたら一寸した手紙、毎日(行く日はのかして)書こうと思います。ほんの一筆でも。そしたらそれらは毎日順について挨拶を送り、御機嫌伺いをするでしょう。朝出かける癖になったから私も淋しいから。それから勉強にとりかかるということにして。
書くものの下ごしらえしつつ、前からのつづきの読書又はじめます。先ず手紙かき、それからその本よみ。それから別の仕事。そういう順序でやってゆきます。
『都』の文芸欄の「大波小波」時々面白いものがあり、きょうは翻訳について書いたものがありました。『キュリー夫人伝』その他なかなか売れるその売れかたを日本作家の作品の売れかたとくらべて見ると、日本作家のものが木を見ているに対し、森を見んと欲する人間の心から買われている。人類的な面でものをとりあげている点で買われている。云々と。翻訳賞というようなものがあってもよいと云うことを云っているのですが。
今日真面目な文学らしい文学を求める心が一般に動いている、それとも相通じるものですが。真の文学の要求のつよさそのものが、他面にその生れ出ずることの困難性を語ってもいるわけです。ゆうべも稲ちゃんとそんな話になり、ロマンとこの頃、長篇小説という字にルビつけている、そういうロマンしか存《あ》り得ない。そんな話が出ました。それに文化性の要求というものが、どんなに小市民風なものとけじめなくまざり込んでいるかという点についても。例えば、白いシーツをしいてねたいその位の人間らしい生活をしたい。だが、その一枚の白いシーツの感じかたで、忽ち本質は二通りになってしまう。その区別がなかなか人々の心の中でつきかねている。真の文化性とそうでないものとのちがいが、常に一つものの二つの面としてあるということ。それは又程度のちがった形で自分たちの生活の中にもある。そんなこと話しました。達ちゃんがピアノ習いはじめる由、その先生へ行ったかえりだと二人でよりました。学校へ行きはじめたら達ちゃんすっかり大人っぽくなっている。太郎も幼稚園に行ったら、随分しっかりしたところが出来たし面白い。私がピアノ習いはじめたのは十ぐらいのときね。はじめベビーオルガンで教則本やっていてあとでピアノを買って貰った。本郷切通しの青野という店で、旅順の落ちたときロシアの将校がおいて行ったものだそうで、古風な装飾の一杯ついた、銀色の燭台が左右についたそういうものでした、ドイツ製の。若かった父と小さい娘は或夕方それを楽器屋の店内で見て、大して大きいとも思わなかった。ところが、いよいよ家へ運び込まれて見ると、その黒光りの立派さ! 黒光りの上に燦《きらめ》く大|蝋燭《ろうそく》の美しさ。音のよさ! 夢中になって、夜中まであらゆる出たらめを弾きつづけたことを思い出します。その頃は子供でも大人の教則本、それから練習用の『チェルニー』という本をつかいました。十二三でモツアルトのソナタを弾けば、その頃は大変珍しくて音楽の天分豊かなりと思われたものです。今では、教えかたがちがって、子供用の楽譜(オタマジャクシの大きいの)があり、小学三年から上野の音楽学校の幼児課へ通えます。それだけ水準がたかまって来て、音楽が
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