「風。晴天。二十一日にお墓詣りいたしました。隆ちゃんが宇品を立つ二時二十分ごろ。きれいになっていて、ぐるりの林の中には山つつじの薄紫の花が満開です。山々はどこもつつじの花盛り。賑やかです。その花を折りとってお墓に飾りました。只道が実にけわしくてね。岩根とごしき山をのぼり、まるで「平家物語」よ。お母さんだってあぶなくいらっしゃる。山から雨のとき水がどうどう流れ下る、その溝や洗い出された岩が、つまり道ということにして使われているのですから。ですから年々ひどくなるのです。去年より又ずっと足場わるくなって居ります。
きっとこれが島田からは一番しまいの手紙でしょう。立つ前もう一度お墓詣りいたしましょう。きょうは二十三日。あと四日。一日がせわしくて短くて、そして無限に永い。こういう妙な日々。ではね。
四月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 日光中禅寺湖歌ヶ浜のいづみや旅館より(男体山の絵はがき)〕
なかなか珍しい組み合わせで且つ珍しい小旅行です。只今湖畔の古風な宿の広縁で椅子にかけ小テーブルでこれをかいて居ります。きょうは一日ふらりふらりと歩いて、湖の静かな眺めがなかなかようございます、建築を二度見に来ようとは思わないが、自然はよい、又季節がちがったらどうだろうか、と思わせます。明日は湯元まで四五十分ドライヴしてお湯にも入り、高山の景色もお目にかけて夕刻かえります。山影が湖面に面白い変化を与えて居ます。
五月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月二十三日 第三十五信
野原の小母さままだいらっしゃらない。二階で勉強していると、お母さんが上っていらして、これをお土産にどうだろうと、女のつかう胸からかける前かけをおひろげになった。純綿だが、と。ああこれは大変いい思いつきで皆よろこびます。咲枝、寿江、ひさ、みんな一枚ずつ頂くことになりました。一枚、1.30。東京に木綿のはなくて皆ほとほと閉口していますから。お母さんおみやげを心配なさるから、こちらの例のいりこ(これは決して東京では手に入りません)、ういろう(太郎と目白に下さる由)、それにこのかっぽう着。なかなかやっぱり気づかわれます。でもまあこれもいいでしょう。
おや? 下でどうも賑やかになって来た。小母さまらしいこと。でも呼び出しがかかる迄ねばっていよう。ほら、上って来た、冨美公。きのうチブスの予防注射をしたら腕が痛くて熱が出て、けさ早くは出られなかった由。
御寿司の御馳走が出来るそうで台所は大活況を呈している。私は冨美子と喋りながら、縫いもの。あなたの寝間着。今にもっと暑くなって、その白地に格子のねまきが届いたらどうかよく覚えていらして、体のまわりを横に縫われている線を触って下さいまし。そこに沢山のおまじないがこめられて、あなたの体をぐるりととりまくようになっている(普通のうちあげですが)。由来昔から魔女が自分の愛する者をいつまでも自分のところにとめておきたいと思うとき、その人の体のまわりに輪を描くのがしきたりですからね。二つの腕でだって、やはり描くのは輪ではないの、ね。
顕兄さん、背骨がかゆうてよう眠れまい。これは私が背筋を縫っているときの多賀ちゃんの評です。
――○―― 二十四日
きのうは若い連中三時半におきて出た。目醒しが私。
きょうは四時半。やはりその目ざまし役も買っていたら、お母さんが十二時頃目をおさましになって、もう眠れないからいいということで責任をゆずり。三円七十銭(目ざまし時計の価)の役目終り。今夜帰京の荷づくりをします。午前中本よみということにして二階に上って来たところです。
◎冨美子の英語は三年になると、英語と手芸とどっちに重点をおくか生徒をその希望によって二つに分けるのですって。そして、英語には相当の理由、相当の学力がなければ編入させぬ由。冨美子の英語は甲の由。三年からは英語志望する由。二部へ入るのだし理由はあるわけですね。
◎只今寿江子からハガキ。十五日のつぎは二十一日にそちらへ行ったのですってね。二十四日(今日)行くかどうか書いてないので、二十四日行くものとして速達出したあなたへの伝言届かないうちに二十七日になっては困るので電報出しました。
五月四日 夜。
何と久しぶりでしょう! 深いよろこびの心でこの紙に再び向います。二十三日に書き、二十四日に一寸書いたぎり、十日経ちました。今夕は母上、咲、国と歌舞伎座です。去月の十三日以来、初めて一人の夜。二人きりの夜。二通のお手紙にやっと返事をかくわけです。朝六時から夜九時半までのフール・デェイ・サーヴィス故|何卒《なにとぞ》あしからず。お母さんに、何しろ親孝行の注射みたいなもので、間を相当もって頂かなくちゃならないから、相当太い注射をしなくては、と云って大笑いです。
さて、二十五日の夜は八時二十五分に島田の駅を立ちました。広島で一時三十二分のサクラにのり、相当こんではいたが姫路でお母さんの隣の人が下車したので一人で二つの座席をおとれになりました。大阪の午前八時に私のとなりがあきました。大阪では克ちゃんがプラットフォームまで出ていて、お茶や弁当の世話をしてくれました。(四号車で前部なので、なかなかまわって来ないので)克ちゃん、出羽さんにいたときよりはすこしふっくりして、どこかまだ落付かないが幸福も感じているという若い細君ぶりでした。大して話もせず。お母さんはお土産のういろうをおわたしになりました。克ちゃん、あなたへよろしくとくりかえし申して居ました。
桜の花を眺めて往った東海道は、かえりは新緑。名古屋辺まで実に奇麗でした。静岡をすぎるともう瑞々《みずみず》しさが不足でしたが。お母さんも私も、予想よりずっと疲れず東京に着きました。雨が降っていたので傘をもって寿江子と栄さんとが迎えに出ていてくれたのは思いがけぬよろこびでした。省線で目白まで。なかなか御節約でしょう? 東京駅のプラットフォームで、ひさがかえったときいたときには実にがっかりしました。折角、家らしくおもてなししようと思っていたのですもの。しかし、寿江子も、林町のまつも、よく準備していてくれてね。私が手紙で指図しておいた通り四畳半をきちんとして、私たちの貰ったカーペットしいて、あなたの使っていらした四角い机、足を高くするための木の附け足をちゃんととって、テーブルセンターしいて、そこにチューリップの花が活かって居りました。茶ダンスの上には、特にお母さん御用に買った鏡が立っていて、タオルねまきの新しいのもかえて居り、布団もまるでポンポコなのが出来ていました。一安心いたしました。
二十五日の夜は、何しろあした顕さんに会おうというのですからぐずぐずしてはいられない。お風呂にお入りになり御飯がすみ、九時には床に入りました。寿江子留守にはよくやってくれました。
二十六日は御承知の通り。私には、ああやってテーブルの上に組まれているあなたの手の眺めなど、何と珍しかったことでしょう。いい爪をしていらっしゃるのでうれしく思い、一つ一つの指の爪についている白い半月形をまじまじと眺めました。私は両方の親指のところに浅い半月形があるぎりですもの。ちっとも爪には条が立って居りませんようね。それも何よりです。
あれから私たちは、日本橋の方へ出ました。毎日のことは、一々お母さんのお話で伝えられて居るわけですね。本当に活動的で、うちにじっとしていらっしゃるということはありません。そちらのかえりずーっと引つづいて夕刻の七時八時近くまで次から次へとお動きになります。御丈夫ね。私の方が、折々フーとなって、ああ盲腸がなくなっていてよかったという位。私はデパートは苦手中の苦手なの。でも、お母さんはそういうところでも、やはり興味をもっておつかれにならず、又お疲れにならないで、ここにも入って見ようとお思いになる気持も分ります。買いものぶりもなかなか面白い。いろいろ細々したお土産や御自分の着物なども揃い、もうあとは岩本の小母さんへのお土産を明日上野の松坂屋辺で見ればいいことになりました。
日光は、大成功でした。こちら八時四十五分に出てね、日光着が一時すぎ。それからブラブラ歩いて東照宮など見て、バスで中禅寺に行きました。馬返しというところまで大形バスで、馬返しから湖畔までは普通の乗用がれんらくをする。ひどい人出。九段へ来た遺家族の人も大勢胸にリボンのしるしを下げて来ていました。お母さんは「ハア、とまらんといにましょうや」とおっしゃる。でもお社を見物で大分足が痛んだので湖畔へ出たら、お母さんもさすがに泊っていいお気持になり、又湖の眺めのいい宿がとれたので、早速一風呂二人一緒にあびて、一泊に決定。部屋は大したことがないが、眺望はようございました。只男体山を背負っている位置でしたから、対岸の米屋というのだったらきっともっと景色はよかったでしょう。二十九日に湯元の板屋に部屋をとるように電報して出かけたのでしたが、湯元は満員というわけで、万一雪のあるてっぺんまで一気にあがって、宿はない、かえりの車はない、下でもう宿は一杯というのではわるいので、急に湖辺に泊ってしまった。翌日湯元まで往復六里ドライヴしましたが、泊りはやはり湖畔でよかったと云っていらしたから私も満足です。
宿屋ではドイツの若い人が何人も泊り合わせ、歌をうたったりしているのもお母さんにはお珍しかった様です。姫鱒《ひめます》も中禅寺湖名物で、私は美味しかったが、お母さんは初めてでどうもぞっとなさらなかった由。河魚は身が軟《やわらか》い。それがおいやのようです。それでも、ここの名物と思えば、食べても見たと笑っていらっしゃる。可愛い子には旅させろ、大事な親にも旅させろだろうかと笑いました。
翌日は、戦場ヶ原や白樺林、楢の深山らしい雄大で凄い樹林をぬけて湯元へ登ったら、ここには雪が積っている。湖畔の桜は赤い蕾で日光では満開。湯元で雪のつもっているのを見たら(往来や山に)何とも云えない面白い、奇妙な、感じがして、一寸一言に表現出来ない心持でした。いい心持というのではないの。変な、世界が変ったような、異様な感情ね。盛夏アルプスなんか登って万年雪を見るとき、こういう感じがするのでしょうね。もっと大規模に。私はそうだとすれば、夏はやはり夏らしいのがすきだろうと思います。大変妙ですもの。すぐには馴れられない。
湯元でお母さんは御入浴。御飯。ここでは鯉の洗いと鯉こくを出しましたが、お母さんこれもやはり「旅にしあれば」召上った由。洗いに至っては、こうしても食べられるものかと感歎していらした。私はやはり北ですね。鯉はすきよ、洗いも。中禅寺へ二時半近く下りて来たら、お母さん、日光は一泊するのが実によいが一泊で十分とのことでした。食べ物の関係から。宿やなんか同じようですものね。たしかにそういうところもある。
華厳滝のそばから、話の種にケーブルカアにのろうということでしたが、大層な列を見てヘキエキして馬返しまで同じ自動車で下り、あと電車で駅。八時すぎ無事御帰館。
お母さんの話題は一きわ内容豊富に、おなりです。東宝で「忠臣蔵」を御覧になり、今夜歌舞伎を御覧になり、随分お話の種は粒揃いです。多賀ちゃん、毎日ハガキで家の様子知らして来るので、御安心です。
明日は不忍池を御覧になりたい由だから、そちらからずーっとまわって、もしかしたら林町へよって皆で写真を一つとるように手筈しようかと思います。写真は私、昔ヴェストなどいじったことがあった程度です。一枚は本式のがあってもようございましょう? 記念に。芝居のかえり二人がお送りして来るから、うち合わせて見ましょう。
林町の連中もこの間うちへおよびしたときも、今夕も、わだかまりなくおもてなししているので何よりです。林町の家、謂わば初めてゆっくりお入りになったようなものでね。先のときは、一度目はフィクションの最中で、林町の母が動顛してヒステリーをおこしてしまっていてしゃんとお迎えしなかったし、二度目は国府津にいてお母さんは信濃町だけ。全体から云って、些かいとまある心で、御滞逗
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